サミュエルベケット/短編小説集

 サミュエルベケット短編小説集 読んだ!

 反古草紙がすごいよかった。


 ベケットってググったけど不思議な人ですね。社会的にそこまで無名な人ではなかったのに、書き物はすごくネガティブ。孤独と絶望。短編集の中にはホームレスとして死んでいく男の話が多かったです。劇作家だったらしく当時としては革新的な「何も起こらない」抽象的な劇を描いているらしい。知らなかった。誰かベケットさんの続報をご存知でしたら教えてください。演劇方面の人、どうか。


 反古草紙は死んだ男の回想という体を取っているのだけど、ぶつ切りの意識。何者でもない。何者にもなれない。男。がなにものにもなれない話を語っている。語るそばからばらばらに解けていく。人生の。かけら。と言うにはあまりにも稚拙な。


 現代人にとって「何者でもない」というのはとある名前をもった恐怖を連想させるのではないだろうか? ベケットの感性は極めて現代的であったのではないかと想像する。解説には、ベケット本人は反古草紙を失敗作とみなしていたのだとあった。私は短編集に含まれていた作品の中のどれよりも面白いと思った。自我同一性の獲得に失敗した現代人と言う感じで非常に趣がある。




 ADHDと文筆というのが最近の私の調べ物のテーマだ。

 実はつい最近まで作家になるにはASDあるいはASDと併発したADHDである必要があるのではないか、と感じていた。自分には適性がないと思っていたのだ。


 でもベケットの散漫な文章を読んでいると励まされる。こんなに胡乱な自意識を抱えながら文学や演劇と格闘していた人がいるのかと思う。

 そう思うとADHDと演劇と言うのは相性がいいのかもしれない。そもそも我々の人生はひとり劇場みたいなところがあり、個人の人生そのものが喜劇であり悲劇でありメロドラマである。幕が閉じるとともに役ごと切り替えていく。幕の内には別に何も残らなくてもいい。


 役になりきるという適性はあっても、構想を練って一つの劇、作話としてまとめていくのは散漫な人間には難しい。町田康、川上未映子、本谷有希子。私が自分と同じ香りがする、と思う人たちは大概続けることや大きな物語の中で生きることを拒んでいる。


 町田氏の告白は確かに長編であった。新聞連載であったと聞く。私はそこに一貫したテーマや複雑な構成を感じることはできなかった。歌劇のような、昔の歌舞伎のような幕、として見て楽しめても「まとまり」や「うねり」のようなものを感じることはできなかった。その代わり語り口や押韻を利用してものがたりの「見せ方」を再構成するのはうまい。


 私は自分のできないことはさておいて、読むときは構成とか一貫性に重きを置いてしまうのだ。できないことに憧れるのは悪いことではないと思う。仕方がないんだ、惹かれてしまうのだもの。


 ADかつHDだなぁと感じる作家さんに共通する才能は音楽性、衝動性、勢い、新奇性、諦観。世の中に期待しないこと。絶望を知ること。足るを知らないこと。欠乏への耐性。

 集中力だけは仕方ないね、持続しないからね。飽きないように工夫を凝らすしかないね。でもベケットの作品はほぼADHDの頭の中が丸出しみたいで、私はすごく衝撃を受けたし感動してしまった。まとまりがなくてもここまで書けたらうらやましいなぁと思ったのだ。こんな丸出しで書いてもいいんだなぁと思った。


 つい最近までできないことを数えて悲しんでいたけど、今は違うよ。自分にできることを少しずつ伸ばしていけたらいいなぁと思っている。

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