森の中で(出会い・クーノ視点)

 久しぶりに雨が降っている。

 恵みの雨というような優しいものではなく、何かを奪い去るような激しい雨だ。

 これは……人間が森に入り込んだ兆しだろう。

 この森の悪意がそれに反応して、その人間を拒絶して降らせている雨だ。

 ということは、森の中でこの雨に打たれて往生している人がいるのか。

 早く探してやらないと、この雨はやがて体温を奪い、その人を弱らせてしまうだろう。


 人が入り込んでいるのなんて本当に久しぶりで、だからどこにいるのかは気配ですぐわかった。

 森の中ほどで、その人はしゃがみこんでいた。小さな人影――近づくと、それは幼さの残る女の子だとわかる。

 いたずら者の男の子が迷い込んで来るならいざ知らず、もうお転婆をする年頃は脱したように見える女の子がなんて……。

 どうしてここにいるのか気になるところだけれど、とりあえずは家に連れ帰ってやらないといけない。


 そっと近づいて抱き上げて、女の子で良かったなと思った。これが大人の男だったら重たくて僕には運べなかっただろうし、そもそも運びたくない。野垂れ死んでしまえとは言わないけれど、助けることにあまり気が進まないのはたしかだ。


(早く温めてあげないとね)


 女の子の体は冷たくて、唇も青くなっていた。相当に弱っているのが見てとれたから、家へ向かう足取りが自然と早くなる。

 人間はか弱いから、こんなことでも簡単に死んでしまうのだ。だから、早く濡れた服を脱がせて体を拭いて、暖かくしてやらないと。せっかく見つけてあげられたのだから、みすみす死なせるわけにはいかない。


 そんなことを考えていたら、雨が少しずつ弱まり出した。


(まだ、繋がっている部分があるのか)


 捨て去ったはずなのに、まだ僕とあれ・・は無関係ではないらしい。

 舌打ちしたくなるほど憎らしい事実だ。

 あれがまだこうして僕と繋がっているうちは、僕は人と関わることを慎まなければならないのだから。


 もう何十年も前、僕は村から追われた。

 村の人々はありもしないことを信じ、不幸や災難の原因を僕に押しつけたのだ。

 家を焼かれ、殺されそうになった。刃物を持って追い回された。

 人々は、憎しみや恨みをものすごい勢いで僕にぶつけてきた。

 そして僕も、人々と同じように真っ黒な感情に塗りつぶされてしまったのだ。

 恨み辛みをまき散らし、そのままにしておけば村全体を負の感情で覆い尽くしてしまうと思った。

 だから僕はそうならないために、自分の中の黒い感情を切り離して、森の中に捨ててきたのだ。

 そうすることで何とか、黒い感情に支配されて村を飲み込んでしまわないようにと考えていたのだけれど……切り離したくらいでは、まだどうにもならないみたいだ。

 

 ひとまず、僕は女の子を助けるために抱えて歩きだした。

 人間のことはまだ許しきれていないけれど、この子を死なせてしまうのは嫌だったから。

 それに、許しきれていないとはいっても、人恋しさは当然あった。誰かと触れ合いたいという気持ちは、長い間あった。

 そんな気持ちを満たしてくれるかもしれないと思うと、抱える腕に自然と力がこもった。



「早く目を覚ましてよ」


 連れ帰り、体を拭いて着替えさせてあげても、女の子はなかなか目を覚まさなかった。

 普段はあまり意識しない昼と夜というものを気にしてみると、丸三日は経ったようだ。この女の子は、かなり長いこと眠っているということになる。

 小さな蕾みたいな唇はスゥスゥと控えめな寝息を立てているし、顔色も戻ってきているけれど、目が開かれる気配はまるでない。

 早く、どんな表情を浮かべて、どんな声でおしゃべりするのか知りたいのに。


 そういえば、人というものはこう何日も食事を取らないと死んでしまうものではなかっただろうか。

 だとしたら、無理に起こしてでも何か口に入れてやらないといけない。

 久しぶりに会った人間が、そんなにあっけなく死んでしまうのは嫌だ。

 これからたくさん、この子とおしゃべりするのだ。一緒に何かを食べたり、森を歩き回ったりもしたい。きっと、すごく楽しいだろう。

 そんなことを考えていたら、ふと嫌な考えが頭をよぎった。


(目が覚めたら、この子は自分の場所に帰ると言い出すかもしれない。そうじゃなかったとしても、何か嫌なことを僕に言うかもしれない)


 そんなことを思うと、胸が苦しくなった。

 せっかく久しぶりに人に出会えたのに、この子はどこかに行ってしまうかもしれない。僕をがっかりさせるかもしれない。

 ……それなら、ずっと目覚めないまま可愛いお人形さんのように眠っていてもらおうか。

 それとも記憶を封じて、僕とずっと仲良くしてくれるような別の記憶を植え付けようか。


(たとえば、この子は僕の恋人とか。……それはあまりにも厚かましいから、妹なんていいかもしれない)


 楽しげなことに思えたけれど、冷静な自分がどこかでそれはダメだと言っていた。

 我に返って、さっきまで考えていたことが恐ろしいことなのだと気がつく。

 雨に当たって、あれの考えに引きずられたのかもしれない。

 偽物の記憶を植え付けても、それは本当にこの子が僕と仲良くなったのとは違う。そんなことは無意味だし、虚しいだけだ。それに何より、この子の人格を無視したことはしてはいけない。


 思い直して、僕は台所に向かった。まずは、何か温かいものを飲ませてやらなくてはいけない。揺さぶれば、さすがに起きるだろう。起きたら、温かな甘いお茶飲ませてあげなくちゃ。

 そのあとは、食事だ。スープとパンと、欲しがるならもっと色々なものを食べさせてあげよう。


 してあげたいことを考えるだけで、少し楽しくなってきた。

 長い長い時間ひとりでいたせいで、誰かのために何かをするというだけでわくわくする。

 僕がしたことで、あの可愛らしい女の子が喜ぶかもしれない。そう思うと、どうしようもなく気持ちが浮き立った。

 だから、お茶を持って部屋に戻ったとき、女の子が目覚めていたのが本当に嬉しかった。

 ドアを開けて、ベッドの上に体を起こした彼女を見たとき、僕の心臓は軽く飛び跳ねるように鼓動を打った。開かれたその目が、鮮やかな緑色で、大きくて可愛いことがわかって、嬉しくてたまらなくなった。


「起きたんだね、知らない女の子さん」


 おはようとか初めましてとか、言葉はいくつか思いついたけれど、何を言えばいいかわからなくなって、僕はそんな言葉を口にしていた。

 この子が目覚めてくれたことが嬉しくて。

 この子と出会えたことが嬉しくて。

 とにかく嬉しくて。




 楽しい時間はあっという間で、夜が明けたらこの女の子――エミリアは旅立つ。

 長い時間をかけて浄化されてなくなるようにと願って僕から切り離した悪意――村の人々は魔物と名づけている――が、エミリアの村に異変を起こしているらしい。それを解決するために、彼女は行くようだ。

 天涯孤独の身になったエミリアは、森の異変を探るという名目で村からやってきたのだ。ようは、体よく追い出されたということだろう。

 そうやって差別され、村から弾き出されたというのに、それでもそんな村のために危険を冒すのだという。


 魔物を倒すということは、すなわち僕を倒すということだ。そう考えると、エミリアとの出会いはなんて皮肉なんだろうと思う。でも、たぶん潮時だったのだ。

 どれほどの時間が経っても、憎しみは雪(すす)がれない。それどころか少しずつ漏れ出して、村に悪影響まで与え始めた。

 それなら、そろそろ僕は滅ぼされなければいけないのだろう。


 だから、今夜でエミリアとはお別れだ。

 眠たくないだなんて言っていたけれど、髪を撫でて子守唄を歌ってやったらすぐに眠ってしまった。

 明日送り出してしまったら、もう二度と会えない。次に僕たちが出会うのは、森の奥で、倒す者と倒される者としてだ。

 そう思うと、最初で最後に、この温もりを知っておきたくなった。


「……エミリア、怒るかな?」


 起こさないようにそっと、エミリアの眠るベッドに潜り込んでみた。元々僕ひとりが眠るためのベッドは二人で寝るには狭くて、ぴったりと寄り添わなくてはいけなくて、エミリアの体温が伝わってくる。

 小さく細い体だ。でも、しっかりと鼓動を打って、生きているのだと主張している。力強く、命の音を刻んでいる。

 人間はか弱いけれど、こうやって短い時を懸命に生きているのだ。

 その命のきらめきが眩しくて、尊くて……だから僕は人間が好きだったのに。


 ほんの少しの間だったけれど、エミリアと過ごすことで、僕は人間を好きだったという気持ちを思い出すことができた。

 ひどいことばかりではなかったのだ。かつて村で暮らして、楽しかったこともたくさんある。

 虐げられ、憎まれ、命を奪われそうになるまでは、僕だって人間を恨んでなどいなかったのだ。

 そのことを思い出せたのは、すごく尊いことだ。

 小さなエミリアが、それを思い出させてくれた。


(さようなら、エミリア)


 まだ当分目覚めないだろう小さな女の子に向かって、僕は心の中でお別れをした。

 できることなら、お別れなんてしたくないけれど、エミリアが行くというのなら笑って送り出してやらなくてはならない。

 なぜなら、僕はこの子の“神様”だから。

 本当は、そんな大層なものではない。それでも、エミリアがそう呼んでくれるのなら、僕は彼女の神様でありたい。

 神様としてお別れをして、魔物の元に送り出すのだ。

 そして僕は、彼女に倒されてこの世界からいなくなる。

 皮肉な出会いだと思いながらも、どこかで運命的だとも思ってしまう。

 僕は、僕に人間に対しての好意を思い出させてくれた女の子の手によって、最期を迎えるのだ。

 人間が好きで、でも人間に憎まれ人間を憎んだ僕に相応しい最期だ。


「エミリア、出会えてよかった」


 最大の愛と感謝を込めて、僕はエミリアの頬にそっと口づけた。

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森の魔物と春待つ乙女 猫屋ちゃき @neko_chaki

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