「呪われた龍にくちづけを 第一幕 ~特別手当の内容がこんなコトなんて聞いてません!~」( 綾束 乙様)

雇われる前にクビですか!?


 ――何でこんなことにっ!


 必死に暗い林の中を逃げながら、楊明珠ようめいじゅは心の中で毒突いた。

 がさがさと、走るたびに草の葉の鳴る音が耳をつんざく。鋭い木々の枝が、まくり上げて露わになった腕や足を傷付けるが、構ってなどいられない。


 借金を返すために働く予定の奉公先が、そろそろ見えてきたその矢先、唐突に不審者が襲ってきた。


 楽をしようと、時間短縮のために林を突っ切ったのが運のツキ。

 人生楽をすれば必ずそのツケが回ってくるというが、早々に回ってきた己の運の無さを呪いたくなる。

 何故、こんなことになってしまったのか。


 話は、数時間前に遡る――。






 がたんごとん、と荷車に揺られながら、明珠は使い古した竹筒の蓋を締める。

 目の前では、少年が遅い昼食の握り飯を食べ終えるところだった。一緒に薄いいちょう切りの大根の梅酢漬けを放り込み、頬を緩ませているのを頬をほころばせて見守る。


「おいしー! ねーちゃん、これ、ねーちゃんが作ったの?」

「そうよ。私の得意技なんだから。でも、これで終わりね」

「……はーい」


 名残惜しそうに見つめてくる少年に、にっこり笑って筒を鞄に仕舞う。喜んでくれたのは嬉しいが、保存食は貴重なのだ。平らげられては困る。

 一息吐いて、明珠は改めて辺りを見渡した。

 木々が立ち並び、緑広がる景色は素朴ではあるが穏やかで落ち着く。心も一緒に穏やかになっていき、少しだけ道を振り返った。


 暮らしていた街を出て、二日。


 明珠は、新しい奉公先の蚕家さんけへ赴く最中だった。

 今日は偶然、蚕家の傍を通るという農夫の親子に出会い、荷車に乗せてもらえたのだ。おかげで、蚕家まであと少し。偶然と彼らに感謝した。

 のんびりと、木々に見守られ、土の道を荷車が進んでいく。

 気持ちの良い風に身を委ねていると、少年が興味津々といった風に尋ねてきた。


「なあ、ねーちゃん」

「なに?」

「蚕家に行くってほんと? あそこって、術師様がいるんでしょ?」


 出会った時の、自分と彼の父親の会話を聞いていたらしい。

 きらきらと好奇心に満ちた瞳で見つめられ、明珠は思わず彼に愛しの弟を重ねてしまった。


 ――二年くらい前は、順雪も、こんな風に好奇心旺盛だったな。


 本当に可愛かった、と想い出に浸ってしまったが、すぐに我に返る。こほん、と軽く咳払いして頷いた。


「そうよ。新しく、侍女として雇ってもらうの」

「え、すげー! ねーちゃん、こわくないの? 術師様って、こわいって聞いたよ」

「あら、恐くないわよ。悪い術師なんて、そうそういないんだから。特に、蚕家は悪い術師を取り締まっている人達だし、大丈夫よ」

「ふうん」


 納得しているのかいないのか、よく分からない顔のまま、取り敢えず少年は頷く。納得しきれないのは当然かもしれないと、明珠も理解はしていた。


 少年の言う通り、『術師』は一般の人には尊敬されると同時に、恐れられている存在だ。


 この世界には、蟲招術と呼ばれる術がある。

 常人の目には見えぬ『蟲』というモノを召喚し、使役する。その術によって、嵐や地震などの天変地異を予測したり、傷を治したり、一般人には不可能なことを実現するのである。

 術師になれるかどうかは、才能次第。万人に一人という奇跡だ。


 そして、その術師の最高峰が明珠の奉公先、蚕家なのである。


 彼の家は、代々宮廷術師を輩出している名家中の名家。故に、人が畏れを抱く最たる象徴でもあった。


「ねえねえ、ねーちゃん」


 物思いに耽っていると、「それよりもさ」と少年が身を寄せてきた。その表情は悪戯っぽく、何やら不穏だ。


「なに?」

「知ってる? 蚕家の庭には、御神木が植わってるんだよ」

「御神木?」

「そう、その御神木なんだけどさ」


 少年は更に身を寄せ、思わせぶりに声をひそめ。


「なんと、人間の血が養分なんだって! ヘマをした召使いは、生き埋めにされちゃうらしいよ」

「え」

「こら! 滅多なことを言うんでねえ!」


 手綱を引いていた父親が、血相を変えて怒鳴り付けてくる。

 だが、少年はぷうっと頬を膨らませ、「ほんとうだもん」と反論してきた。


「十日前も、蚕家の財宝を狙って賊が入ったんだって! 捕まった賊は、御神木の根元に埋められたって言って……」

「だから、滅多なこと言うんでねえっ! っとに、子どもの悪ふざけには困ったもんだべ」


 更に雷を落とし、「すまねえ」と朴訥そうな父親が謝ってくる。

 恐らく、自分の口から蚕家に吹聴が伝わってはと心配している部分もあるのだろう。怯える父親の気持ちを汲んで苦笑する。噂の真偽など、当の本人達にしか分からないものである。


 だが、十日前など、やけに具体的だ。


 少しだけ首を傾げると、困った様に父親が頭を掻いた。


「十日前に、この付近で賊が出たのは本当だべ。身分の高いお方の馬車が襲われて、蚕家の者が助太刀したとか」

「賊……」

「でも、御神木の話は嘘だべ。賊は、まだ捕まってねえんだから」


 言いながら、父親が恐ろしげに太い首を竦める。

 賊と蚕家、どちらに怯えているのか。明珠には判断が付かなかった。






 そんな風に、他愛の話をしていると、時間はあっという間だった。

 分かれ道に辿り着き、荷車が緩やかに停車する。


「すまんが、娘さん。わしらの村はこっちだから、乗せてやれるのはここまでだべ。蚕家に行くなら、あっちの道だ。まだまだかかっちまうが……」

「いえいえ、助かりました。本当にありがとうございます」


 頭を下げ、感謝を告げる。

 幸いにも、今日は荷車に乗れたのだ。体力も温存できたし、今日中には辿り着けるだろう。

 そうして、道を見渡して――はたっと一点に目が留まる。

 二股に分かれた道から逸れ、もう一本見えるか見えないかの獣道を発見した。


「あの。この獣道、どこに続いているんですか?」


 聞かれて、父親が「ああ」と頷く。


「この道は、蚕家の裏口へ続く道だべ。こっちの道の方が近道だが……普段は人っ子一人通らねえ道だ」


 言外に「危険だ」と警告してくれていたが、今まで誰とも出会わなかった。そう考えると、大差は無い気がしてくる。

 それに、時間が短縮されるのならば、その方が良い。


「どれくらい近いんですか?」

「んー、普通の道なら蚕家の正門に着くまで、あと一刻にじかんはかかっちまうが、獣道からなら、四半刻さんじゅっぷんばかりで着くだ」

「うーん、それなら……」


 獣道へ行こう。

 決心して足を踏み出すと、少年が明珠の腕の裾をつかんできた。


「御神木があるのは、裏門の近くだよ。いいの?」


 少しだけ怯えた顔で、少年が問いかけてくる。

 先程の、逸話のことだろう。少なくとも彼は、本気で信じているから心配してくれているのだ。

 優しい子だ。益々家に置いてきた弟が恋しくなる。

 嬉しさと郷愁を胸に留め、軽く少年の頭を撫でた。


「いいわよ。御神木っていうからには、きっと大きな木なんでしょ? いい目印になるわ」


 ごく普通に言ってのければ、父親が感心した様に息を吐いた。


「はあ、肝っ玉の強い娘さんだな。まあ、間違っても蚕家を通り過ぎることなんてねえだ。敷地全部が、ぐるぅりと高い壁で囲まれてるからな」

「そうなんですね。親切に、色々ありがとうございます」


 もう一度、丁寧に頭を下げる。

 道のことも、彼らに会わなければ知らなかったことだ。本当に助かった。


「じゃあね、ねーちゃん。気を付けてね」

「うん。じゃあね」


 ぶんぶんと手を振ってくれる少年に手を振り返し、明珠は荷物を抱え、獣道へと踏み出した。






 ――のが間違いだった。

 おかげで、もう少しで着くと気が緩んだところで、不審者に襲われる羽目に陥った。

 人数は、五、六人。全員男性。

 黒装束に身を包んだ彼らは、こちらを見るなり腰の剣に手を伸ばし、足音も無く、しかし速やかに迫ってきた。



 ――もしかして、昼間、親子が話していた賊……っ!?



 十日前の話なのに何で、と思ってすぐに、捕まっていないとも聞いていたと振り返る。

 時間がかかっても整備された道を行けば良かったと後悔したが、もう遅い。



 捕まったら、殺される。



 そんなことになれば、全て終わりだ。自分がここに来た意味も潰える。

 身を翻し、がむしゃらに暗い林の中を走りながら、明珠はひたすら前を見据えた。心臓が爆発しそうなほど苦しかったが、泣き言は全部飲み下す。

 それでも男達は少しずつ、着実に距離を詰めてくる。足音がほとんど聞こえないのが、逆に恐ろしくて背筋が震えた。

 だが。



〝姉さん……大丈夫? ぼくなら大丈夫だよ〟



「――――――――」



 不意に脳裏を過った、弟の言葉。

 そうだ。負けてなどいられるものか。



 ――私は順雪のために、しっかり稼ぐんだから!



 家に残してきた幼い弟を思い浮かべ、己を奮い立たせる。

 そうだ。逃げて、生き残って、稼いで、借金を返す。そのために、嫌々ながらもここへ来た。


 そのためにも、ここで捕まって終わるわけにはいかない。


 力強く地を蹴り続ければ、大きな壁が見えてきた。聞いた通り、裏門だろう立派な門構えを目にし、あれが蚕家だと確信を抱く。

 気配がもう、すぐ後ろまで迫ってきている。呑気に門など叩いている余裕は無い。



 ――お願い、母さん。力を貸して!



 着物の合わせに右手を突っ込み、首から提げた守り袋を握り締める。

 守り袋は、亡き母の形見。いつだって、自分を勇気付けてくれていた。

 だから、もう大丈夫。



「――《大いなる彼の眷属よ。その姿を我が前に示したまえ。板蟲っ》!」



 気合一閃。

 独特の呪文を唱え、明珠は飛ぶ。

 同時に、空間がぐにゃりと歪んだ。そのまま、揺らぎながら真っ平らな板の様なものが、明珠の足元から壁へと向かって一直線に走った。


「――《飛んで!》」


 飛び乗って指示を出せば、まな板の様な存在は、ふわりと舞い上がった。

 背後でどよめきが聞こえるが、構いはしない。


「――《あの塀を乗り越えて、板蟲》」


 更に指示を出せば、まな板――『板蟲』と呼ばれる蟲は、胴体から生えた細長い薄い羽をふよふよとはためかせ、更に空高く舞い上がった。緩々としか動けないのがもどかしいが、追ってくることは出来ないだろう。


「……良かった」


 うまく発動したと、しゃがみ込みながら、ほっと胸を撫で下ろす。『蟲語』と呼ばれる呪文で呼び出したこの蟲は、頑丈で力持ちなので、自分が飛び乗ったことで潰れることもない。

 緩やかだったが、無事に塀も乗り越えた。ふっと、少しだけ息を吐いて前を見据えると。



 越えた先。壁の向こうには、厳かな大樹が壮大に空に向かって伸びていた。



 空を覆い尽くさんとするほどに伸びるその姿は、ひどく荘厳な雰囲気をかもし出し、状況も忘れ、一瞬明珠は目を奪われる。この家に、真偽が入り混じった噂話が流れるのも無理は無いと、ため息が漏れた。

 その大樹の脇を通り過ぎ、生い茂る枝葉に触れた途端。



 ――ぐしゃっと、握り潰される様な感覚が足元から襲った。



「――え、きゃっ!」



 瞬く間に足元から板蟲が掻き消え、体がふわりと宙に浮く。

 そのまま、為す術もなく落下していく己の体に、明珠は焦る様に手を伸ばした。

 だが、掴んだ枝はすぐに折れる。体も次々と辺りの枝葉を折り続け、地面が無情にも迫ってきた。



 ――落ちる……っ!



 目を固くつむり、来たるべき衝撃に身を強張らせた時。



「――ぐっ!」

「―――――」



 呻き声と同時に、背中に不思議な衝撃を受けた。

 一瞬息が詰まったが、予想していた様な激痛は襲ってこない。何故だろう、と起き上がろうとして――ぐにゃっと、支える右手が予想とは違う感触を訴えてきた。



「――っ!?」



 慌てて下を見れば、見知らぬ人物が憐れにも自分の下敷きになっていた。え、え、と混乱しながらも、青年ということだけ確認し、さあっと血の気が引いていく。


「ご、ごめんなさい!」


 急いで青年からどこうとしたが、何故か体に力が入らなかった。

 それどころか、ふらりと世界が一瞬揺らぐ。胸のあたりもむかむかし、吐きそうだ。

 もしかして、打ちどころでも悪かったのだろうか。強制的に術を解除された影響もあるかもしれないと、回らない頭で考える。


「ごめんなさい、あの、賊が……っ」

「――、賊?」


 呆気に取られながら素直に下敷きになっていた青年は、しかし急に顔色を変えた。あっという間に明珠を抱き上げ、素早く立ち上がる。


「きゃっ!」


 いきなり体を揺らされたせいで、吐き気が酷くなってきた。眩暈も強くなっていき、思わず彼に手を伸ばし――服とは違う感触をなぞる。

 え、と揺らぐ視界で明珠が見ると。



 そこには、着物がはだけた青年の素肌があった。



 ――きゃーっ!!



 素肌。

 何故、素肌。素肌なの。

 どれだけ強い決意を灯していようと、明珠は未だ、十七歳の未婚の少女。間近にある男性の素肌は、刺激的に過ぎた。


「ご、ごめんなさ、お、おろ」

「賊は、侵入していないようだな」


 こちらの混乱など露ほども気付かず、青年は静かに状況を観察している。肌、肌、と目を回しながら、明珠は彼を見上げた。



 改めて見つめてみれば、彼はとても美しい若木の精の様な人だった。



 これから雄々しく伸びてゆく、若木を連想させるしなやかな体つき。凛々しい顔立ちは、もう少し柔らかければ女性と見紛うほど整っている。

 黒曜石を散りばめた様な長い髪は艶やかで、背中で一つに束ねられているのもまた美を彩っていた。


 自分は、神仙が住まうという神仙郷に来たのではないだろうか。


 そう思うほどに、彼はとても凛々しく美しい青年だった。

 しかし、ほうっと見惚れたのもつかの間。

 またも、青年の素肌に触れているという現実を直視し、明珠の顔がぼっと熱くなる。



「本当にすみませんでしたっ! 下ります! 下ろしてくださいっ」



 慌てて青年の腕から飛び降りようとして、ぐらりと視界が回った。せり上がってくる吐き気を堪え、口元を押さえる。


「どこか怪我をしたのか!? ひどい顔色だぞ」


 焦った様に青年が、力強い腕で明珠を抱き直す。

 その拍子に、今度は頬が青年のはだけた胸板に触れ、「きゃーっ!」ともう一度心の中だけで盛大に叫んだ。いっそ、そこら辺に放り出して欲しい。



 ――だから、どうしてはだけてるの! 素肌! 隠して!



 わめきながら、しかしもしかして、と理由に思い当たる。

 自分がのしかかったせいで、その拍子に着物がはだけてしまったのではないか。

 ならば謝らなければと、蒼い顔で彼の衣服を撫で。


「……っ!」


 今度は絶句した。

 滑らかな感触は、明らかに綿ではない。同時に、鼻先をかすめた芳しい香に、更に血の気が引いていった。



 ――絹っ!



 貴族しかまとうことはない生地に、絶叫したくなった。

 下りたいという切なる願いも吹っ飛び、眩暈と吐き気のせいで霞む視界で、青年を見た明珠は。



「……っ、きゃ―――っ!!」

「ど、どうした!?」



 とうとう断末魔の様な絶叫を上げた。青年が負けじと噛み付く様に叫んできたが、構ってはいられない。

 目の前には、べっしょりと薄紅色に塗れた着物があった。

 恐らく原因は、明珠の荷物にあった、お得意の大根の梅酢漬けだ。落下の衝撃で、使い古しの竹筒が壊れたのだろう。


「ふっ、ふく! わた、よご……っ!」


 回らない頭で、血の気が一気に外へと流れ落ちていく。

 絹の着物を汚したなど、洒落にならない。弁償代を考えただけで気が遠くなっていった。


「……、き、きもち、わ」


 眩暈と吐き気とトドメの目の前の衝撃で、胃のむかむかが強まっていく。頭もお腹も濁流が暴れ回り、全身が痺れていく様だ。


 ――駄目だ。吐きそう。


 しかし、青年の腕の中で吐いたら、もう弁償代どころの騒ぎではなくなる。


「震えているぞ。ひとまず屋敷へ――」

「ゆ、ゆら、さ……っ」


 こちらの具合の悪さに焦ったのか、青年が明珠を横抱きにしたまま駆け出す。揺らされすぎて、更に吐き気が加速した。

 だが。


 ――死んでも吐くものか!


 体に力を入れ――。


「―――――っ」


 その瞬間、腹から恐ろしいほどの悪寒が全身を駆け抜けた。

 まるで、底なし沼に囚われた様に、力が抜けていき。



 ――母さん、順雪、……。



 明珠は、そのまま気を失った。 






 呆然と、神木の傍に立つ人影を見つけ、張宇は急いで駆け付けた。

 異変を察し、嫌な予感がしてここまで来たのだが。


「―――――っ」


 神木の傍に立つ青年を見て、張宇は鋭く息を呑んだ。

 目の前の信じられない光景に、青年よりも深く呆けてしまう。


「……い、いったい……」


 声は、音になっていただろうか。

 目の前にいるのは、もう一度会いたいと願って止まないその人だった。



 だが、決して会えないお方でもあったはずだ。



 それが、何故。


「わたしも驚いている。いったい何が起こったのか、一切わからん」

「――っ」


 青年の声に、はっと我に返った。同時に、彼が抱く少女に気付く。


「――その者は?」


 知らぬ者への警戒に、反射的に腰に下げた剣の柄に手をかける。


「突然、神木から降ってきた。この娘が触れた途端、


 青年が、不思議そうに腕を抱いた娘を見つめる。

 張宇も、釣られて娘を観察した。

 みすぼらしい格好ではあるが、顔立ちは愛らしい。年齢は十六、七歳くらいだろうか。絹の衣服を着て、綺麗に紙を結わえてしまえば、名家の令嬢と言っても通じるだろう。

 そんな彼女は、苦しげに眉根を寄せている。顔も青白い。体調が思わしくないのは、火を見るより明らかだった。


「とにかく、離邸に戻りましょう。季白なら、何かわかるかもしれません。……お体の具合は?」

「いや、特に悪くはない……と思う」

「そうですか。では、その娘はわたしが預かりましょう」


 青年に近付いた張宇は、ふと風に乗ってきた爽やかな梅酢の匂いを嗅いだ。

 見れば、青年のはだけた着物の合わせが、見事な薄紅に染まっている。

 そんな視線に気付いたのか、青年は何か思い出したらしく、楽しげに頬を緩めた。


「聞いたことのない、素っ頓狂な悲鳴を上げていたぞ」


 面白そうに喉を鳴らす青年に、張宇は肩を竦める。何となく、娘の胸の内の想像が付いた。ご愁傷様だ。


「すぐにお召し替えの用意を致します。さあ、その娘をこちらに」


 手を差し延べれば、青年は何故か身を引いた。

 はて、と疑問符を浮かべれば、青年が躊躇う様に視線をふいっと逸らす。


「娘一人くらい、自分で運べる」

「いけません! 得体の知れない者をおそばに置くなど!」


 強めに言い聞かせれば、青年は不承不承、娘を差し出してきた。

 その体を丁寧に受け取った途端。



 目の前から、青年が掻き消えた。



「っ!?」



 驚きで身構えた直後、娘の両手がだらっと落ちてしまい、慌てて抱え直す。

 そうして少し息を吐いて視線を下にずらすと、そこに『彼』はいた。

 またも驚愕で目を丸くしていると、不服そうに彼は、ずいっと両腕を突き出してくる。



「もう一度、その娘をよこせ」



 しかめ面をした『少年』は、先程までとは違う高い声で命令する。娘の腕をつかんで引っ張られ、張宇は咄嗟に頭を振った。


「無理ですよ! 抱えきれずお倒れになってしまいます!」

「大丈夫だ」

「根拠なく断言されても譲れません!」


 だが、不機嫌極まりないまま、少年が抱えた娘に抱き付いてきた。

 眠る娘に、抱き付いて甘える様なその構図。

 見ようによっては、可愛い光景だが。



「……戻らんな」



 ぼそりと、不服に呟いた少年の声は、可愛い雰囲気とは程遠い。

 張宇も先程の姿を思い起こし、返す言葉が無かった。



「なぜだ。さっきはいったい、何が起きた……?」



 独り言の様に囁くその問いに、答える者は誰もいなかった。


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