第13話 美桜の悩みと膝枕

 速度違反で捕まらない程度にバイクを飛ばすこと十五分程。無事に美桜のバイト先であるブックオフに辿り着くことが出来た。

 流石に九月も半ばになり、部屋着の上にパーカーを羽織っただけで夜にバイクに乗るのは肌寒く、駐輪スペースでエンジンを切った時にはブルっと身体が震えた。

 寒っ、と思わず呟きながら、ヘルメットを外していると、僕を見つけた制服姿のままの美桜がパタパタと駆け寄ってきた。

「もう、びっくりするじゃない! いきなり待ってろとか言うし、有無も言わせず電話切っちゃうし!」

 さっきの電話の時とは違い、美桜は如何にも怒ってますよ、といった声で、ついでに頬も膨らませてこちらを見つめる。

「悪い悪い、けど、美桜の声を聞いてたらほっとけ無くなって……」

 僕の言葉に、はぁ、と美桜がため息をついた。どうやら彼女自身にも身に覚えがあったらしい。

「さっきの電話でそんなに伝わってた?」

 コクコクと頷いた僕を見て美桜は諦めたような表情をした。

「そっか、変に気を遣わせちゃってごめんね。いま自転車取ってくるから、ちょっと待ってて」


 店先で話すのも落ち着かないので、僕らはそれぞれ自転車とバイクを押して歩き、店のそばにある中央公園まで行ってそれを駐めた。あまり人気のない場所まで歩いて、並んでベンチに腰を掛る。

「ごめんね、わざわざ来てもらっちゃって。春樹くんに心配掛けちゃったかな?」

 さっきとは打って変わって、美桜は作り笑いを浮かべて言った。

「僕が美桜に逢いに来たかったんだよ。むしろこんな時間に待たせちゃう事になってごめん。けど、さ……僕くらいには変に気を使わないでほしいかな……」

「え……」

 少し驚いた様な表情をしている美桜の手に僕は自らの手を重ねる。秋の夜風の中、重ねた美桜の手はとても暖かかった。

「うん、そうだね。ありがとう……」

 美桜が手を繋ぎなおして、楔の様にギュッと固く結ばれる。そして美桜は空を見上げると、少しだけ投げやり気味に話し始めた。

「あーもう、なんか今日ね、すっごい気疲れしちゃってさ。体育のダンスの班分けでは完全にハブられるし、さっきバイト終わってスマホ見たら久しぶりに百合香からLINE着てるし」

「藤堂さんから?」

 僕の疑問に美桜がコクリと頷いた。

「そう。話があるから明日の朝、早めに教室に来てくれって。そんなの急に言われたって困るじゃん!」

「それ、何の話なんだろ?」

 うーん、と美桜も考える素振りをしてから答えた。

「わたしも気になってLINEで聞いたんだけど、明日話すって一点張りで、それだけしか言わないのよね……」

 美桜と藤堂さんが喧嘩騒ぎをしてからもう二週間以上が経っている。その間に散々嫌がらせまでしておいて、今更なんの話があるというのだろう。僕もしばし考えを巡らせたが、答えは出ない。

「春樹くんさ、明日は早朝バイト無いんだよね?」

「あ、うん、次は明後日だから……」

「じゃあさ、明日の朝、わたしと一緒に来てもらっちゃダメ、かな?」

 美桜に頼まれて僕が断るなど最初から選択肢にない。

「もちろん、いいよ」

「本当に!?」

 僕の返答に顔を綻ばせた美桜に頷くと、良かったぁ、とひと心地ついた様子を見せる。

「さっきさ、電話の声を聞いた時、美桜に何かあったんだな、とは気付いたんだ。そうじゃなきゃあのタイミングで美桜から通話なんてしてこないだろうし」

「まぁ、そりゃそっか。なんか無性に春樹くんの声が聴きたくなったの……」

「うん、あるよねそういうの。僕もたまに思うもん」

「なんか照れる……」

 隣で美桜が恥ずかしそうに笑う。

「そんな時は電話掛けていい?」

「わたしに聞かないでよ、恥ずかしいじゃん……」

 美桜はそう言って、相変わらずはにかんでいた。

「あのさ、僕は美桜からたくさんのものを貰ってる。だから逆に僕は美桜に何をしてあげられるのか、って前から考えてたんだ」

「そんなことないのに……」

 美桜の言葉に、僕は首を横に振った。そしてきちんと美桜の目を見て話す。

「僕に出来るのは美桜が望んだ時に側にいてあげることくらい。もしかしたら、今それを一番望んでくれているんじゃないかって思ったからここまですっ飛んできたんだけど……」

 はぁーっと、ひとつ息を吐いた美桜がコテンと僕の胸に頭を預けた。

「そういうの、ずるいよぉ……」

「間違ってた?」

 僕の問いかけに、フルフルと首を振った美桜の背中を優しくさする。

「正直、今日は結構参ってたんだよね。クラスでも女子から痛い視線は受けてたけど、体育で他のクラスからも同じ扱いされたのは流石に堪えたよ……あ、昼休みに言い忘れてたけど、試合、カッコよかったよ! 最後は残念だったけどさ、あの時は応援してて楽しかった!」

「そういう時、何もしてあげられなくてごめん。むしろ僕と付き合ったせいで、男子に媚び売った、って言われちゃったよね……」

「わたしは本当にそういうつもりじゃ無いからね!」

 バッと顔を上げた美桜がこちらを見上げてきた。態勢からして上目遣いでこちらを見てくる格好で、さっきまで涙を堪えていたのか、目元は少し赤くなっていた。必死になっている美桜はどうしたものか、非常にいじらしい。

「分かってるよ。そうじゃなきゃこんな時間に飛んでこないって!」

「そっか、そうだよね。ありがと……」

 目を伏せた美桜をギュッと抱きしめる。

「大丈夫だよ」

 僕の声に美桜が腕の中で頷いた。

「けど、あんまり遅くなると親が心配するかな?」

「そうだね、帰ろっか」

「美桜も自転車があるし、並んで走るだけになるけど、家まで送るよ」

 僕は抱いていた手を離し、立ち上がってから美桜に手を差し出した。

「お言葉に甘えるね」

 僕の手を取った美桜はそう言って立ち上がりつつ背伸びをした。


「…………」

 頬に二度目となる暖かくて柔らかい感情を覚えた。

 何も言えないでいる僕に、美桜は両手を後ろに回し、身体を傾けると、イタズラが成功した子供みたいな顔で笑う。

「これはお礼とご褒美って事で!」

「そ、それじゃそっちのがずるいよ!」

「あははは、けっこう、と言うより、かなり恥ずかしいから一度だけです! さっ、帰るよ春樹くん!」

 美桜は鬼ごっこの鬼から逃げるかのように自分の自転車に駆け寄っていく。

「暗いのに走ると転ぶぞ?」

 どこかの保護者みたいな口ぶりの僕はそれを追いかける。こんな事で美桜の気分が晴れてくれるならお安い御用だ。

 僕は心からそう願った。

 

 家に帰る頃には日付が変わる少し前という時間になってしまった。とかくそれを咎めるような両親ではないが、明日の朝は早めに学校へ向かうとだけは伝えておく。

 それよりも美桜の方は大丈夫だったろうか?

 ベッドに横たわり枕元に置いたスマホを充電しようとすると、美桜から『今日はありがとう』とメッセージが入っていた。

『遅くなっちゃったけど大丈夫だった?』

『それはシフト組んでたって誤魔化した (笑)』

『なら良かった。それじゃまた明日。さっきも言ったけど、大丈夫。明日も僕は側に付いてるから! じゃ、おやすみ』

 やや臭いかもしれない返事をしてすぐ、『ありがとう』というメッセージと、『おやすみ』と書かれたスタンプが送られてくる。

 それを確認してから僕は布団を掛けて瞳を閉じた。

 さっき美桜が話していた藤堂の話が脳裏に浮かんだが、その藤堂も先日、三年先輩から呼び出されていた事を思い出した。

 もしかしたら、ここに来て美桜にコンタクトして来たのには、何か関連があるのかも……そう考えた所で詮無きことだ。

 良い話であれ悪い話であれ、今は何があっても美桜の味方であればいい。それだけを胸に誓うと、僕は眠りについた。


 翌朝、美桜とは八時十五分に学校の駐輪場で待ち合わせた。

 校門の前で美桜と鉢合わせたので、そのまま一緒に自転車を駐めて、教室へと向かう。

 朝練をしている部活の掛け声などが聞こえてくる校内を歩く美桜の表情は硬かった。

 今は俯き気味に僕のシャツの裾を掴んで、後ろから付いてきている。

 僕が教室の手前で立ち止まり、美桜の方を向く。美桜もそれに気が付いて顔を上げると、僕と視線をあわせた。

 不安という言葉が貼り付いたような瞳を向けてくる美桜の頭をポンポンと撫でながら、何度目か分からないが、大丈夫、とだけ口に出す。

 僕の短い言葉に美桜もコクリと頷いた。

 美桜と固く手を繋いで一緒に教室に入ると、藤堂は先に来ていたようで、僕の顔を見て嫌そうな表情をしてから、視線を美桜に移した。

「春樹くんも一緒でいい、よね?」

 僕に目配せをしてから、美桜が先に藤堂に言った。

「はぁ、付き合わせたあんたも無関係、って訳には行かないものね……いいわ、けどこの話は他言無用よ」

「あぁ、分かった」

 そもそもおおやけにしたくない話なのは、場所と時間を選んでいる時点で察する事が出来る。だから藤堂は、暗に僕が信頼に足るか、見定めるかのように言っていた。

 そんな藤堂は、さらに表情を硬くし、美桜に歩み寄った。

「美桜、あなたの言っている事が正しかったわ……」

「どういう事?」

 藤堂の言葉の意図を計りかねて、僕は美桜と藤堂を交互に見やってしまう。

「一昨日、三年の先輩に呼び出されていたのは知ってるのよね?」

「ええ、初めに先輩から廊下で話し掛けられた時、飛鳥君と春樹くんが一緒だったから」

「そうだったの? まぁいいわ。それで昨日、もう一人三年の先輩も入れて、三人で彼の家に行ってきたの」

「え、どういう事? まったく話が読めないんだけど」

 美桜と僕が困惑しているのを悟った藤堂は表情を緩めた。

「美桜、あんたの言う通り、私には男を見る目が無かったみたい。彼、何人もの女の子と身体目当てに浮気してたみたい」

「…………」

 身体目当ての浮気という生々しい話に、僕と美桜は言葉を失った。

「彼の借りてるアパートに行ったら、本命の彼女とは同棲してたらしくて、出て来た女も合わせて四人、もうそこからは泥沼だったわよ」

 辟易したといった表情の藤堂を見て、美桜もうわぁ……という顔をしていた。もちろん僕も同じ心境だ。

 その男に同情の余地は無いが、女四人から問い詰められる姿を想像し、心の中で『南無』とだけ唱える。

「ずっと引きずっていたのが馬鹿らしくなるほど、クズ男だったわ。ちゃんと美桜はそれを見抜いていて、心配して私に注意するよう言ってくれてたのに、私はそれをろくに聞かなかった。それにめっちゃ怒って、彩華まで巻き込んで、美桜にあんな酷いことまでしてたの。美桜には、今更なんだよ、ふざけんな、って言われるかもしれないけど……ごめん」

 そう言って藤堂は美桜に頭を下げた。

「え、ちょっと、いきなりそんなこと言われても……」

 美桜はどうしようとばかりに僕の方を見た。

「彩華や夏希にも、私が悪かったって、この後ちゃんと説明する。東雲も私たちのせいで振り回しちゃってごめん」

「いや、僕は別に構わないんだけど……」

 そう答えてから、美桜と顔を見合わせた。美桜も落とし所が分からない、といった感じなのだろう。

「多分、あなた達は私たちがした悪ふざけの意趣返しに、いかにも付き合ってる様に見せつけてきたんだろうけど、もうそんなフリをする事はないわ。そのせいで美桜は男に媚び売ったって思われてるし、東雲まで男子から悪く言われる必要なんて無いもの」

「ちょっとまって、百合香! それはどういう意味?」

「美桜っ!」

 彼女が即座に食って掛かりそうになるのを僕は引き止める。せっかく仲直りの兆しが見えたというのに、ここでまた仲違いしてしまうのは余りにも悲しい。

「ねぇ、百合香が言ってる事、わたし達が一緒にいるのがおかしいって言いたいようにしか聞こえないんだけど、なんでそんな事言うの?」

 美桜がかなり怒った口調でまくし立てたので、藤堂は一歩身を引いた。

「えっ、だって、美桜と東雲だよ? 二人が本当に付き合ってるなんて誰も信じられない……って、えっ、なに? 本当にあんた達付き合ってるとか言わないわよね?」

 今度困惑の表情を浮かべたのは藤堂の方だった。

 きっと、彼女の言っている事は、周りからみたらごもっともなのだろう。周囲から当てつけの為に付き合っていると見られていたとしたら心外だが、普通に考えたらそうだよな……と、僕自身ですら納得してしまう節がある。

 だからと言って、仮に美桜の学校での振る舞いが全て周りへのアピールで、全部が全部、美桜の演技だったとしたら……

 そんな事を考えるだけでも僕の胸はズキンと痛む。それほどまでに今の僕にとって、美桜の存在は大きくなり、とても大切で、離れ難くなっていた。

 もちろん美桜がそういうつもりで僕と付き合い始めたわけでは無いと分かっているし、信頼もしている。ただ、彼女が弱っている所に付け込む形になってしまったという事実は否めない。中には美桜が孤立したのいい事に、これ幸いとチャンスを伺っていた男子だって多かろう。

 だが、ここでハッキリと言えなかったら、いま美桜の隣に居る意味が無い事を、僕は自覚していた。ならば言葉にして藤堂にきちんと言わなければなるまい。

「藤堂さん、すまない。僕は本当に美桜の事を大事に思っているし、本気で好きだと思ってる。きっと美桜にも同じ様に思ってもらえてると思うんだ」

 僕の言葉で美桜の表情が和らいだ。繋いだままの手のひらを、ギュッと握った美桜に、僕が同じ様に握り返す。

 きっと美桜は、わたしはもう大丈夫だよ、と伝えてくれたのだろう。ここにきてやっと、いつもの美桜の笑った顔を見ることが出来た。 他の人にはきっと分からない、僕たちだけのやりとりは、どんな言葉よりも嬉しかった。

「わたしも春樹くんの事、信じてるから。あなた以上にわたしのそばで、わたしが欲しい時に、欲しい言葉を掛けてくれる人なんて、他にはいないもの」

 僕らの言葉を聞いてなお、藤堂は信じられないと言った表情を浮かべていた。

 それを見た美桜は大きなため息を漏らしてから続けた。

「もう分かったわ、百合香。わたしも言い方が悪かったみたい、ごめんなさい。こういうのって、自分が言われる立場になって初めて分かることもあるのね……」

 美桜の言葉に藤堂だけでなく、僕も首を傾げる。

「好きな人を否定されるって辛いね……わたし、あの人にかなりしつこく言い寄られてて、あの頃はめちゃくちゃ怒ってたから、八つ当たりもあったのかな? 百合香の元カレの事、見境ないとか手が早いとか、えらい言い様だったもんね。もちろん百合香の事も心配してたけど、それが本当かどうかなんて、好いてる本人には関係が無い事だって、いま気付いたの」

 美桜は藤堂の目を見てしっかりと言っていた。

「なるほど、それなら僕は安心かな?」

「もう、春樹くんはそうやって余計な事言わなくていいの!」

 頬を膨らませてこちらを振り向いた美桜に、はいはい、と言って、繋いで無い方の手で、頭をポンポンと撫でた。そのまま美桜は僕に身を寄せてから藤堂の方を見た。

「どう? わたしの彼氏、最高でしょ?」

 自慢げに、ふん、とばかりに鼻を鳴らす美桜が幼く見えてなんだか可愛らしい。

 頭に置いたままだった手で美桜を抱き寄せると、そこまでは予想外だったのか、ふぇぇ  と、美桜が慌てる。

 友達の前で抱き寄せられるのは流石に恥ずかしいらしい。

「はぁ、もういいわ。あなた達が本気で付き合ってるってのは伝わった。なによ、これじゃ私が馬鹿に思えてくるじゃない」

「そう思うなら、男を見る目を養いなさいって!」

「目の前でバカップルやってる美桜に言われてもねぇ〜」

「なによ、文句ある?」

「はあぁ、私は飛鳥君みたいな彼氏が欲しいわぁ〜」

 そこで飛び出た親友の名前に、僕はぶっと吹き出す。

「馬鹿な事言ってるわね。百合香じゃ彼の彼女さんには到底敵わないわよ?」

「えっ!? もしかしてあんた飛鳥君の彼女見たの? そう言えば、東雲と飛鳥君って仲良さそうだし……」

 藤堂が僕の事をムッと、睨むように見つめてくる。

「さぁ、どうだろね、春樹くん?」

「だな」

「えぇ、あんた達、ちょっと教えなさいよ! それ、学年中の女子が知りたがってる事じゃない!」

 その時、教室に新たな闖入者が現れた。

 二人で話しながら入ってきたのは、高梨と大塚だった。おそらく藤堂があらかじめ早く来るよう二人にも伝えたのだろう。

「はぁ? これ、どういう状況?」

 高梨が言うのも無理はない。本気の喧嘩していた友人らが、突然仲良く? 笑いながらふざけた言い争いをしていて、なおかつ片割れは彼氏もどき(彼女らにはまだそう見えていただろう)に抱き寄せられたままという……不可思議にも程がある状況だ。

 うーん、その場に居た僕自身もどこから説明したらいいのかわからない。

 結局は、美桜と藤堂が、さっきのやり取りを二人に説明して、高梨と大塚が美桜に謝る事で全てが丸く収まった。

 そして三人が美桜の悪い噂は勘違いだったと周りに伝える事と、僕と美桜の関係も応援するという、謎の約束? を取り付け、美桜たちは仲直りすることが出来たのだった。

 その後、徐々に登校してくるクラスメイトが増えたが、皆一様にして、クラスを代表する女子たちの仲直りに、驚きの表情を浮かばせていたのは言うまでもない。


 この日、休み時間になっても、美桜が僕の所へと来る事は無くなった。まぁそれが普通なのだろう。

 特に今は、周りの三人が美桜に気を使っているのも分かる。美桜もまた、それを無碍に出来る性格では無い事を僕は察していた。

 時折美桜は、ごめんね、とばかりに、困り顔で僕に目配せをして来ていたので、僕も、いいよ、と笑い返したりする。

 正直、寂しくないと言ったら嘘になるが、言葉を出さないやりとりでも、人の心は温まるんだという事を、今日の二度の経験により知る事が出来た。

 昼休みになって今日は浩介と二人で食べるようかな? と思っていた所に美桜がやって来た。

「休み時間はごめんね」

「平気だよ」

 困った顔で言う美桜に笑いながらそう返すと、ホッとしたように美桜も笑った。

「あーあ、今度は俺がハブられる番かな〜」

 浩介はおちゃらけたふうに言った。

「「そんな事ないって(よ)」」

 言葉を重ねた僕たちを浩介は呆れ顔で見る。

「いいよ、俺の事は良いから、ふたりでどっか行って食べてきなよ。探せばふたりになれる場所くらいはあるだろ?」

 やれやれと肩を竦めた浩介に、悪いな、と言って、僕らは弁当箱を片手に教室を出た。

 自販機で今日のお礼と、美桜にカルピスソーダを奢ってもらい、ふたりでお弁当を広げられそうな場所を探した。

 今まで彼女のいなかった僕には関係のない事柄だったので、気付く事もなかったが、それなりに良さそうな場所にはたいてい先客がいるものだ。

 結局、中庭の端、渡り廊下の横の段差にふたりで腰掛けた。

 周りにも同じ様に短い昼休みの逢瀬を楽しむカップルが見受けられて、初心者カップルの僕らには少しばかり居心地が悪い。

 なんとはなしに、互いにぎこちなくお弁当をつつきながら話していたが、ひとしきり食べ終わる頃には、やっと周囲の雰囲気に慣れてきた気がした。

「ふぅ、ごちそうさまでした」

「ごちそうさまでした」

 何故か律儀にふたりで言い合うのが可笑しくて、揃って笑い合う。

「そう言えば明日は楽しみにしててね!」

「あっ、そうだ、いろいろバタバタしてたけど、明日は美桜がお弁当作ってくれるだっけ。でも、本当にいいの?」

「うん、そんなに手の込んだ物は作れないけど、何か食べたい物とかあるかな?」

「うーん、別に好き嫌いとかある訳じゃないんだよなー」

「それ、一番困るヤツじゃん!」

 美桜のツッコミに、かもね? と笑うと、しょうがないなー、と言って困った様に腕を組む。

 僕の為の献立を考えてくれている美桜の姿が愛おしくて、そっとふたりの間を少し詰めると、美桜がこっちをムッと見た。

 まるでイタズラをする前にバレた子供のようにバツが悪くなった僕は、こめかみを掻く素振りで誤魔化す。

 すると今度は美桜がイタズラっぽく笑った。そして、えぃっ! っと、小さな掛け声と共に、僕にわざとぶつかるようにして残っていた距離を詰めた。

「もう、変な気を遣わないで、って言ったのは誰だっけ?」

「確かに昨日は言ったけど!」

 ふふふっ、っと美桜はおかしげに笑って僕の肩に頭を預けた。

「まわりだってそんな感じじゃん?」

「だね……流石に膝枕はどうかと思うけど」

 美桜が僕の言葉でそのカップルの方を見る。

「なに、春樹くんもやりたかったりする?」

 耳元の、吐息さえ感じる距離で囁かれた言葉に身体がビクリと反応した。

「いや、ちょっと、ハードル高くない!?」

「春樹くん、脚フェチなんでしょ?」

 美桜の発言に、うぐっ、っと言葉が漏れた。それに美桜本人からそんな事を言われたら、ますます意識してしまうのは仕方が無いだろう。

 隆哉にバラされたが、僕が脚フェチなのは事実だし、短く折られた制服のスカートから覗く美桜の脚はすごく綺麗だ。芸術家でも作れないであろうふくらはぎの曲線、細い足首。そして、シミひとつ見当たらない、白くて柔らかそうな美桜の太ももに、直に自分の頬が触れるなんて事を考えたら、それはもう夢のパラダイスだ。

 そりゃ、健全男子なら、脳内妄想をしたことが無いと言ったら嘘になる。

 けれどそれが実現しようものならば、自分の頭がどうにかなってしまいそうだった。

「あ、今わたしの脚見ながら、エッチなこと考えたでしょ?」

 それに増してこのタイミングでこの質問。なんだこれは、ノーと答えても美桜に魅力が無いと言うみたいだし、イエスなら引かれるやつだ。要は正解のない問いかけに、僕の思考はオーバーヒートである。

「えっと、本当にいいの?」

 努めて冷静に、質問をうまく回避しつつ、理性を働かせ、逃げる方向性に話をすり替える。

 グッジョブだ自分! きっと美桜も恥ずかしいだろうし、こんな場所では……

「いいよ。して欲しいんでしょ、膝枕」

「えっ……」

 美桜の予想外の回答に僕は美桜の顔と太ももを交互に見てしまう。

「まぁ、わたしがしてもらうのは恥ずかしいかもしれないけど、やってあげる方ならまだいいかなって」

 美桜の頭を僕の膝枕に乗せるところを想像する……こっちも悪くないなと思った。

 する方、してもらう方、どちらも同じくらい恥ずかしい気もするが、美桜の中での基準は微妙に違うらしい。

 据え膳食わぬはなんとやら、僕は自らの羞恥心と美桜の膝枕を天秤に掛けたが、後者が圧勝した。

 美桜が僕に預けていた頭を起こして、ポンポンと太ももを叩く。

「えっと、失礼します」

 僕はモゾモゾとした、ぎこちない動きで美桜の太ももに頭を預けた。

「どう、かな?」

「あったかい、あと美桜の匂いがする。なんか幸せ……」

 とりとめのない様な言葉しか口に出来ない程、今の僕は本当に幸せだった。右の頬に触れる美桜の太ももは、すべすべと言うよりは、しっとりとしていて、とても暖かい。目の前には至近距離で見ているのに、毛穴なんて無いんじゃないかと言いたくなるような、きめの細かい肌色が広がっている。

 一見すると柔らかそうに見える女の子の太ももだが、その実は人間の筋肉なので、しっかりとした感触があって、思っているより枕としては硬くて高さもある感じがする……そう初めて僕は知った。

 もちろん、それをもってあまりある多幸感に包まれているので、全く気にはならない。

 少しばかり、いや、かなり変態的な発想だが、人間は一度それを手にすると(今触れ合っているのは頬だが)もっと先を望んでしまう。頬で触れるだけでは飽き足らず、身体を支えるフリをして美桜の太ももに右手を添えてしまった。これで指先にも温かさと柔肌のなめらかさが伝わる。

 なおかつ先程から触れ続けている頬は、互いの体温で汗が出るのか、だんだんと湿り気を感じる様になってきている。その事が余計に美桜の肌と自分の肌が直接触れ合っていることを意識させた。

 悪ふざけが過ぎたのでは無いかと、首を少し上に向けて美桜の顔を覗き込むと、下心に満ちた僕を責め立てることも無く、聖母の様な笑みを湛えていた。

「春樹くんが子供になったみたいで可愛い」

 そう言いながら美桜はつんつんとした僕の頭を撫でる。その余りに純粋無垢な美桜の姿を見ていたら、下心丸出しだった自分の矮小さに罪悪感を覚え、心の中でこっそりと懺悔をしておいた。

 そっと目を閉じると、より触れ合った肌を通しての情報量は増える。これ以上の幸せは無いだろう。しばらくの間、僕は穏やかな無言の空気を楽しんだ。

 しばらくして、ふぅ、と美桜がひと息を吐いた。それだけで触れ合った肌越しに、美桜の考えている事が分かったような気がする。

「ねぇ美桜、ぶり返したい訳じゃ無いんだけど、藤堂さんたちのこと、あんなにすんなり許してしまって良かったの?」

「まぁ、わたしも今そう思ってたところなんだけどね」

「懐の深さは美桜の良いところだと思うよ?」

「そうかなぁ……結局、わたしは実利を取っただけだよ?」

「実利?」

 僕は目を開いて美桜の顔を見上げる。

「うん。学年中から白い目で見られる今の状態のままは流石に辛いし、春樹くんと引き合わせてくれたのがあの子達なのも事実なんだよね」

 仕方ないかな、と言って眉を下げ、ほわんほわんといった笑みを湛えた美桜に、そうだね、と言ってまた瞼を閉じる。

「まぁ、君の隣が心地よすぎて、怒る気持ちが失せちゃったってのが本音なんだけどね」

 美桜は指先でつんつんと僕の頬をつっついた。たまに『の』の字を書いたりして、指先を遊ばせる。

 ちょっとくすぐったいけれど、美桜の太ももと指先が両の頬に触れる心地良さに浸っていると、僕はだんだんと意識が遠のいた……


「春樹くん、起きないと次の授業遅れちゃうよ?」

 美桜の声に気が付いたとき、そのうしろで学校のチャイムの後半部分だけが聞き取れた。

「えっ、ごめん、寝ちゃってた?」

「うん、呼んでも返事しなくなっちゃったから、びっくりしたよ」

 美桜の言葉に起き上がるが、いままで右の頬に感じていた彼女の温もりはまだ離れていなかった。思わず右の頬に手を当て、その熱が逃げないようになんて思ってしまう。

「やばい、めっちゃ幸せな気分で寝ちゃった」

「なら良かった」

 いままでお世話になってしまった美桜の太ももを見ると、僕の頭を支えてくれた部分だけが少し赤くなってしまっていた。

「ごめんね、足痛くなかった?」

「ううん、全然。むしろわたしもなんか幸せな気分になってたから大丈夫。だから、またしてあげてもいい、かな?」

「えっ、マジ?」

「食いつき過ぎだよ。けど、ちょっと羨ましかったかな」

「羨ましい?」

「今度スカートじゃない時にわたしもやってもらおっと」

「そういう事か」

 美桜がはにかんで笑ったところでふたりして立ち上がる。さっきのが予鈴だろうから、もう五分と経たないうちに、本鈴が鳴ってしまう。

 教室まで戻る道すがら、美桜はふと思い出したように聞いてきた。

「そう言えば、さっき何の夢見てたの?」

「えっ、夢?」

 美桜が歩きながらコクリと頷く。

「美桜って、名前呼ばれたから返事したけど、春樹くんまだ寝てたんだよね。あれ、寝言?」

 僕はあまりに恥ずかしくて足を止めた。彼女の膝枕で勝手に寝ておいて、寝言で名前呼ぶとか、どんだけだ。穴があったら入りたいとはこの事だ。

「遅れちゃうよ?」

 美桜が階段を上がり始めたので僕も後を追った。

「恥ずか死ぬ……」

 ポツリと呟いたその一言に、今の僕の感情全てがぎっしり詰まっていると言っても過言では無かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る