第6話 御簾の向こうの愛する人

 御簾みすの向こうで苦し気にうめくが聞こえる。

藤原定家ふじわらのさだいえは不惑と呼ばれる

40歳になっていたが、

愛する女性が苦しむ様子を見て、

おろおろと取り乱すばかりであった。

式子内親王しょくしないしんのうは50歳近くなってから、

重い病に倒れ、日に日に弱っていった。

今や命のともしびは消えようとしていたが、

高貴な姫宮は病と闘ってもがき苦しんでいた。

乳にれものができて足がむくんでいたという

症状から、彼女をむしばんだ病は乳がんであったと思われる。

「代わってあげたいが、それがむりだというなら、

 せめて苦しみをやわらげて差し上げられればいいのに。

 おれはあの人のために何の役にも立てないのか。」

と定家はあふれる涙を袖でぬぐった。

「初めて対面した時も御簾越みすごしだった。

 あの頃の宮様(式子)はまだお若くて元気だった。

 なぜ数々の素晴らしい歌をまれる方がこのように

 苦しまなければならないのだろうか。」

と定家は嘆いていた。20年近く前の思い出が定家の脳裏に浮かんできた。

 治承じしょう5年(1181年)正月、当時19歳の藤原定家ふじわらのさだいえ

式子内親王しょくしないしんのうからのお召しで

初めて内親王の御所を訪れた。

当時、内親王は母である藤原成子ふじわらのなりこの実家である、

高倉三条第たかくらさんじょうだいに居住していた。この邸宅は

内親王の祖母である、待賢門院こと、藤原璋子ふじわらのしょうし

(1101~1145)が崩御ほうぎょした場所であり、

異母兄、二条天皇にじょうてんのうが生まれた場所でもある。

 父の俊成としなりに付き添われ、

定家は内親王と御簾みすを隔てて対面していた。

「ああ、憧れのあのお方が御簾の向こうに

 いらっしゃると思うと、緊張するなあ。

 天女のような姫宮様は、麝香じゃこう

 薫物たきもの(お香)の上品な香りに

 包まれて俺などの手の届かない雲の上にいらっしゃるのだ。」

と定家は寝不足で少し痛む頭で考えた。

前の晩、期待と不安でろくろく眠れなかったのだ。

 取次の女房が俊成と定家のもとにやってきてこう告げた。

「宮様が琴を弾いて聞かせてくださるそうです。」

「いや、うちの不肖の息子のためにありがたいことで。」

と老いた俊成は恐縮していた。

 やがて繊細せんさいで優美なしらべが響いてきた。

聞き覚えのある旋律せんりつに、

「いつだったか、姫宮様が兄宮さまと過ごしていた時に

 弾いておられていたのと同じ曲だ。」

と定家ははっとした。後で触れることになるが、

式子内親王が琴を弾いて、兄である以仁王もちひとおうの笛と

合奏していたとき、定家はこっそりその場に居合わせていた。

以仁王は前年に平家に対して挙兵を呼びかけ、

敗れた後、非業ひごうの死を遂げたらしい

という噂で都はもちきりだった。

「やはり恋しいお姿はちらりとも見えない。

 予想していたことだが、まことに残念だ。」

と定家は冷たい板敷の上に座りながら考えていた。

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