The last scene アンパンマンのシルエット

 明子が仕事を始めたいと言い出したのは、それから2週間後のことだった。

 その瞬間、透と明子は由比ヶ浜にいた。

 鎌倉の旅行が中途半端に終わってしまったから、そのリベンジをしようということで再び訪れたのだ。


 ホテルNAGISAは建物と看板だけを残して、物思いに砂浜を見下ろしている。

浜辺歌男と美声の姿は、もちろんない。

 こうして思い起こしてみると、たしかに全てがウソのように感じられる。 


「だいぶ、風が涼しくなってきたかな」

 様々な回想をしながら、透は言った。

「それで、どんな仕事をするっていうの?」

「図書館の司書をしようかなって。萩の図書館は地域に開かれていてね、子どもの読み聞かせとか、お年寄りを対象にした講座を開いたりしてるみたいなの」

「君の読書経験が多くの人に還元できるっていうことか」

「そんな大した経験はないけどね」

 明子は左手に伸びる逗子の岬を向いて言った。

「やっぱり、誰かと触れ合わないと、どうしてもマイナス思考になってしまう。一人きりで時間があるっていうのは、ネガティブになってしまう」

「お、ついに明子がプラス思考になったんだな」

 肩まで伸びた明子の髪を潮風が揺らした。浜辺にはヨットが数隻浮かんでいる。

「べつにプラス思考っていうわけでもないわ。私、過去に戻りたいの」

 透にはまた嫌な予感がよぎった。

「大丈夫よ。前みたいに死にたいとか言わないから。まだ何も知らなかった子どもの頃の私に戻りたいのよ。お父さんもお母さんも生きていた頃の自分を思い出したいのよ」

「その心は?」

「私ね、最近、不思議な記憶が戻ってきたの。生まれる前の記憶。私は両親の愛情をたっぷりと受けていた」

 潮の香りをたっぷりと含んだ潮風が明子の髪を揺らす。

「1人で音楽を聴きながら、昔のアルバムをめくると、私がいるお腹に手をやるお母さんの写真がある。たぶんお父さんが撮ったのよ。両親は愛し合っていて、私の誕生を楽しみにしてくれた」

 透は明子の横顔を見た。彼女は潮風に目を細めている。


「私の命と引き替えに、お母さんは亡くなった。でも、両親の私への愛情は、変わらない。私は愛されてきた。その頃の記憶が蘇ってきたの」

「もしかすると、脳が再生されたのかもしれない」

「そんなばかなって思うでしょ? でも、じつは私も同じことを考えていたのよ」

 明子は透の喉元辺りに目を遣りながら言った。


「そんなことを考えるとね、じっとしていちゃだめだって思ったの。もっと、いろんな人と関わりたいって急に思ったのよ」

「いやいや、愛された記憶と人と関わりたいって思うことがどうつながるのか、よく分からないよ」

 透が言うと、明子は笑った。

「つながるのよ、それが。ちゃんと想像してよ」

「山口に帰ってから想像するよ」

「いろんなことを経験したけど、どうせその時が来たら死ぬんだから、今自分が生きていることに対して、意義を見いだしたい」

 明子の頬には涙が伝う。


「実朝、だったっけ?」

 透は目の前に広がる相模湾を見ながら話を変える。

「実朝もこの由比ヶ浜を眺めながら、いろんな想像をしたんだろうな」

 涙は次から次へとあふれだす。

 夏の終わりの潮風は、どこか湿っぽい。


 怜音が角瓶教授の研究室に入ったという連絡を受けたのは、それから約半年後の春先だった。

「まだまだ慣れないみたいだけど、彼女はこれからだよ。今は私の秘書をやってもらってるけどね、彼女にはガッツがあるよ。山下君の話はしないでおくから、くれぐれも無用な心配はしないように」

「分かりました。もし私に出来ることがあれば、何でも言ってください」

「たぶんないと思うよ。最高のシナリオは、彼女が研究者として自立することだ。彼女には何年かここで修行して博士号を取得してもらうことにしている。彼女の人生を、人類発展のために生かしてもらいたい。おっと、電話が入ったようだ。悪いが私は国家プロジェクトを3本も抱えているから、これ以降なかなか電話に出られんが、悪く思わんでくれよ。君は君で元気にやってくれたまえ」

 そう言って角瓶は一方的に電話を切った。


 鎌倉から帰ってきて2週間後の日曜日、萩市図書館に足を運んだ。

 明子が幼稚園児に絵本の読み聞かせをしている。

「アンパンマンは言いました。『やい、バイキンマン、お前のパソコンを返せ。お前はそれで世界中の人間に電流攻撃をしようとしている』。するとバイキンマンは言い返しました。『うるせえ、アンパンマン、お前にも電流攻撃を喰らわしてやるぞ!』。バイキンマンはそう言って、パソコンのスイッチを押しました」

 子どもたちは食い入るように聞いている。みんな、アンパンマンを応援している。

 次のページをめくった後、明子は透の存在に気づく。

 彼女は恥ずかしそうな笑顔を浮かべた後で、話を続ける。


 図書館の窓の外には松の木が茂っていて、すぐ近くの菊ヶ浜から吹く風が窓を揺らしている。

 萩と鎌倉は姉妹都市協定を結んでいるという。だからか、菊ヶ浜から吹く風はそのまま由比ヶ浜まで届いていきそうな気がした。 ( 了 )

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潮風のMemory スリーアローズ @mr10

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