第24話 どうも犬君です。情報処理が追い付きません。

とにかく死に物狂いで走った事で、なんとか夜明け前に宮中に到着しました。


ぜいぜいと息が切れています。そんな状態でもほかの誰かに見つかるわけにはいかないので、これまた大急ぎで局に戻り、衣装を着替えます。今まで着ていた衣装は若干埃くさく、仕方がないので衣装びつに隠すようにたたんで入れました。


衣装びつの中身をあさる人はいないので、ここに隠しておけば大体大丈夫です。


き慣れた女房衣装を身にまとっていれば、朝が近くなったことで周囲の男女関係が賑やかになります。


女性はもっとここにいればいいのに、と言った趣向の事を言い、男性は急がなければ、と言う風に返しています。


さらには朝餉……朝ごはんの事です……を用意する誰かの動きとかも聞こえますし、男性の着替える音も聞こえます。


そう、こう言った宮殿はとっても音がよく聞こえるんです。だってしょうがないじゃありませんか、壁なんてないんですからね! というか壁替わりは几帳とかですからね!そんな物で生活音が隠し通せるわけがないものです。


几帳は今でいうところの布製パーテーション! それのどこに防音性があるものですか!


御簾だっておしゃれなブラインドカーテンチックな物! これも防音性なし!


そう、平安時代は音が筒抜けの世界だったのです……プライバシーって何処って感じですが、割と皆様気にしません。よっぽど隠したい人は、塗籠という壁がある場所で色々しますし、物を隠しますしね。


源氏物語の中でも、塗籠の中に隠れる屑の描写があったようななかったような。記憶がいまいちはっきりしませんね。


そんな事はさておき、私は無事に衣装を着こみ、朝に間に合ったわけです。ふにゃふにゃと、藤壺様の赤ちゃんの泣く声が聞こえてきます。藤壺様があやしている声も聞こえてきますし、近くで寝ていたのでしょう、姫様が赤ちゃんに優しい声をかけています。


きっとそこを見れば天女たちのいる光景なのでしょう。


しかし、私はその光景の邪魔をするわけにはいきません。


だって桐壺帝の声まで聞こえちゃうんですから。




「ああ、姫はよく泣く元気な赤ちゃんだな」




「ええ、元気に大きくなってくれれば、こんないい事はありません」




「この子が結婚するまで見守りたいわ」




「あら、若紫、あなただってもうじき子育てをするかもしれないわよ?」




「私が? お母様、私の結婚相手はもう決まっていらっしゃるの? 犬君は何も言わないわ」




「犬君にも相談しているのですよ。彼女はとてもいろいろなものが視えているから。まさか夫婦生活のあれそれこれに関しても、あれだけしっかりした考えを持っているとは思わなかったわ」




「あの子はよっぽど苦労してきたんだろうな」




桐壺帝が言いますが、まあ苦労はしてきましたよ。狼の母さんに育てられ、結構金銭的に厳しい暮らしの尼君の所で家計をやりくりするのを手伝いましたから。


でもそれだけで、夫婦生活のものが視えてくるわけはありません。


主に前世の知識です。こんな物有効活用して、姫様の幸せに貢献しなくてどうするんですか。


桐壺帝の声がまた聞えます。




「あの子にもよい旦那を見つけてやりたいものなのだが……光を拒んだ以上、光の名前を傷つけないだけの相手がなかなか見つからないものでね」




「光の君を嫌がったのは、彼が結婚の手順を無視したからだって、犬君が言っていたわ、お父様。犬君はその事でとっても怖い思いをしたから、どうしても光の君を良い感情で見られないのだそうよ。ほかにも、葵上さまの事とかで思うところがいっぱいあったって言っていたわ」




「やれやれ、あの子もなかなか難しい。弘徽殿にも言われてしまっているしな」




「まあ、弘徽殿のお方が?」




藤壺様が、お乳をやっているのでしょう。驚いた声で言います。




「あの方が、犬君のような出自の娘をどう思っていらっしゃると?」




「考え方がしっかりしているから、何かと激しい気性の姪が入内した時に、女房になってほしいのだと言っていた」




「お父様、私から姉のような犬君を取り上げないでください!」




姫様が言っています。姫様、犬君をそんな……姉だなんて!!……うれしくて涙が出そうです。




「でも若紫、お前が結婚したら、犬君とは離れ離れになるものなのだよ?」




「どうしてですか? お母様だってここに入内した時に連れてきた女房の皆さまは、気心の知れた方々だって」




「まあそうなんだが……やれやれ、弘徽殿も欲しい、若紫も欲しい、とは困ったものだ。あんなに若いのにあれだけ物が見えている女房と言うのが、他にもいればいいのだが」




桐壺帝はどうするか、明言していませんね……って事は、弘徽殿のお方の事もいろいろ気遣っているのでしょう。


日嗣の皇子である朱雀の君は、思慮深く物事を決めるのが遅いお方だと言いますし、気性の激しい華やかな朧月夜に、しっかりした女房をつけたいと思う、弘徽殿のお方の心を無碍にするわけにもいきません。


まあ、じっくり考えて、姫様が納得する形にしてください。たとえ離れ離れになったとしても、この私は姫様の窮地に駆けつける所存でありますがね。


今の所有力候補である髭黒中将の邸からここまでの距離でしたら、走れば十分そこらで到着できます。母さん仕込みの俊足を舐めないでくださいね。




「弘徽殿のお方のお近くに、いらっしゃらないのかしら、若くてしっかりした女房」




姫様が、そこを疑問に思った様子です。そりゃそうだ、と言えるでしょう。だって弘徽殿のお方の実家は右大臣家。しつけの行き届いた女房をあてがえますし、幼いころから教育していれば、しっかりした若い女房を育てることだってできる経済力のはず。




「皆犬君と比べたら、どこか浮ついて見えてしまうんだろう。あの子は裳着を済ませる前からどこか超然としたところがあって、ひどく大人びた部分と、あどけない部分があったから」




「今でもそうなのよ、お父様。犬君は子供っぽい所は本当に子供っぽいの。普段お父様には見せないでいるけれど」




話題を変えようとしたのでしょうか、姫様、あんまり褒められない所を言わないで下さい……


なんとも言えない気分になりましたが、桐壺帝は仕事があるからと早々にここを出て行かれたようでした。


犬君はさっそく、朝ごはんの用意を整え、姫様にお声をかける事にします。




「姫様、朝餉の支度が整いますよ、起きていらっしゃいますか」




「ええ、起きているわ」




「では失礼いたします」




そろりそろりと落ち着いた動きでそこに入り、姫様の顔を洗うのを手伝い、御髪を梳きます。犬君のどこか犬っぽい毛質とは大違いの、艶やかで指どおりの素晴らしい黒髪です。


蛍帥宮様直伝の、かすかに香る事で、相手をどきりとさせる香も炊きました。衣装もきちんと季節に合ったものを選びましたし、今日も姫様は目を見張るように可愛らしくて、ほんっとうに美少女です。




「今日の姫様も一段と素晴らしいです」




「犬君はいつもそう言うんだから! 何を着ても何を焚いても、素晴らしいっていうから自信がなくなるわ」




「事実を事実と言って何がいけないのですか! 私の姫様はこんなに可愛くてきれいで自慢でしかないんですよ!」




言い合っても顔を見合せたら、つい笑ってしまいます。


そんな様子を微笑みながら見ている、藤壺様でありました。










そう言えば、と藤壺様の新しい装束の事で、意見を交わしていた皆さまの中で、誰が言い出したのでしょうか。




「常陸の国の方から、大量の絹織物を持ってきたそうよ」




「たしか、故常陸宮様に大恩があって、ここまで献上しに来たのだとか」




「でもたしか、常陸宮様には娘が一人と阿闍梨になった息子が一人だけのはず」




「いきなりそれらを渡されても困るでしょう、どうするのかしら」




「それと聞いた? 朱雀の君が実は外に恋文を送り出したとか言う噂」




「まあ、今まで浮いた話の一つもなかったのに、いきなり」




「思い出したのよ! 朱雀の君ったら、光の君に捨てられた女性に恋をしてしまったんだとか」




「その彼女も可愛そうに……いろいろなよくない噂に翻弄されそう」




「弘徽殿のお方がよくまあ、圧力をかけないものね」




「だから、そうなんだって」




「は?」




「故常陸宮の姫君だそうよ! その恋文を送っている女性!」




犬君は床に広げている絵巻物を、危うく破くところでした。




ま じ か!!!!




姫様も興味深そうです。




「でも、外の方という事は、宮中に迎えられないのでしょう?」




「入内するための準備ができないそうですしね 御父上が死んだあと細々と暮らしているとも聞きますし」




そこで思い出しました。昨日の生霊となった末摘花様を。


痩せていましたし、痛々しいくらいでしたね……


それでもどうして、屑の所にやってきてしまったんでしょう。朱雀の君に手紙を送られていて。


また情報を集めなければなりませんね……忙しいったらありゃしません。

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