第16話 どうも犬君です、女の戦場です。

葵上さまと言えば、原作ではかなり雑な扱いを受けているお方でしたよね?


出自は左大臣様の御娘君、光源氏の親友頭中将の同腹の妹。


いずれは東宮の妃……未来の中宮になるくらいの教育を受けながらも、父親が実は光源氏に嫁がせたかったなんて言う、ぶっ飛んだ事を思っていたために、そうならなかった姫君です。


光源氏よりも少し……確か四歳くらい年上の設定で、その事が負い目になっていて、結婚後も打ち解けられず、そっけない態度をとってしまう人。


光源氏もそのそっけない態度を、冷たいと認識し、寄り付かずに余所にいくらでも愛人をこしらえていました。


そして余計に夫婦仲は冷え切り……の負のスパイラルだった様な気がします。


しかし光源氏の子供を妊娠し……正直言ってこのあたりが謎なのですが。なんで近寄らなかった女性に子供が出来て、周囲が不気味がるほど寵愛していた紫の上に子供が出来ないのか……そして光源氏が原因で起きてしまった、はなはだ不愉快な事件の結果、生霊にとりつかれて、出産とほぼ同時に死んでしまった方です。


ただ物語だから、と俯瞰的に見ると、彼女は光源氏が、若紫をわがものとし、理想の妻に育てるまでの間、光源氏にほかの正妻候補が出てこないようにするための……道具、のような登場人物なのです。


そうでなければおかしい位に、彼女の周りは異質なのです。


父親からしてそうです。


左大臣ともあろうものが、権力を維持するために”絶対に必要である娘”であり、東宮の妃として申し分ない教育を与えた彼女を、あろうことかただの天皇の家臣に成り下がった男に添わせた。


字面にすればおかしいでしょう? この時代自分の娘を天皇や東宮の妃にし、その子供を未来の天皇にして、自分の権力基盤をより一層盤石にするものなのです。


そういう風に教え育ててきた娘を、そうではない男に嫁がせる。


……個人的に、こんな扱いを受けて、夫に愛想よくできるわけもない気がします。


いずれ中宮、皇太后という扱いだった少女が、手のひらを返したように格下の男に、送られる。


それも己に何の欠点も瑕もないのに、という状況でです。


父への不信感や家族に対する不信感、そして仕えている女性たちの好奇のまなざしだってあるでしょう。


己の立場とそれから血の価値、身分の重さを知っていれば知っているほど、格下の男に好意的になれるわけがない。


さらに彼女の場合、相手は四歳くらいは年下!


現代日本でこそ、四歳くらいはどうってことないのですが、平安時代四歳なんてかなりの歳の差です。


しかもですよ、彼女の方が年上なのですから!


彼女の負い目たるや、犬君が想像できないほどでしょう。


しかし。


一つの鍵になりそうなものを置くと、彼女の扱いの理由が分かる気がして来るのです。


その鍵とは、『光源氏と若紫が結ばれるための正妻とは、どんな者か?』というものです。


光源氏が正妻と仲睦まじかったら、若紫に藤壺の面影……ぶっちゃけ桐壺の面影を見出して引き取っても、愛人扱いまででとどまるでしょう。いくらなんでも。正妻への罪悪感が出て来るでしょうし。くずでも。


ですが、作中ではたびたび、冷たい葵の上と無邪気で明るい若紫の対比があるそうです。伝聞です。


光源氏は、明るい若紫の所の方がいいという気持ちで、滞在が長引くとか。これも伝聞です。


つまり、彼女は若紫と光源氏が一緒にいる時間を長引かせるための、キャラなのです。


そして、二人の愛を際立たせるためなのか、子供が出来ない二人。


だが予言の成就のためには、男子が必要。


つまり、最初の正妻は光源氏に冷たくして、嫌われていて、でも子供を産んだら物語から退場しなければならないのです。つまり、死ななければならないのです。




……


…………


………………な、何という事でしょう! 流行りの乙女ゲーの悪役令嬢の様です!




「うわあ……」




私は戦いてしまいます。まさかこんな所で昨今流行りの悪役令嬢の元ネタを見たような気分になるとは。


嫌な性格の悪役令嬢と、可愛い癒される性格のヒロイン。


まさか源氏物語の時点で、こんな対比があるとは。


思いもよりませんでした……




「でも今、くずと姫様のフラグは一応折ってある……そして呼び出されたのは犬君」




これはどういう事なのでしょう。よくない事だとは思います。嫌な予感もします。




「……」




懐に手をやれば、朱色の添削まみれの手紙があります。


葵上さまの所に行くために、勇気と根性をもらうために、蛍帥宮様との手紙を一枚、持っているのです。


心が折れそうなほど直されたこれがあれば、大概の嫌味も何のそのと思っていられそうなので。


そういえば、犬君の現状が分からないですよね。


私は今、牛車でゆったりと、左大臣様のお屋敷、そして葵上さまの所に向かっているのです。


手紙からほどなくして、お迎えが来てしまったのです。女房の皆さまが時間を稼ごうとしてくれましたが、お迎えの方もよっぽどの事なのか、どうしても来てほしいのだと譲ってくれないものでして、今こうして向かっているのです。




「大丈夫。ちゃんと背筋を伸ばしていれば」




戦える。


いつか母さんが言った言葉を想い、私はなけなしの勇気を、もう一回胸に宿す事にしました。




「つきました、こちらへ」




牛車が止まります。牛車の入り口が開けられて、私はそこから足を踏み出しました。


ここから先は女の戦場、何が起きてもうろたえない心こそ、必要でしょうね。


顔をあげます。疚しい物など、この犬君には何もありませんのでね!








「あなたはとてもめざましいの」




葵上さまの所へ案内されるやいなや、ぶつけられた言葉はそれでした。


めざましい。目障り、うとましい、嫌い。そう言った意味だったと思います。憎たらしいという意味もあったような。


なんだか、泥棒猫と言われているような気分ですね。使い方間違っていませんでしょうし。




「葵上さまとご対面した事は、ございませんが」




「どこぞの下品の身の上で、よくまあそんな事が言えますね」




問いかけに答えた女房のお方をちらりと見ます。彼女はくすくすと笑っています、侮辱でしょうか。




「招いた客にこのような態度をとる、左大臣様のご教育が知られますよ、お気をつけなさいませ」




犬君は余裕をもって微笑みます。


女房達は静まり返りました。こう言い返されるとは思わなかったのでしょう。周りは皆葵上さまの味方、犬君は単身ここにいる。


普通の神経なら、怯え屈するのでしょう。


私は女房方を無視し、まっすぐに葵上さまを見据えます。




「お気に障る事をした覚えはございません。知る事も出来ないお方の機嫌を損ねる事を、この犬君はしでかしたのか教えていただけませんか?」




口は笑い、目を強く。相手を圧するその空気。獲物を定める時の視線で。


辺りは静まり返り、風の音ばかりがしています。


葵上さまは口を開きました。




「正妻にしろ、と。妻と全て縁を切れ、と言ったそうではありませんか」




「”おんな”なら誰しも、そう思うでしょう? 私は女を喰い飽きるたびに新しい女を求めて目をぎらつかせて嗅ぎまわる、そんな男に売れるほど、安くない」




ばっと、葵上さまが立ち上がりました。それは姫らしからぬ動きです。激情のあまり立ち上がったのでしょう。


犬君はその動きを、見ていました。


彼女が几帳台から出て、女房達が止める間もなく、手を振りかぶるのも見えていました。


避けるのはとても簡単でしょう。


それでも、犬君は動きません。


ばんっと、大きな音が立ちました。理由は犬君の痛みを訴える頬が示しています。


盛大に、扇ではたかれたのです。




「わ、わた、わたくしをっ、っばかにしているのっ!」




肩を震わせて、怒りに震える葵上さま。冷たく無感動な方ともいわれる彼女の、生来の美しさが出ています。


怒りで紅潮する頬、震える唇、見開かれた瞳。


……なぜ犬君なんかで、不機嫌になるのかわからないほど美しいです。


姫様や藤壺様と、別の系統の美女です。それもとびきりの。


しかし、痛いですね。


私はそれでも、彼女を見たまま言います。




「わたしは、いきなり襲い掛かってきた男の事を言っているだけですよ。襲い掛かってきた外道な男の本質を語ったまで。それだけですね」




この言葉に、葵上さまが目を見開きました。何か気付いたのでしょう。




「あなたは、避けられたのにわたくしの扇を受けたの」




「私が理由なのでしょう。甘んじて受けるべきだと思いましたので」




それで気が済むのならば、と思ったのですよ。静かに言った私の声に、何を感じたのか、葵上さまの手から扇が落ちました。


座り込む彼女。




「あなたのような女の子は、見た事も聞いた事もありませんわ」




怒りが吹き飛ぶほど、驚いているようでした。


その時なのです。




「た、大変です! 光の君が、来ております!」




「お留めして」




「殿が大変お喜びで、こちらに間もなく……!」




まるで仕組まれているような登場ですね。


この現場は、葵上さまにとって非常に不名誉な状態でしょう。


大勢で犬君一人をいたぶるような現場です。


葵上さまだって、御父上にこれを見られたら、ただでは済まないでしょう。


彼女の方を見れば、蒼白な顔色です。


女房達もどうしよう、と慌てふためいております。


そんな状況で、ふと思ったのです。


いったい、箱庭の姫である葵上さまは、誰から犬君が屑に突きつけた条件を知ったのでしょう。




「葵上さま、犬君が出した条件を、どなたに聞きましたか」




「……光の君の乳兄弟が喋っているのを、家のものが」




「なあるほど」




つまり、仕組まれたようではなく、仕組みましたね。


いいでしょう、屑野郎。


喧嘩を売られた以上、犬君は迎撃をするまでなんですよ。


私は立ち上がり、葵上さまに言いました。




「ご安心を、葵上さま。多少不愉快な現場を見させてしまいますが、そこだけをお許しくださいな」




「……え?」




私は屑の味方ではなく、女性の味方なんですよね。

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