第41話屈辱にまみれて

 しずくは床の中でしばらく夢の余韻に浸っていたが,

左手の親指にずきんと鈍い痛みを感じ,

「あいたっ!」

と悲鳴を上げた。その瞬間しずくは先ほどの

母親との口論を思い出し,怒りが再びよみがえってくるのを感じた。

「ようし,自殺してあの女に思い知らせてやる。

 これから何十年もぐだぐだと我慢我慢の人生が続いて行くなんて

 真っ平ごめんだね。どうせ死ぬのは同じなんだから,

 ちょっとくらい早めたってバチ当たるまい。」

としずくは毒づいた。

「それに,死んだらまた由紀や猫たちに会えるかもしれない。

 そうしたら,あの夢で見た花の咲き乱れるレンガを敷き詰めた道を

 二人で仲良く歩こう。」

 しずくは制服に着けるネクタイをたんすから取り出した。

しずくの学校では女子の制服はネクタイとリボンが併用だったが,

着脱に手間隙がかかるため,ほとんどの女子が用いていなかった。

(ただし始業式や終業式など式典に出るときはネクタイ限定だった。)

 そしていすを踏み台にして,カーテンレールにネクタイを結び,

輪を作った。背の低いしずくは踏み台の上で

つま先立ちにならなければならなかった。

「よし,できあがり!これでもうこんな世の中とおさらばできると思うと

 せいせいする。」

しずくは顔を歪めて笑みを浮かべた。

 しずくはネクタイで作った輪の中に頭を入れ,踏み台から体を離したが,

ネクタイが喉仏にぐいぐいと食い込んでくる痛みに思わず顔をしかめた。

「なんだなんだ。ネットで検索すると,首吊り自殺には苦痛はないとか

 一瞬で意識が飛ぶとか書いてあるけど,こんなに痛い思いを

 しなきゃならないじゃないか。」

 あまりの苦しさに耐え切れず,しずくは踏み台の上に足をつけようともがいた。

吐き気がこみ上げてきた。

「だめだだめだ。ゲロにまみれて死ぬなんて。」

と思い必死で我慢したが,とうとう胃の内容物を床にぶちまけてしまった。

そのとき,例の黒い動物が部屋の中の少し離れたところにいることにしずくは

気づいた。それは床の上にちょこんと座って,ぶら下がりながらもがく

自分をじっと見上げていたのでしずくはぞっとした。

 ようやくしずくは着地して輪を首から外した。一分にも満たない

わずかな間,首を吊っただけなのに,頭がぼうっとして腕もしびれていた。

「まずいな。頭がくらくらしてまわりの景色もかすんでみえるぞ。」

 しずくはさっきの愚考を後悔していた。床の上に撒き散らした

ぬるぬるした吐寫物を見ると,

自殺に失敗した自分への嫌悪感でいっぱいになった。

以前週刊誌で演歌歌手が首吊りに失敗して後遺症で寝たきりになったという

話を読んだことを思い出して身震いした。

「いかんいかん。失敗したら廃人同様になっちまう。やっぱり青酸とかが

 いいかな。でも薬局じゃ売ってくれないだろうな。飛び降りは

 小学校のころためしたけれど,ベランダから身を乗り出しただけで,

 怖くて怖くてやめちゃったんだっけ。」

としずくは過去のことを思い出した。

しずくは小さい頃から情緒不安定で自己肯定感が低かったのだ。

「そういえば,8つのときコンセントで自分の首を絞めたけど苦しくなって

 やめたことがあったっけな。それを見た母親が『ああ,こいつ吐くわ』

 と言いながらゲラゲラ笑ってきて本当に不愉快だったっけ。」

「せめてあの女を殺してやれたら・・・。でも向こうの方が強いから

 負けちまうだろ。それに少年院に行くのは絶対にごめんこうむる。」

 しずくは机の上に飾られた,写真たてに目をとめた。

そこにはネコを抱っこしている由紀の写真が入っていた。

「ああ今では由紀もネコもこの世にいないのか。あの頃は楽しかったなあ。

 二人でネコにリードをつけて野原に散歩に出かけたりして。

 ああ神様,早くわたしを死なせてください。」

しずくは暗澹とした気持ちで何時間も

しゃがみこんだままじっとしていたのだった。

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