第41話 外伝9 犬君は乳母になりたい!!

ひたすらに屋敷の中を走り抜けました。私が余りにも必死の形相で走っているからでしょうか、顔を見てひきつった悲鳴を上げて、道をあけるものたちまでいる位です。

それほど必死になって走っている自覚はもちろんあります、私はこれでも宮中女房、悲しい事実として、にたような年齢の女の子を一人、いつまでも抱えて全力で走る事は出来ないのです。

息が切れています。目が回りそうです。ああ、こんな事になるくらいだったら、意地でもこっそり邸を抜け出して、走り込みでもするんでした!

そんな後悔も先に立たずというわけで、息が切れて足がもつれて、でも私は、なんとしてでもこの神域から、私の大切な姫君を連れ出さなければならないのです。

息が切れてめまいがする? そんなもの、姫様がここで苦しみ泣き濡れて暮らす事とどちらが問題だというのでしょう。

だって。本当にやっと、幸せってものを手に入れられた人が、こんな形で幸せを奪われて、屑Gの元に行かされる可能性があるなんて、考えたくないんですから!

私はひいひい言いながら、それでも姫君に笑いかけました。


「大丈夫ですよ、絶対に、この、犬君が、姫様をあの方の元に連れて帰るんですからね!」


「犬、君……」


「姫様は犬君を信じてくれればそれで大丈夫です! ね!」


「……」


汗をびっしょりとかいて、顔を真っ赤にして、息も絶え絶えでも、私の意地が姫様に不安を見せません。そうして、やっと、出口が見えてきました。


寝殿造りってものがいやに馬鹿でかいかを証明する長さです。もっと距離がなければ、息が切れる前にここから飛び出せたに違いないでしょう。

私はここで気合いを入れ直しながら足を動かし、そして、そして……転んだのです。あまりにも普段の運動量が足りなかった結果でした。


「うわああああああ!!」


私は姫様を落とすまいとしたものの、がたがたになっていた腕が、姫様を放り投げてしまいます。


「ひめさま!!」


顔面をしたたかに打ち付けました。私はそれでも顔を上げて、姫様をすぐにお助けしようと立ち上がろうとしました。

姫様は、着地が上手く行ったのか、それとも運が良かったのか、すぐに立ち上がってくれました。


「いたぞ!!」


「やたらに早い子供だ!!!」


「逃がすな!」


後ろからそんな声が聞こえてきます。私は姫様が、こちらを見て、明らかに追っ手がきているのがわかったんでしょう。

どうしたらいいのかと言う顔をしたのです。

だから、私は。


「走って!!! 今ここでだけ、お姫様としてのあれこれを捨ててください!! 髭黒様のもとに、あなたは帰らなくちゃいけないんです!! 巌丸という男が、あなた様を捜しています!! 黒駒と一緒にいる人です!! 狼童が、逃がしてくれたと言えば、必ずあなたを、髭黒様の元に連れて行ってくれる、信頼に足る男です!!!」


立ち上がろうとして、忌々しいほどふらふらする足を呪いながら、肺にいっぱいに空気を吸い込んで、怒鳴りました。


「あなたが!!」


「行って!! あなたがここで連れ戻されたら、私は何のためにここまで来たって言うんですか!!! あなたが髭黒様の所で、幸せに笑ってくれる事を腹の底から望んで、駆けつけたんです!! 行って!! 走って、早く!!!!!!」


それだけ言うので限界で、姫様が、一瞬も迷わないで、出口に走ります。そして神域と山の中をつないでいるのだろう、出口に飛び込み、静寂が訪れて……私は追っ手達に、容赦なく杖で叩かれました。


「なんて事をしてくれたのだ!!」


「童子一人でよくもこんな事を!」


ぼこぼこに殴られても、ここが神域という聖なる場所で、さすがに死人を出すわけには行かないからでしょう、加減は間違いなくされていました。

ぼろぼろになりつつも、私は受け身をとり、急所をかばい、ひたすら、巌丸が、姫様を見つけて、都に連れて帰ってくれる事を祈りました。

私一人なら、逃げる方法もきっとあるんです。

でも、姫様は、私のように、平成令和の知識もありません。

だから、逃げられないと判断して、外に出したのです。

この神域で二人して捕まったら、きっと打つ手がなくなってしまったからです。私はぜえぜえと息を吐き出して、とにかく痛みに耐えていました。

そんな時です。


「お前達は、いったい何をしているんだ」


静かな声が響きました。私を打っている人たちが、手を止めたくらいの格の上の存在の声です。


「我が君……この不届きものが、あなた様が光君に与えるはずの姫君を、その」


「……女房達が騒いでいた。姫をおかしな奴がさらっていったと。……で? そのおかしな奴はここにいるのに、なぜ姫はここにいない?」


「……逃げました」


「ほうほう」


圧ってものがすごいと思います。でも私は、空気を読まずに、根性を振り絞って立ち上がろうとしました。


「驚いた、あれだけ打たれてまだ立つ気力があるのか」


「……あなたは、ここの主でいらっしゃいますか」


「そういうものだな」


「……では。どうせ消えるであろうこの命、魂の思うままに言葉を発したいと思います」


私はこの時ぼろぼろでした。顔面を地面に打ち付けた拍子に、だらだらと鼻血がでていて、唇は切れていて、打たれて体中はきっと痣だらけで、衣装は破れて、すごい見た目になっているでしょう。

それにこうして、姫をさらうということをして捕まった私が、生きていられる可能性は限りなく低いと、察していたのです。

だから、命と引き替えに、この主に、どうしても言わなくちゃいけない事を、言うために、口を開きました。


「あなたがどなたを気に入っているのかなんざ、知らないぜ。でもなあ、人妻になって人間としての幸せを謳歌している女の子を、お気に入りの奴がほしいほしいと思っているから、連れさらって、女の子の気持ちも何も考えないで、与えようってのは、あんたが許してもこの私が許さねえ。第一!!!! そのお気に入りがほしいのは、あの子じゃねえだろ!? 身代わりで手元に置かれるような不幸せを、あの子に背負わせようってするんじゃねえよ!!!!! あの子は愛する夫と、二人で、これから世界一幸せになる子なんだよ!!!! 身代わりで大事にされて、ほかに新しい身代わりが現れて、あの子がないがしろにされるかもしれないなんて言う、可能性がある未来なんて、あの子を歩かせていいもんじゃねえんだ!! あの子は鏡じゃないんだよ!! あの子は、好きな人と幸せになりたい、私の世界一素敵でかわいくて可憐で優しい、姫様なんだよ!! その幸せを、理不尽に奪って、お人形を屋敷の中に飾るようにおいておきたい男の所に、いかせるわけには行かないんだ!!」


私は源氏物語の中で、光源氏という屑が、一度は藤壷様を忘れながらも、結局年を重ねていくと、やっぱり藤壷様に紫の上がそっくりで似ている、なんて思う記述があるのを知っているんです。

藤壷様を忘れていたのは、紫の上に手を出したばかりの新婚の頃。年頃も初恋の人の年齢とそっくり同じ時は、ちょっと忘れていたけれど、老いというものが少しずつ現れていくと、屑は紫の上を、藤壷様に似ているから慰めになる、という感情で接するのです。

これのどこが愛情なのでしょう。どこまで行ってもただの身代わり、ただの形代。

純愛だの何だのと言いがちですが、そういった細かい記述を見ていくと、結局屑は藤壷様が手に入らないから、代理品でごまかそうとしているだけのろくでなしなんです。

代理品が代理品じゃなくなって、その人だから愛する、なんて事に、結局落ち着かないんですよ。

だから女三宮という、幼いと言っていいほどのあどけない、藤壷様の姪との結婚をして、それがもっとも格式高く、正妻としての儀式だったから、元々いた身代わりである紫の上は、結局自分の立場は弱いのだと痛感して、心の病におそわれて、それが原因で死ぬのです。

それを知っているから、私は、絶対に、ぜーったいに、姫様があの男の元に連れて行かれても、幸せに過ごせないって知ってるんです。

だいたい、あの屑、一生明石に居座ればいいんです。今もあっちですからね。

そんな問題しかない男がお気に入りなのは、まあ、しかたない事かもしれませんが、だから受け入れましょうなんて事にはならないのです。


私は有らん限りの声で怒鳴りました。喉が枯れて、せき込んで、でもやめません。


「代理品として愛されるっていう事のむごさ位、理解しろよ!!!」


「…………」


怒鳴りまくって言いたい事を命がけで叫んだ私を見て、その人……きっと三輪山の神は、じっと私を見ました。三輪山の神というだけあって、顔は布に覆われて見えませんでしたけど、視線は感じました。


「気に入った」


「……は?」


「お前達。その娘は私が預かろう。とても気に入った。先ほどの姫より遙かに輝いている」


私を打っていた武人達が、戸惑っていましたが、その人は近づいてきて、私を抱き上げようとしたので、私はその手を払いました。


「……」


「触るんじゃねえ。あんたが私を気に入ったなんて言うんだったら。私を人間の暮らす場所に帰せ。あんたの気に入った私は、あいにく大事な姫様の幸せを、そのそばでにやにやしながら見守るのが、一番幸せなんだ」


それを聞いた三輪山の神が……大笑いをし始めました。あまりにも笑うものだから、ぎょっとするくらいです。


「強いな!! たくましい。ますます気に入った。神を相手にこうも言えるこの胆力、すばらしい。最近のなよなよした泣いてばかりの姫君達とは大きく違う! ……確かに、気に入った相手が幸せである事を見守りたいのは、神も人も同じ事だ。よろしい。ぼれぼれするほど潔い。……お前は、傷の手当てをしたらすぐに、お前の大事な姫の元に返してやろう。その後は男女の仲がどうなったとしても、お前は気にしないだろうからな」


「手当ていりませんので、帰る」


さっきから、頭がぼうっとしているせいか、口調が統一できませんが、私は命は助かったみたいだし、帰れそうだし、この流れに乗ってすぐに帰ろうと、立ち上がりました。

そして、ふらふらしながらも、私は、出口をくぐり……真っ青な顔で、神域への入り口を壊してでも討ち入ろうとする、巌丸と出くわしたのでした。

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