第34話 VS時間旅行者⑧

 狼狽する田中一に、坂本がゆっくりと一歩近づいて行く。田中一の意識が、坂本に向けられている間に、突如横たわっていた櫻子が動き出した。

「!!」

 天狗少女が、一直線に田中一に飛びかかる。田中一は動けなかった。

 まるで蛇だ。四肢を砕かれ腕を捥がれ、羽を折られた状態から。満身創痍の少女が体を「く」の字にくねらせバネのように飛んできた。その動きは最早”人外”と呼ぶにふさわしく、それまで平静を保っていた田中一が狼狽えるのも無理もなかった。櫻子が田中一の体に激突し、二人はそのまま後ろの本棚へと突っ込んだ。


 バランスを崩した本棚が大きな音とともにゆっくりと倒れ、二人の上に何十冊も本を落とした。たくさんの本の下敷きになった田中一が、自分の上にのしかかる少女に向けて呻いた。

「このッ……バ、ケモノ……!!」

「オウ……!! 呼んだか!?」


 櫻子は田中一の腹の上で、血走った目を鋭く尖らせ、ニヤリと笑った。ぐしゃぐしゃの髪を逆立たせ、口からは、彼女が息をするたび、泡のような血がポコポコと吹き出した。顔面を血で真っ赤に染め、白目を剥いた少女に嗤いかけられ、田中一は絶句した。


「過去を変えれば未来が変わる、だって……?」

「そうか……! わざと羽を襲わせて、田中一の時計に磁石を……!?」

「ありがとよ! おかげで坂本の過去も変わったみてぇだ!!」

「腕を折らせて……自分たちの過去を変えたのか……!!」


 櫻子が田中一の喉元に噛みつき、書斎に若い男の絶叫が響き渡った。

 二人の様子を、坂本が後ろに立って静かに見ていた。


 田中一は知らない。

 坂本と櫻子が、どうやって出会ったのかを。


 かつて櫻子にぶん殴られ、坂本は記憶を失った。櫻子が腕を折られたことによって、二人の過去もまた変わり、坂本は記憶を失うことなく”推理の鬼”のまま今に至った。櫻子が田中一の喉仏を食いちぎり、絶叫した。


「テメーにゃ帰る未来も与えねぇ!!」

「!!」

「これでしまいだ!!」


 櫻子の尖った八重歯が田中一の顔面に再び迫る。田中一が思わず目を閉じた。


「ダメだ!!」

「!」


 その時。突然、二人の背後から鋭い声が上がった。坂本だった。櫻子の動きが一瞬止まる。田中一はその動きを見逃さず、櫻子を突き飛ばすと、一目散に書斎から逃げ出した。


「待て!!」

「ダメだ櫻子君! そこまでだ……!」


 なおも田中一を追おうとする少女を、坂本が後ろから羽交い締めにした。いくら手足が捥がれようとも、櫻子なら地の果てまで追っていきかねない。腕の中で暴れ回る少女を、坂本は必死に食い止めた。櫻子が吠えた。


「んだよ!? どうして止めんだ!?」

「……櫻子君は、人殺しになんかなっちゃいけない」

「……!」

「櫻子君は、僕の助手なんだから」

「…………!」

「…………」

「……ッ! ……」

「…………」

「…………」


 坂本の言葉に、櫻子はようやく大人しくなった。

「櫻子君……」

「…………」

 坂本は床を見やった。千切れた腕や羽が無残に転がる光景は、まるで殺人現場だ。いくら彼女が天狗で、人外の生命力が備わっているとは言え、いくらなんでも血を流しすぎている。このままでは、彼女の命が危なかった。


「私は……」

「ん?」

 櫻子が、坂本の腕の中でか細い声を出した。緊張が緩んだのか、その体は、小刻みに震えていた。

「私は……やってない……!」

「……わかってるよ」

 坂本は櫻子の顔を見ないようにして、そっと彼女を抱きしめた。


「櫻子君……」

「…………」

「これだけは覚えておいて。たとえどんな状況でも、君を信じてくれる人はいる」

「…………」

「僕だってそうだよ」

「……そう、だな」


 櫻子の言葉に、ようやくいつもの調子が戻ってきた。櫻子は強張っていた全身の力を抜き、安心したように坂本の胸に寄りかかり、背中を預けた。


「さ、早く医者に診てもらわないと……」

「その通りだ。だから、大丈夫だ……」

「え?」

「私を信じてくれる人はいる……。たとえそれが、どんなに信じられないような話でも……」

「櫻子君?」

「ま、文明の利器って奴だ、な……」

「?」


 坂本が首をかしげた。彼の腕の中で、櫻子は目を閉じ、意識を失うように深い眠りに落ちていった。


□□□


「ぐ……ッ!!」


 田中一は血の吹き出す喉元を抑え、深い森の中を歩いていた。磁石を懐中時計から引っぺがし、機械が修復したのを見計らって、田中一はすぐさま”過去”に飛んだ。溢れ出る血を地面に滴らせながら、田中一は”先ほど”来た幼少期の櫻子の元へと急いだ。


「クソッ! こんなはずでは……!!」 


 森はすっかり夜に包まれていた。覆い被さった緑の向こう、田中一の遥か頭上で星が瞬く。足元をフラつかせ、彼は必死に痛みに耐えて歩いた。まさかあの天狗少女、自分の羽と腕をわざと攻撃させ、過去を変えさせるとは……!

 こうなったらもう、櫻子を殺すしかない。彼女が消え去ってしまえば、未来はまた変わる。それに、今は数百年前だ。どんな名探偵だろうと異形だろうと、ここまでは追って来れまい。


 田中一は無意識に唇の端を釣り上げ、やがて巨大な楠の根元にまでたどり着いた。かすかに幼子の泣き声が聞こえる。鬱蒼と生い茂る草むらを踏みしめ、田中一は泣き声のする方へと足を進めた。


「……!」


 ……いた。楠の根元に、体を丸め泣き腫らしている少女の姿があった。時間旅行者は息を潜め、ゆっくりと羽の取れた天狗の少女の背中に近づいた。彼はポケットからナイフを取り出し、少女の首元めがけて突き出した。

「!」

「そこまでだ……」


 だが彼の握ったナイフは少女に刺さることはなく、突然背後に気配もなく現れた”何者か”によって遮られた。その者は田中一の手首をがっしりと掴み、彼がどんなに力を込めても、腕は類い稀なる力で押さえつけられ、ピクリとも動かなかった。


「お前は……!?」


 田中一が驚いて振り返ると、暗闇の中からにゅっと長く赤い鼻が突き出して来た。


「ヒッ!? て、天狗……!?」

「…………」


 藍色の、古風な着物に身を包んだ大男。頭には小さな頭襟ときんが被され、背中には巨大な斧を背負っている。彼はそのまま田中一の体を背中から羽交い締めにして、彼の持つナイフと懐中時計を取り上げた。


「どうして……ここが……!?」

「そりゃあ、あんな大声で泣かれちゃあな……」

 田中一の困惑顔に、鼻の長い大男が低い声で答えた。田中一の顔が引きつった。まさか……あの少女、大声で泣き腫らしていたのは仲間を引き寄せるため……!?


「さて……貴様がワシの娘に手を出した輩か」

「ぐ……離せ!」

「聞かせてもらったよ。全部な」

「何を……!?」


 真っ赤な顔をした大男は、フサフサの白い眉毛を風に揺らしながら、右手に持つ四角い機材を田中一の耳元に持って来た。


『「やれやれ……平行線ですね。天狗に、タイムトラベラーの証明か。そんな証拠、お互いあるわけないし……ね」「私は引かねえぞ」「そうだ櫻子ちゃん、こうしよう。今からでも認める気は無い? ごめんなさい私は天狗でしたもうしません自分が犯人です許して下さい、って」「犯人は、アンタの方だ」……』


「これは……スマホ……!?」

 耳障りな雑音の合間に聞こえて来たのは、”先ほど”の田中一と櫻子の会話だった。

「なるほど。こりゃ”すまほ”と言うのか。未来はさぞ便利な世の中になるようじゃな。成長した娘の声を、こうして聞ける日が来るとはのお……」

「……!」

 大男がスマホをいじりながら、感慨深げに唸った。あの少女……きっと櫻子が会話を録音し、”過去”に連れて来た時に田中一に分からないようにこっそり残していたのだろう。田中一は男の腕を振り払おうともがいた。だが彼の華奢な体では、大男の木の幹のような太い腕はピクリともしなかった。


『「心配ご無用。過去に戻っただなんて、そんな妄言、誰が聞いたって信じたりしないですよ」……』

 スマホのスピーカーからは、なおも田中一と櫻子の会話が流れ続ける。

「最初は、言いつけを破って良からぬ物の怪にでも襲われたのかと。泣き腫らした娘がこれを持っていた時は、何事かと思ったが……そう案ずるな。我らが天狗一族の名にかけて、必ず娘の怪我は治してみせる」

「あの時……幼い自分を抱きしめに行った時か! クソッ! 演技だったんだッ! あの時、泣いてたのもきっとわざと……」 

「”たいむとらべらー”……確かに、にわかには信じがたい話じゃな。じゃが……」

「……!」

「他ならぬ娘の話を、信じぬ親などおるまいて」


 風とともに、森の中に男の絶叫が響き渡った。 


□□□


 「あれっ!?」


 気がつくと、坂本の腕の中で眠っていた櫻子が目を覚ましていた。櫻子はうっすらと目を開けると、自分の腕を確かめるように動かした。


「ン……”過去が変わったな”」

「え?」

「何でもない……それよりテメー、いつまで抱きついてんだ。離れろ」

「ぎゃああッ!」


 櫻子が坂本を突き飛ばそうとした。だが坂本は床に倒れつつも、櫻子を離さなかった。二人の体が絨毯の上を転がった。


「オイ……」

「さっ櫻子君。僕は何だか、とっても大事なことを忘れている気がするんだ。さっきまでの記憶が無くなっているような……」

「無事腕が戻って、過去が”戻った”からな」

「僕は昔物理学を学んだ”推理の鬼”と呼ばれていて……本当は僕、すごい探偵だったんじゃないかって」

「夢見てんじゃねーぞ頭御花畑ファンタジー野郎が。離せ」


 坂本は少しがっかりしたような顔を見せた。

「今警察が、連続殺人犯が分かったって大騒ぎなんだよ。何と田中一さんだったって」

「オウ……」


 櫻子はだが、とうとう力尽きたようにぐったりとうな垂れた。よっぽど疲れが溜まったのだろう。坂本が櫻子を抱きかかえ立ち上がった。坂本の腕の中で、櫻子は抵抗しなかった。

「…………」

「…………」

 二人はしばらく黙ったままだった。誰もいない廊下を歩き、眠そうな櫻子の金髪をそっと撫で、静かにほほ笑む。坂本が心配そうに、少し熱を帯びた櫻子の瞳を覗き込んだ。


「櫻子君……大丈夫だった?」

「ああ……」

「それなら、良かった……」

「…………」

「…………」

「じゃあ、戻ろうか」

「ン……」

「それで帰ったら二人で……」  

「…………!」

「一緒にゆっくり……」

「…………」

「……囲碁をやろう」

「断る」



《完》

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

頭ファンタジー探偵 てこ/ひかり @light317

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ