第18話 どうも犬君です、屑は躾け直されている様子です。

それから屑は、左大臣様の家に頭が上がらなくなった様子です。


そう言った情報は、意外と宮中に流れて来るもの。


女房達も、ひそひそと噂しています。


噂の中身なのですが……ちょっとすごい。




「聞きまして?」




「どのような事をです?」




「光の君は、数年前から、葵上の所以外に通わなくなったと」




「まあ、あの浮名を流し続けていたお方が?」




「なんでも、葵上の所で頭が上がらなくなることを聞かされたご様子だとか。二条に行きますけれども、徐徐に恋人から足が遠のき、今ではもっぱら左大臣様のお宅に御通いになっているとも」




「あら、私の聞いた話は違いますわ。葵上さまが、光の君さまを躾け直しているのだとか」




「それはすごいお話ですね……何事も素晴らしい光の君様を、どのように躾けるのでしょう」




「なんでも……」




ここで年かさの女房の方が、声を落して言います。




「今までの葵上さまに対するあまりにもひどい対応の事で、葵上さま直々に、夫たるものはどのようなものなのか、と教え直していらっしゃるとか」




「確かに、光の君様の身近な男性は帝、帝のありようと一般の貴族のありようはまた、違っていますものね」




皆様面白い娯楽同然の対応です。


それは大変に面白いです、犬君としては。


あの出来事からもう、五年近くたつんですよね……姫様は数えで十五歳になりました。


そろそろ縁談が進められる時期です。


藤壺様も、桐壺帝も、良い縁談を探すために奔走しております。


ぶっちゃけた話、あの屑が改心してくれるのは大助かりです。


何故かって?


……原作では、若紫が十四になったあたりで、あの屑は欲情を押さえられずに手を出すのです。


そしてそれが、彼女の不幸につながっていくのですから、最近犬君は神経質になっていました。


それにしても……屑がよくまあ逃げ出さない物ですね。年単位で!


あの、自分が一番、自由じゃなきゃ嫌! ママにだって欲情するんだもん! なくそったれが、葵上さまのもっともな指摘などを、甘んじて受け入れるとは思い難い部分があります。


しかし、あの男は家臣なのですから、自分の婿入りした家に義理を果たさなければならないのです。


ふふっ。いい気味だと思うのは、犬君の勝手な考えでしょうかね?


私はそう思いつつ、皆さまの噂を聞きます。


あの顔の痣は、あっという間に消え失せました。


その事からも、葵上さまの腕力が、か弱げな姫君のそれでしかないと言うのは明確です。


犬君はちょっとしたことでも痣になりやすいのですよ。




「そうだ、お聞きになっているかしら」




「あら、何をでしょう?」




私は問い返しました。聞いている物の中身を知らないので、返事をする事が出来ないのです。




「葵上さまが、六条御息所様の所に、何くれとなく援助をし始めたとか」




「まあ、懐の広いお方ですね」




女房達は感心していますが、犬君の血の気は引きました。真っ青です。


誇り高く、葵上より年上の彼女が……そう言った援助をよしと思うわけがないのです。


だって彼女は、桐壺帝の息子ではない皇太子さまの、妃と言う大変に格の高いお方なんです。


その皇太子が無くなったために、桐壺帝が即位したとかいう話があったような気がするお方です。


そんな彼女が……これ見よがしな援助を喜ぶなんてありえません。


あれ、これ、生霊の方にかかって来るんじゃなかろうか?


葵上さまにとばっちりが来るのは面白くないですから、犬君はまた動き出さなければなりません。


姫様の方も大変に気になるのですが、ここは藤壺様の領域、下手な馬鹿はやってきません。


桐壺帝も大変に可愛がっている、私の姫様なのですから、うっかりとか気の迷いで手を出されては困るのです。


最近は成長し、美しくなった姫様を何とか手に入れようと、上位貴族の皆さまが奔走しています。


姫様は、おっとりと、




「大事にしてくれる方がいいわ」




なんておっしゃっています。当たり前だ! と犬君は断じたいです。少なくとも、姫様を一番に大事にしてくれて、姫様を悲しませない男が理想です。


誰かいないかな……なんて思っちゃったりしている今日この頃です。




「そうだ、犬君、後でお話があるのですよ」




藤壺様が、穏やかな声で、子供を抱っこして言います。


驚くなかれ、藤壺様は、桐壺帝の娘を産んだのです。


桐壺帝は、息子じゃない事を手放しに喜んでいました。


だって……息子だったら帝位争いに巻き込まれ、弘徽殿のお方に睨まれる事間違いなしなんです。


理由は明白、弘徽殿のお方は東宮である朱雀様を大事に守り育てているのですから。


ここで、寵愛著しい、身分も文句なしの藤壺様の息子が生まれたら……泥沼間違いなしでしょう?


そして、娘を産んだ藤壺様は、時々その世話を姫様にもお任せします。


赤ちゃんをかわいがる姫様は、大変に可愛らしく……カメラがない事を心から後悔する事もあります、犬君は。




「はい、承ります」




返事をしながら、お話とはいったい何だろう、と犬君は考えました。


その夜更け、人払いをした藤壺様が、静かな声で言いました。




「若紫の事なのだけれど……あの子の母が亡くなっているのは事実。あなたが夢を見て連れて来てくれたのも事実だとわかっているのですけれど……」




「何をおっしゃりたいのでしょう?」




「あの子は、私の兄の子供ではないかしら? ちょうどあの子が現れた年、兄の子供が神隠しに会ってしまったと聞いたのです。兄がこちらに遊びに来た折りにあの子を見て……死んだと思った娘によく似ていると」




「……」




ああ、最初の方でその事実を説明するのを、犬君はすっかり忘れていました。主に屑の動向をうかがわざるを得なかったせいです。


屑め! 犬君をここまで困らせるとは!


苦々しい気持ちになりながら、犬君は口を開きます。




「私は……姫様のおばあさまから、姫様の御父上が存命だとは、聞いておりました」




なんとなくどこの誰か察していましたが、おばあさまは犬君に、姫様の父親の素性は言いませんでした。




「しかし……姫様のおばあ様……尼君の所で、色々な不自由をする姫様を見ていましたから、ろくな父親ではないのだろう、姫様は正妻の息女ではないのだろう、と辺りをつけておりました」




「あなたは私たちを騙したの?」




「いいえ」




どこを騙した、と藤壺様が思っているかで、色々変わってきます。


しかし犬君は、言い切りました。




「夢を見て、姫様の前世の母君が、こちらにいる、と示されたのは事実です」




息を吸い込み、断じます。




「世間の事も、男女の事も、あまり具体的にはわかっていなかった当時、私はこの夢こそ、姫様が継子いじめにあわないようにするため、仏様が見せてくださったお告げ、と信じたのです」




兄の嫁の良い話を、藤壺様も聞いていないのでしょう。


しばし黙った後に、呟くように言いました。




「確かに、あの義姉さまでは……あんなにも可愛らしい若紫は、きっといじめられて、よくない縁に嫁がされていたでしょうね」




「藤壺様を、騙したように思わせてしまい、大変に心苦しく思います。しかし、藤壺様」




「なんでしょう」




「藤壺様は、犬君を身代わりにしましたでしょう?」




彼女は息をのみました。そう。彼女は私がここに来たばかりの頃、屑から逃れるために、身代わりをさせました。


そして私は屑をフルボッコにしました。


それは、藤壺様にとって黙っていたいことであり、すさまじいカードです。




「……ご安心ください。その事を恨む気持ちは微塵もありません。ただ」




「ただ?」




藤壺様が、声を震わせました。


一体犬君が何を言い出すのか、不安に思っているのでしょう。




「姫様が幸せであるように、したいのです。そして、姫様は貴方さまを母と慕っております。それだけをお忘れないように」




「あなたの事はどうだっていいの?」




「姫様の幸せを見届けることを、第一に置いていますので」




そして続ける。




「もしも藤壺様が、姫様が兄君の娘であると思うのでありましたら、親子の対面をしたらいかがですか。……あなたがそれをここで選ぶとは思えませんけれども」




「……よく分かっているわね、犬君。あの子は帝の大事な娘のような存在。ここで本物の父親が現れても、あの子も帝も幸せになりませんもの」




藤壺様の兄が、親子の名乗りを上げた時点で、姫様から帝の保護は受けられなくなる可能性だってあります。


そちらに引き取られれば、美しく素晴らしく育った姫様を、あそこの北の方はいびるでしょう。


ひどい男と結婚させられるかもしれませんし、最悪、うまい事を言って近寄るだろう屑を追い払えない。


藤壺様は、その事を嫌悪しているでしょう。


ある意味姫様がとばっちりを受ける、と知っているのです。


藤壺様に瓜二つの姫様。それが姫様の不幸でもあるのですから……




「犬君……」




「はい」




「実は、帝が内密に、髭黒中将とあの子の縁談を進めているのです。ただ問題があって」




「問題ですか」




「兄が、自分の娘を、髭黒中将と結婚させたいと思っているのです」




「あら」




そんな物は簡単にひっくり返せます。犬君はにやっと笑いました。




「帝がそれのどこで遠慮するんです? ……ちょうどいいじゃありませんか。時に噂によれば、藤壺様の兄君、娘の一人を、日嗣の皇子に入内させたいとか」




「ええ、それが?」




「交換条件ですよ。藤壺様はその娘を日嗣の皇子へ進める。代わりに姫様を髭黒中将と添わせる。ただ、この場合姫様のご意思をきっちりと確認するのは基本ですよ? 姫様に何も知らせずに、そんな事なさいませんよね」




「……あの子は髭黒でいいのかしら」




犬君はまた、にやっと笑います。




「少なくとも、真面目でいらっしゃる。浮名を流してふらふらする方ではない。そう言う男の方は、この女性を大事にしよう、と決めたとき、とても心強いのですよ」




ただ、気になる事があります。




「髭黒中将殿は、すでに元服もとっくに終わっているはず、姫様はどういう立場に?」




「髭黒は……一度妻の方から離縁を叩きつけられているのですよ」




「まあ、何をしでかして」




「……言い出しにくいのだけれども、光の君と妻の方がそう言う関係になってしまって……妻の方がのめり込み、髭黒があまりにも違い過ぎるから、と出て行ったのだと」




「……それって髭黒中将何も悪くないのに、離縁させられてしまったってわけですね」




そんな話、原作にありましたっけ……と思うものの、色々な物が違ってきているこの世界、その設定もあるのでしょう。




「評判はそこまでいい物ではないでしょうが……とにもかくにも、姫様のご意思。それをしっかり重んじてください。藤壺様、姫様を世間から守れるのは、あなただけなのですから」




「犬君は守れないというのかしら」




「少なくとも、この身の上と立場を考えると、矢面に立つ事が出来ません」




頭を下げた私に、藤壺様が言った。




「……いつもいつも、難題を持ち掛けてしまっているわ、わたくし」




「お気になさらず。私に謝る時間がありましたら、姫様の方に御向けくださいませ」




はてここで、どうして犬君が髭黒押しか気になるでしょう。


理由は簡単。一目ぼれした女性にとっても一途だから。


そして出世頭で、玉鬘の悲劇を起こしたくないからです。


玉鬘は、怨霊に取り殺される夕顔の娘で、僻地で育ち、美しくなったら周りの野蛮な男に狙われて、育った土地を逃げ出し、屑に拾われる少女です。


彼女の才能など、色々な物が評判を産み、数多の求婚者を出しました。


その中でも一番、玉鬘が嫌だった男が、髭黒中将。


理由は、髭が濃いから、たったそれだけです。


彼女はほかのなよなよした男を、格好いいと思っていましたが、侍女の手引きで髭黒中将と結婚してしまいます。


髭黒中将は、美しい玉鬘に夢中で、正妻をおろそかにしがちになり、耐え切れなくなったその女性が、子供を全員連れて出て行ってしまうのです。


ここで不幸のなのは誰でしょう?


答えを言います、全員です!


玉鬘は、あり得ないと思っている男性と結婚。


北の方は、玉鬘に会いに行く夫に苦しみ、心を病んで離縁。


髭黒は、長年連れ添った妻と可愛い子供たちを失う。




ぜーんぶ、屑の策略の結果なんですよね、はい!




玉鬘が、屑に拾われ、本当の父親から隠されて、あの光の君の所の美しい姫……と噂が流れなかったら、この悲劇は全部起きてません! 屑のやった結果! 少なくとも、ちゃんと父親に会わせてもらっていれば、そこで育てられれば、心無い侍女の手引きはなかったでしょう。


犬君が思うに、侍女はいきなり現れた流浪の美少女に、屑がご執心なのが気に食わず、一番の嫌がらせをしたのでしょう。屑がロリコンで、美少女玉鬘に、スケベな眼を向けなかったらもっとましだったはず!


どんだけ他人を不幸にすれば気がすむんだと、心底思います。




しかし、ここでひとつ流れを変えれば、番狂わせを起こせます。




髭黒は、情に厚い男です。しょっちゅう癇癪を起こしたり、物の怪にとりつかれているような振る舞いをする妻を、ずっと大事にしてきました。頼りにもしていました。


そんな男が、ですよ? 


美しくて聡明で、気配りの出来て、自分を慕ってくれる女性を妻にできたらどうなりますか?


それも、帝の紹介という輝かしい名誉によってです。


年を経ても美しく素晴らしい、と称された若紫です。


どうやったって、髭黒がほかの女性に眼を向けなくなるでしょう。


そしてそれは、姫様にも良い事です。


余所の女に眼を向けないで、自分だけを愛してくれる男。この時代超貴重人物なんですから。




「ただあの髭黒と言われた男を、姫様が気に入るかが……心配……です……」




そこが一番心配な犬君です。

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