外伝1 犬君は乳母になりたい!!

さてはて、姫様は無事に、髭黒の大将と結婚し、髭黒の大将のお屋敷に向いました。

無論犬君も同伴しております。犬君は姫様のためにあらゆる行動を起こしてきたのです。

姫様とともに向かわないわけがありません。

しかし一つ、私にも大きな悩みが出来てしまいました。

それは……


「どうしよう、乳母をほかの誰かに譲りたくない」


そういう悩みです。何故かというと、これはこの時代の御化粧品が大きくかかわってきています。

誰か噂でもいいから、鉛中毒って聞いた事ありませんか?

そうです、金を塗る際に使われる水銀の中毒と似たような物です。詳しい事は覚えていません。

とにかく、鉛中毒と言う物があります。

こいつが非常な悩みなのです。

鉛は皮膚接触だけなら、そこまでひどい中毒症状を起こさないらしいのですが、経口摂取すると、簡単に中毒を起こすらしいんです。

それはとても簡単に、幼児の命を奪えるそうで、さらに言えば脳への障害なども与えるそうなんです。

そんな危険物の心配を何故しなくてはいけないのかって?

……おしろいですよ。おしろい! くっそ、唐渡の高級なおしろいは、鉛の混ざったおしろいなんですよ!

おしろいの鉛中毒は、結構時代が下るまで明らかにされていませんでした。

そして、皮膚接触ではそこまでの事があまり起きなかったため、もしくは平均寿命が短かったため、鉛のおしろいは長い間高級なおしろいだったんですよ!

唐渡のおしろいは、確かに、真っ白な肌になれるし、伸びがよくて、さらに分子構造の結果が雲母みたいにきらきらしているらしく、肌がきらきら光るようになります。

若い女の子のラメの入ったアイシャドウとかいう奴でしたっけ、あんな奴みたいにきらきらするそうです。

言い方を大げさにすれば。

そしてこの時代に、そんなキラキラするおしろいはありません。

だから貴族のやんごとなきお方たちだって、庶民だって、こぞって唐渡のおしろいを欲しがるんです。

でもって、おしろいは胸のあたりまで塗るんですよ。

それに、乳母だからお化粧をしないって、ないんです。乳母だってお化粧するんです。

これらを考えてください、ぞっとしますよ。

乳母の肌とか胸についていた、有毒な鉛を、抵抗力のない赤ちゃんが、口に入れるって事になるんです!

当時のお貴族様の子供の早死にの理由の一つなんじゃないか、と犬君は睨んでおります。

それに江戸時代の徳川の、大奥での若君の早死にも、これあるんじゃないかな、と思っています。

そんな危険な物を、危険だと気付かないで、肌に塗って、赤ちゃんの口に入れてしまう時代なんですこの時代は!

赤ちゃんとか子供が大好きで、かわいがる、私の大事な大事な姫様の子供が、鉛中毒を知らないどこかの誰かのおしろいを塗った胸で、死んでしまうなんて耐えられない!

だから犬君は、姫様の赤ちゃんの乳母を、誰にも譲りたくないんです!!!


「犬君、怖い顔してどうしたの?」


「ちょっと最近考え事が多いんです、お気になさらないでください」


「そうなの。犬君がそばにいてくれていつもうれしいわ」


姫様が嬉しそうに笑います。身分が低かったころから、ずっと、犬君はお傍におりました。

そのため犬君が心強いのです、姫様だって。


「それに、ねえ、素敵だと思わない?」


「なにがですか?」


「犬君は私の遊び相手だったけれど、犬君がわたしの赤ちゃんの乳母になる事」


犬君とそういう関係になれたら、わたしとても幸せ、と姫様が憧れるのです。

……正直、複雑なものがあります。

だって私は、前世が男だったんですよ、モテない系男子だったんですよ?

女の子に生まれ変わった事に納得する事にしても、穴から血が出るのも耐えても、自分の息子がついていない事を受け入れても、どこかの誰かの息子を受け入れて、赤ちゃんを産むの、ちょっと考えたくなるんです。

でも、姫様の赤ちゃんが死ぬ確率は下げたいし、姫様の幸せが犬君の幸せで……

ああ、どうしよう。

それに、もしも子供を産むと決めても、相手が必要なんです。相手を探すの、大変なんですよ。

ろくでもない男は通わせられないし、姫様に無礼な奴なんて絶対に無理だし、私を尊重してくれない男なんて男じゃないし……いくらこの時代が、妾を許していても、光源氏絶許さない系な犬君としては、自分がどこかのやんごとなき野郎の妾なんて絶対に無理! という奴なんです。

つまりものすごいジレンマというやつに、陥ってしまっているわけなんです……


「犬君はいないの、恋している人」


「いやですね、犬君はまだいませんよ」


「光君が忍び込んできたの、犬君余程衝撃的だったのね……」


事情をよく分かっていない、女房の一人が言います。彼女は屑の事を噂でしか知らないため、ヤツがいかほどに屑野郎だったのかを理解しておりません。

奴が屑であればあるほど、それを溺愛していた桐壺帝のために、沈黙を保つ部分があるのが、宮仕えの恐ろしい所かもしれません……


「怖かったですよ、裳着も済ませていないころだったんですから」


「……ああ、それは恐ろしい事だわ」


裳着前の姦通は罰則があるとまで言われているわけで、その罰則はむち打ち百回とかじゃなかったでしたっけ?

それの恐ろしさに、女房のお方が身震いします。

それを見た姫様が憤慨しました。


「あなた、犬君がどれだけおそろしい目に遭ったのかわからないの! 歌の一つもなしに、いきなりだったのよ!」


ざわりと周囲がどよめきます。歌もなしに獣のように襲い掛かるなんて、女性からすればとんだ災難です。恐怖でしかありません。


「い、犬君、ごめんなさい」


姫様がこれ以上怒る前に、女房のお方が謝ります。むろん許します。



「わかっていただけたなら、それで」


だって彼女は噂しか知らなかったんですから、詳細を聞いて嫌悪感で気持ちが悪くなるでしょう。

はあ……


「私だって、あんなことがなかったら、男性と素敵な恋に落ちたかった……」


うなだれた私に、女房の一人が言いました。


「あの、坂東武者は? ずいぶん犬君に夢中だけれど」


「ああ……」


巌丸のことです。巌丸はその名前が示す通り、まだ元服前なんです。私と同じくらいの歳だけど。

何か力のある巫子の予言のためだとか聞いていますが、詳細は聞いていませんね。


「いやよ、犬君が坂東に行っちゃいや!」


姫様が頭を振って嫌がります。


「私も姫様を残して坂東には行けません!」


当たり前の事です、もしも屑が舞い戻ってきてしまった時、姫様を守る事が出来て、色々な事情を知っているのは、私だけなんです。

絶対に姫様のお傍から離れるものか……

私は誓いを新たにしました。

でも


「私も姫様の赤ちゃんの、乳母になりたいですね……」



それな。

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