音色の研究

川辺都

音色の研究

 早水秋人は探偵である。二十九歳にして小さいながら自分の探偵事務所を持つ、いっぱしの探偵である。

 いっぱしの探偵であるから、浮気調査から猫探し、近所のドブさらいまで何でもやる。ご近所の奥様方には、何でも屋と勘違いされている節があるが、誰が何と言おうと探偵である。

 早水探偵事務所には、もう一人探偵がいる。倉木杏樹という女性である。腰まで伸ばした長い黒髪、抜群のプロポーション、大人びた顔つきに理知的な瞳。事務所の看板娘として申し分のない彼女は、事務所の経理もやっている。有能なのである。

 その彼女が無表情で、秋人の座る席の前に立った。

「所長、電気代が払えません」

 いつものことなので、慌てず騒がず秋人は答える。

「水道代をあてればいいよ、杏樹くん。水道っていうのはね、ギリギリ最後まで止まらないものなんだ」

「水道代をあてても足りないから、報告に来たのですが」

 エンジ色のスーツに身を包んだ彼女は淡々と答えた。このスーツは、前に秋人が所属していた大手探偵事務所の先輩が杏樹にプレゼントしてくれたもので、以来彼女の一張羅だ。早い話、これ以外依頼主の前に着ていく服がない。

 秋人はゴホゴホと咳をした後、両手で顔を覆ってウウっと泣き真似をした。

「いつも苦労をかけてすまないねえ」

 そんなことはいいのよ、おとっつぁん。

 若い杏樹がそんなノリで返してくれるわけがない。彼女がただ黙って立っているので、秋人は泣き真似を止め、今度は本当の咳払いをした。

「次の依頼はいつだっけ?」

「入ってません」

「何も?」

「何も」

「犬の散歩すら?」

「犬の散歩すら」

 秋人は杏樹からゆっくりと視線をそらせた。

「ええっと、どうしよっか?」

「どうしましょうね」

「杏樹くん、目が怖いよ」

「私はこれからの生活の方が怖いです」

 ごもっとも。

 秋人が次の言葉を探しているとタイミング良く電話が鳴った。いろんな意味でしめた! とばかり、秋人は電話に飛びつく。

「はい、早水探偵事務所です」




 一時間後。

 秋人は、とある邸宅の前に自転車を止めた。『早水探偵事務所』の文字が入った黒い自転車が、ギギッと不穏な音を立てる。

 表札に『向日町』の文字を確認して、秋人はチャイムを鳴らした。

「早水探偵事務所です。健三さんはご在宅ですか?」

「待ってたぞ、早水!」

 インターホン越しに元気な声。程なくして玄関が開き、男性が出てきた。秋人の大学時代の友人、向日町健三である。

 飛び出してきた健三は、秋人の両手を掴んでブンブン振った。

「いやあ、よく来てくれた。ささっ、入ってくれ」

 秋人はゲンナリする。健三とは大学の一般教養の授業で、同じグループで発表した仲だ。当時はそれなりに仲良くしていたが、学部が違う彼とは次第に疎遠になり卒業後は連絡を取り合っていなかった。

 世話になったのは、どちらかといえば彼の父親の方だ。

「まず最初に、ご仏前に挨拶させてくれ」

 頷いた健三が仏間に案内してくれた。秋人は、仏壇の前に正座し、まだ新しい位牌を見上げてから手を合わせる。

 健三の父親である向日町秀久は、秋人の大学時代の恩師であった。

 胸の中で挨拶し、ついでに金欠のため手土産がないことを詫びてから、秋人は顔を上げ健三の方を向いた。

「向日町教授が亡くなっていたとは知らなかった」

「もう年だったからな。四十九日の法要を終わらせたところだ。連絡しなくて悪かった」

「それはまあ、構わないけど」

 しみじみと秋人は大学時代を思い返す。

「向日町教授はいい先生だったなあ。俺が『大学を卒業したら探偵になります』って言っても、『うちの研究室からシャーロックホームズが出るのか。こりゃいい』って笑いながら応援してくれたもんだ」

 頭も良く、学会でも一目置かれていた。あんな教授はなかなかいまい。

「おかげで、俺の研究室時代のあだ名はシャーロックだもんなあ。でも、教授はエルキュールポアロの方が好きだったっけ」

「本題に入っていいか」

 大学時代の回想を健三が止める。秋人は大人しく口を閉じた。健三は時計を見ながらそわそわしている。

 健三が秋人を呼んだのは、思い出話を聞くわけではなく、れっきとした依頼であった。秋人は座り直し、両手を健三に向けて広げる。

「手付金、三万円。成功報酬、七万円。それでいいか?」

「ああ、姉さんや兄さんとも相談して、了解をもらってる」

 お金がないのでふっかけたのだが、あっさり了承された。いつもこうだといいのにな、と思いながら、手付金の三万円を受け取る。受け取ってから、教授に向かって、なんかすいません、と心の中で手を合わせた。

 今回の依頼は、向日町教授の遺産に関するものだった。

 健三に案内され居間に入ると、私服姿の男性一人に女性が二人、スーツ姿の男性が一人いた。いずれも秋人とそう年が変わらないであろう人たち。

「奥から、姉の一美に妹の美世、兄の譲二だ。それから、弁護士の矢部先生」

 私服の三人は健三の兄弟で、スーツの一人は弁護士らしい。秋人は、一礼して挨拶をした。

「探偵さん、ですか」

 一美が胡散臭そうな顔をする。

「探偵で親父の教え子。これ以上の適任者はいないだろ」

「まあねえ」

とりあえず、と言いたげな顔で、一美は頷いた。一番手前の譲二が秋人に頭を下げる。

「すみませんが、よろしくお願いします」

「はい、全力を尽くします」

 秋人ももう一度頭を下げる。そして、顔を上げて尋ねた。

「早速ですが、聞かせていただけますか? 向日町教授の遺言を」

 今回の遺産相続問題は、遺言に端を発している。兄弟たちが矢部弁護士を見た。矢部弁護士は一つ頷き口を開く。

「秀久さんの遺言はこうです。自分の遺産は兄弟で四等分すること」

 それについて異論はないらしく、向日町兄弟は同時に頷いた。向日町教授は奥さんを早くに亡くしているから、遺産を相続するのはこの兄弟たちということになる。

 大学教授の遺産かあ、と思う。いくらあるのかは知らないが、四等分しても結構な額になるだろう。

「ただし、同封の問題を兄弟の力を合わせ解くこと。この問題が解けなければ、遺産は全てNPOへ寄付すること」

 矢部弁護士が告げたNPOは、途上国の教育支援をしている団体らしい。

 向日町兄弟の顔が同じように歪む。

「本当に、最後まで勝手なんだから」

「わけのわからない研究で大学にこもって、全然家に帰ってこなかったくせに」

 どうやら、いい教授はいい父親ではなかったらしい。秋人は肩をすくめた。

「それで、問題というのは?」

 向日町兄弟は全員同時に封筒を差し出した。兄弟の息はぴったりである。

 拝見します、と恭しく手に取る。

 封筒にはそれぞれ兄弟の名前があり、中に入っているカードには文字が書かれていた。

 一美のカードには、『水兵が愛する船の十六番』。

 譲二のカードには、『虹の赤の向こう側』。

 健三のカードには、『2.71828182846……』。

 美世のカードには、『kg・m/s2』。

 秋人が顔を上げると、兄弟たちは仏頂面だった。なるほど、と秋人は自分が呼ばれた理由を理解した。最初の二つはともかく、後の二つは理系っぽい問題だ。

 秋人は工学部の物理学科出身であり、向日町教授はその教授であった。教授の専門は波、秋人がいた頃は、音の研究をメインにやっていた。

「失礼ですが、皆様のご職業は?」

 一美が書道の先生、譲二がスポーツジムのインストラクター、健三が老舗デパートの営業、美世がセレクトショップの店員。

 どうやら、向日町教授の理系的センスは誰も受け継がなかったようだ。参ったな、と秋人は頭をかく。

「この問題を解くにあたって更に条件がある」

 健三が視線を送ると、矢部弁護士が頷いた。

「答えを提示できるのは一回だけ。問題を解くため、家の本を調べて構わないが、インターネット検索は禁止。他人への相談は、一名に限り可。この遺言書が開封されてから、十時間以内に問題を解くこと」

 秋人は部屋にかかった時計を見た。お昼の二時を過ぎている。

「開封したのは朝の九時。タイムリミットまであと五時間ない」

 譲二の補足に、秋人はふむと頷いた。

 ネット検索が禁止とは、向日町教授らしい。向日町研究室三大家訓その1。『ネットの情報は玉石混交。調べる時は本か論文』

 そして、逆も考えられる。もしかすると、ネットで調べれば簡単に答えがわかるのかもしれない。

 兄弟たちは不正を防ぐためスマホを矢部弁護士に預けているそうだ。秋人も出すように言われたが、そんな高級品はそもそも持っていない。

「それで早水、何かわかったか?」

 兄弟たちの期待に満ちた目。

 秋人は頷いて、一枚のカードを手に取った。

「とりあえず、美世さんのはわかりました」

 おお! と歓声が上がる。

「何なの? 何なの?」

「『N』です。もしくは、『ニュートン』」

「ニュートン? ニュートンってあのリンゴの?」

 美世の言い方ではリンゴの品種のようだが、意図するところは伝わったので秋人は頷いた。

「ニュートンは万有引力を発見したことで有名ですが、今使われている物理学の基礎を築いた超偉い学者さんです。その最たるものが運動方程式」

「運動方程式?」

「物体に働く力は質量と加速度の積で求められる、というものです。これは様々な運動の基本になります」

「それが、これとどう関係しているの?」

 一美の問いに、秋人はカードの文字を指差した。

「kgは質量、m/s2は加速度、その積であるこれは、力の単位を表します。力の単位は、Nで表記し、ニュートンと読みます。つまり、このカードが意味するのは『N』もしくは『ニュートン』」

 ほーと感嘆のため息がもれる。

「やっぱり早水さんにお願いして正解ね。あたしたちじゃ、一生かかってもわからなかったわ」

「流石だな早水。で、他のカードは?」

 美世の感心したような言葉に頷いて、健三は期待に満ちた目をこちらに向ける。

 うん、期待してもらえるのは非常に嬉しい。嬉しいが、秋人は首を横に振った。

「今のところこれしかわからない」

「えー!?」

 一転して、美世が不服そうな声を出す。

「でもまあ、早水さんのおかげで、この問題が父さんの専門分野に関わることってわかったじゃないか」

 とりなすような譲二の言葉に、一美も頷く。

「父さんの書斎に行ってみましょう。あそこなら、早水さんのヒントになるものがあるかもしれないわ」

 完全に問題を解く係になっている。まあ手付金を貰っているのだから仕方ない、と秋人は向日町兄弟や矢部弁護士と共に書斎へ向かった。不正を防ぐため、全員が矢部弁護士の目の届く範囲にいなければならないらしい。

 向日町教授の書斎には、ずらりと本が並んでいた。大学の教授の部屋もこんな感じだったな、と秋人は懐かしく思い出す。ところどころにある見覚えのある背表紙は、大学の時にテキストになっていた本だ。うん、懐かしい。

 英語の本も多い。向日町研究室三大家訓その2。『英語は必須。世界に目を向けよ』

 そんな感慨とは無縁な向日町兄弟は、秋人の方をジロジロ見てくる。咳払いをして、秋人はもう一度カードを見直した。

「『水兵が愛する船の十六番』。水兵、水兵ねえ」

 秋人は頭をガシガシかく。思い出せそうで思い出せない。

「水兵、すいへい、すいへー!」

 ハッとして顔を上げる。

「スイへーリーベボクノフネ!」

 向日町兄弟はギョッとしたように秋人を見た。健三は恐る恐るといった様子で声をかける。

「どうした?」

「わかった。周期表だ」

「周期表、って何?」

 やや引き気味に一美が尋ねる。

「元素記号を順番に並べたものです。ええっと」

 秋人は教授の本棚から化学の教科書を取り出した。高校生の化学の教科書。学生に教えるのに便利だからと研究室においてあったものだ。表紙の裏の見開きには周期表が載っている。

「これです。化学の時間に見たことあるでしょ」

「あるような、ないような」

「それとこの暗号とどう関係してるの?」

「周期表は最初から順番に『水素、ヘリウム、リチウム、ベリリウム、ホウ素、炭素、ちっ素、酸素、フッ素、ネオン』。これの有名な覚え方は『水兵リーベ僕の船』。リーベは確か、ドイツ語で愛するという意味」

「つまり、この暗号って」

「周期表の十六番目ってこと?」

 向日町兄弟は慌てて化学の教科書を覗き込む。周期表の十六番目は『S』。すなわち、『硫黄』だ。

 譲二は一美の紙に、『S』『硫黄』と書いた。続けて、美世の紙に、『N』『ニュートン』と書く。

「一美姉さんと美世の暗号、どっちもアルファベットが出てくるな」

「ということは、俺たちのも?」

 残る暗号は、『虹の赤の向こう側』と『2.71828182846……』。

 秋人はゆっくりと腕を組んだ。




「虹は、可視光のスペクトルです」

 秋人がそう言うと、向日町兄弟の頭上にそろってハテナマークが浮かんだ。秋人はひとつ咳払いをして言い直す。

「要するに、太陽からやってくる光の中で、人間の目に見えるのが、赤と紫の間ってことです」

「じゃあ、見えない光もあるってこと? 光なのに?」

 美世の言葉に内心でうーんと唸る。世の中、見えない光の方が多いのだが。

「ありますよ。例えば、美世さんも気にされてるんじゃないですか、紫外線」

「紫外線も光なの?」

「ええ。紫の外側って書くでしょ」

 なるほど、と美世は納得した。

「つまり、虹の赤の向こう側って」

 譲二の言葉に、秋人は頷く。

「赤外線のことじゃないかなと思います」

「赤外線って、通信とかに使うやつだよな」

「それだけじゃないけど、まあそれです」

 譲二は紙に『赤外線』と書いた。

「アルファベットは?」

「紫外線だとUVよね」

 一美の言葉に秋人は頷く。

「紫外線は『Ultraviolet』の略で『UV』。赤外線は『Infra red』で『IR』です」

「投資家向け情報みたいだな」

 譲二が言いながら、IRと書き足す。

「早水さんすごいじゃない、もう三つもわかっちゃった」

 美世が嬉しそうだが、秋人は喜んでばかりもいられない。最後の一枚、健三の分の紙を手に取った。『2.71828182846……』。残念ながらこれだけは全くピンときていない。

 ピンときてはいないがヒントはある。末尾が『……』ということは、まだ数字が続いてるということ。そして、他の答えにアルファベットが出てくるということは、これもそうである可能性が高い。ということは、何らかの物理定数だと考えられるわけで。

「円周率じゃないし、重力加速度は9.8だし」

 ううん、と考える。パッと思いつかない。

「まてよ、ルートの可能性もあるか」

 秋人は顔を上げて兄弟たちを見回した。

「関数電卓ありますか?」

「電卓なら、そこにあるけど」

「普通のじゃダメなんです。平方根の計算をしたいので」

 兄弟たち全員の顔にハテナマークが浮かぶ。うん、と諦めて秋人は教授の机の引き出しを開ける許可をもらった。一番上の引き出しに入っていた電卓を取り出し開く。

『2.71』ということは、『2』と『3』の間。つまり、『√4』と『√9』の間で『√9』の方に近い。

 取りあえず『√8』を打ち込んで、イコールを押した。

 2.8284271……。

 次は『√7』と入れてみる。

 2.645751311……。

「うん」

 この間であることは間違いない。間違いないが、この問題でルートの中身を小数にするとは考えにくい。つまり、平方根ではない。

 顔を上げると、美世がしげしげと覗き込んでいた。

「なんか、見たことないキーがいっぱい」

「関数電卓といって、三角関数やルートの計算ができる優れものの電卓です」

「へえ」

「三角関数って何か習った記憶あるわ。これまでの人生で一回も役に立ったことないけど」

 そう言って一美たちは笑う。

 秋人は愛想笑いした。どうやら彼らは、車に乗ったことも飛行機に乗ったこともGPSを使ったこともないらしい。あなたの隣に三角関数。気づかぬところで大事な仕事。だが、その議論をしても意味はない。こんなことをやって人生の役に立つのか、と言われる筆頭が数学なのだ。サインコサインタンジェント、指数関数、常用対数、自然対数、微分に積分。

 まあそれはいいとして。秋人は健三のカードに視線を戻す。『2.71828182846……』は平方根ではなかった。確かに、それぞれの平方根に対応するアルファベットなどない。となればやはり、物理定数のうちの何か。

「でも、確かに」

 この数字、見覚えがある。

 秋人は棚にズラリと並ぶ教授の本を見回した。教授の専門は波、中でも音波。

「音速、は340m/sか。桁が違うな。波長、だと幅が広すぎる。無次元数じゃ値が決まらないから、比例定数? 何の?」

 ブツブツと呟いていた秋人がふと顔を上げれば、健三たちは退屈そうに本棚を眺めたり、椅子に座って別の話をしていた。考える気はないらしい、と秋人は苦笑する。

 とりあえず片付けておくか、と関数電卓を手にとった。教授の子供でありながら、彼らは興味がないらしい。サインコサインタンジェント、指数関数、常用対数、自然対数……。

 自然対数?

「ぬあぁぁぁぁぁ! ネイピア数!」

 秋人が叫ぶと、健三たちはビクリとしてこちらを見た。

「な、何?」

「どうしたの?」

「もしかしてわかった?」

 こちらに寄ってくる兄弟の目の前で、秋人は関数電卓の『e』のキーを押した。表示される値は。

 2.71828182846。

「ああ!」

「凄い! 何これ!」

「アルファベットは?」

「小文字の『e』です。これはネイピア数と呼ばれる自然対数の底……」

「これで全部そろったな」

 譲二が紙に『e』と書く。そして、兄弟の順番にアルファベットを並べた。

 一美の『S』。

 譲二の『IR』。

 健三の『e』。

 美世の『N』。

 繋ぎ合わせて読むと。

「『しれん』ね」

「これは俺たちに向けた『試練』ってことか」

「全くもう。本当、解けないかと思ったわよ」

「解けましたか?」

 矢部弁護士が尋ねると、兄弟全員が笑顔で頷いた。そして代表して譲二が解答を口にする。

「この問題の答えは、『試練』です」

 矢部弁護士もにっこり笑って答えた。

「不正解です」




 追い出されるように向日町家を後にする。

 やれやれと息を吐いて、秋人は早水探偵事務所の自転車に乗る。と、体が沈み込むような感覚。

「げ、パンクした」

 仕方なく自転車を下りて、不穏な音を立てる自転車を押す。

「七万取りっぱぐれたのは痛かったなあ。杏樹くんに怒られる。まあでも三万はもらってるし、取りっぱぐれたことさえ言わなきゃきっと杏樹くんも褒めてくれ……」

「早水さん」

 振り返れば、矢部弁護士がそこにいた。

「お疲れ様でした」

「どうも」

 駅まで歩くという矢部弁護士と共に、自転車を押して秋人は歩みを進める。

「弁護士さんもあの兄弟に追い出されました?」

「泣きつかれました。けれどまあ、故人の意思なので」

「そうですか」

「早水さんは」

 矢部弁護士はこちらをちらりと見た。

「答えがわかってたんでしょ」

 秋人は肩をすくめた。

 集めたアルファベットを並べれば『siren』。確かにローマ字読みならば『試練』と読めるが。

「教授の専門は音ですから。答えはもちろん『サイレン』」

「正解です」

 矢部弁護士はにこりと笑う。秋人はそれに苦笑で返した。

「集めたアルファベットは合ってたのに、弁護士さんも人が悪いですね」

「本当にローマ字読みなら『shiren』になるはずです。早水さんこそ、わかってて兄弟を止めなかったでしょ」

「まあねえ」

 兄弟たちは自分で考える気がなかった。考えようともしなかった。この問題はきっと考えることに意味があったのに。理系ではない兄弟たちが、教授の部屋に入る、本に触れる、それにきっと意味があったのだ。結果も大事だが過程も大事。教授はそういう人だった。

「研究室の家訓に従ったんです」

「家訓?」

「はい」

 向日町研究室三大家訓その3。『他人の意見はアドバイス。自分の頭で考えろ』

「ああ。もう一回、教授の講義が聞きたいなあ」

 呟いて空を見上げ、秋人は笑った。

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