第28話戻ってきたはいいけれど

 式子内親王しょくしないしんのうは兄、以仁王もちひとおうが反乱直前まで

居住していた三条高倉さんじょうたかくらの御所に住んでいた。

この屋敷は式子たちの母親、藤原成子ふじわらのなりこの実家である。

成子は3年前に他界していた。

 この屋敷は以仁王がつい半年ほど前まで生活していた

場所であるため、能書家であり楽才に恵まれた王が

愛用していた筆や楽器などが

たくさん残されていた。そういう品々を

見る度、兄を失った式子内親王しょくしないしんのうの悲しみはいっそう深まった。

「これはお兄様が子供の頃に書いた落書きだわ。

 20年以上経っているのにまだ残っていたなんて。」

と屏風のいたずら書きを見つけて

式子はめそめそしていた。

「ここはお兄様との思い出が多すぎてつらいわ。

 でもここに住んで帰りを待っていれば

 いつか再び会えるような気がする。」

と式子はうつうつとした日々を過ごしながら

じっと耐え忍んでいた。

 ようやく泣き止んだ式子が定家の姉、竜寿りゅうじゅ

そばに呼んで兄との思い出などを語っていると、

こちらに近づいてくる足音が聞こえてきた。

「もしや、お兄様が帰ってきた?」

と式子が期待に胸をふくらませて入ってきた人を見ると、

月の光を背に浴びながら、以仁王そのひとが立っていた。

「お兄様!会いたかったわ!」

と号泣しながら式子は、

以仁王に化けた定家に抱き着いた。

竜寿は遠慮してその場を外した。

 定家は式子と抱擁することをあんなに待ち焦がれていた

くせに心が弾まなかった。

「姫様をこんな卑怯なまねで、

 だましてしまっていいのだろうか。

なんか、すごく罪悪感を感じるなあ。

 人の気持ちをもてあそぶなんて

 おれは最低の人間だ。」

と定家は気分が沈んだ。

「しかし姫様は泣いている顔もお美しいな。

 色白のほおがほんのりと赤く染まって

 長いまつ毛が涙で濡れて、絵にも描けない美しさだ。」

と定家は式子のたぐいまれなる美貌を

眺めることを忘れてはいなかった。

 とうとういたたまれなくなった定家は

「ごめん、夜が更けたから、まろはもう帰らなくちゃ。」

と以仁王の口真似をしながら

その場を逃げ出そうとしたが、

「どこへ行くというのです?こんな夜更けに。」

と式子に袖をつかまれて身動きできないので

定家はあせった。

「そうだとも。下手に動いたら

 また平家の手の者に捕まるぞ。

 それにまだ子供たちにも会っていないじゃないか。

 姫宮は姉上(亮子内親王りょうしないしんのう)と共に

 都を離れているから若宮だけでもここに連れてこようか。

 それとも若宮はおれの弟子になっているから

 明日そこまで行こうか。」

と守覚法親王が横から口を出した。

八条院は毅然とした態度で平家から若宮を守り、

結局、平家も若宮を殺さない代わりに

出家させることで合意したのだ。

「今日の弟は様子が変だな、

 おれに対しても妹に対しても

 なんだか他人行儀なんだよな。」

と年子の兄である守覚法親王は

にせの以仁王のおどおどした様子を見て

不審に思っていた。

「あっ、高倉宮様(以仁王)にはお子様がおられる

 のをすっかり忘れていた。

 幼い子供たちまでだますのは気がとがめる。

 ただでさえ父を亡くして心に傷を負っているだろうに。」

と定家は目の前が真っ暗になった。

 以仁王はなかなかの発展家だったらしく、

多くの妻妾との間に子供たちをもうけていた。

 しかしなんといっても、八条院筆頭女房の三位局さんみのつぼね

が最愛の女性であり、事実上の正妻であった。

彼女との間には一男一女がいた。

息子は若宮と呼ばれ、当時5歳くらい、

娘の方は当時3歳くらいで三条姫宮と呼ばれていた。

反乱計画が平家に漏れて皇族の身分を奪われ、

以仁王は源以光みなもとのもちてる

と改名の上、土佐の国へ流罪になることが決まった。

 以仁王を捕らえにきた検非違使けびいし

屋敷を包囲された5月15日の晩、

長姉の亮子内親王りょうしないしんのうがその場にいたが、彼女は

幼い三条姫宮を伴って間一髪で脱出に成功した。

もともと亮子は四条しじょう通りに住んでいたが、

亮子の住んでいた御所は史上まれに見る大風で

戸が破損してしまい住めなくなった。そのため亮子は

弟の以仁王の御所に身を寄せていたのである。

 その後、摂津国せっつのくににある貴志庄きししょうまで三条姫宮を連れて

亮子内親王は疎開して今に至るまで都を離れていた。

 耐えきれなくなった定家はついに

自分が偽者であることを告白しようとした。

 ちょうどそのとき、

「ただ今帰ったぞ。」

という声がして、もう一人、市女笠いちめがさをかぶり、

女装した姿の以仁王が現れたので、

守覚と式子の兄妹は仰天した。

式子はその拍子に定家の袖を離したが

定家も意外のなりゆきに呆然として

逃げるどころではなかった。

「おお、いとしの妹よ、それに兄上も!

 また会えるなんて夢のようだ。

 あれ?まろがもう一人いる?」

と後から現れた以仁王はにせの以仁王を見て

目を丸くした。

「お許しください!僕は偽者です!」

と定家がその場にひざまずいて泣き出した。

「おのれ!本物の弟だと思ったからこそ、わざわざ

 寺を抜け出してあやかしどもを退治したのに

 偽者だったとは!なぜ早くそれを言わぬ!」

と眉毛をつりあげ、赤鬼のごとく真っ赤に

なった守覚は前に使ったのと同じ扇を

墨染の衣の懐から取り出して

にせの以仁王を打った。するとたちまち

定家はもとの姿に戻ってしまった。

 式子は慌てて御簾みすの後ろに逃げ込んで扇で

顔を隠してしまった。高貴な女性は家族以外の男性に

顔をさらしてはならない決まりだからだ。

「なにがなんだかわからない。

 この間、わたしの和歌の師である俊成としなり殿がこの人を

 連れてきたとき、テイカは定家さだいえの音読みで

 変化へんげの術を使ってわたしに会いにきた子供と

 同一人物だと気づいたけどわたしは

 知らん顔をしていた。だから

 その腹いせにわたしをだまそうとしたのね。

 そのうえ、もう一人偽者のお兄様まで

 送り込むなんて許せない!」

と式子はすっかり憤慨していた。

 定家をらしめるため、守覚が

今にも例の呪文を唱え出そうとしたとき、 

「兄上、おやめください。何かわけがあるのでしょう。」

と以仁王がやめさせた。王は定家の方に向き直り、

「テイカではないか!なつかしいな!

 ずいぶん会っていないような気がする。

 ところでそなたはなぜまろに化けたりしたのだ。

 影武者になってまろの身代わりになってくれたのかな?

 前にも危ないところを助けられて感謝してもしきれないよ。」

とおひとよしの以仁王は定家に助け舟を出してやった。

 定家は恥じ入って何も言えずにうつむいていた。

「まさかおまえも偽者じゃないだろうな。

 こんな変な奴に味方しおって。

 狐かなにかが化けているのかもしれぬ。」

と守覚は眉間にしわを寄せながら、

さっきの扇で後から現れた以仁王を打ったが、

今度は何も起こらなかったので安堵の表情を浮かべた。

「本物の弟だとわかって安心したよ。よく来たな。

 そなたは平家の手にかかって

 死んだものと思ってあきらめていたのだ。

 しかしその格好、よく似合うな。

 そこらを歩いている女どもよりずっと美しいぞ。」

と言ってあだっぽい女装姿の弟の肩をぽんとたたいて笑った。

「お兄様!今度こそ本物なのね!」

御簾みすの向こうから飛び出した式子が

以仁王に抱き着いた。2人の姿はまるで双子の姉妹のようだった。

定家はそのすきにこっそり逃げ帰った。

「まろは園城寺おんじょうじを逃げ出したあの晩、

 鳥居の前で敵に追いつかれ、

 殺されそうになりましたが

 危ういところを無敵の女武者に救われ、

 今まで遠くに逃れていたのです。」

と以仁王が守覚に言った。

「平家の奴ら、皇子を殺そうとするとは許せん!」

と守覚はカッカと興奮して叫んだ。

「ところでまろは長いこと都を離れていたのですが

 元号は今、何に変わっているでしょうか。」

と以仁王が泣いている式子の背中をさすりながら守覚に尋ねた。

「そなたは妙なことを聞くな。

 今は治承じしょう5年の1月であろうが。」

と言われて以仁王は真っ青になった。

「なんという見込み違い!

 平家が壇ノだんのうらで滅亡したと

 書物で呼んだので、平家没落後の

 都に帰ってこようとねらってわざわざ

 未来から戻ってきたのにあの恐ろしい晩から

 わずか半年しか経っていないとは!

 これでは何のために戻ってきたのかわからん!」

と叫ぶなり、気を失ってしまった。

よく気絶する男である。

「お兄様!どうなさったの!」

と式子はうろたえて兄を抱き起した。

「なに!?平家が滅ぶだと!それはまことか!

 そなた、先ほど未来から戻ってきたとか言っていたが

 それはどういう意味だ!」

と守覚は以仁王のほおをぴしゃぴしゃたたいて

叫んだがもちろん返答はなかった。


 



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