1-4

「まず――俺や結芽は、いわゆる裏社会に生きている人間だ。といっても、裏社会という大きなカテゴリの中でも因縁いんねんによって構成された、お前みたいな一般の人間にはまず知られることのない……しかし、身近な世界だ」


 裏社会。マフィアのイメージが強いが、おそらくそう間違ってはいないだろう。


「因縁は、相手がいてこそ成り立つ。なんとなく察したかもしれないが、個人間や組織間での恨みや憎しみによる世界だな」


 一般人に知られることはなく、しかし誰かへの恨みという身近な世界。なるほど。

 本当にそんなものが存在するのかという疑問は、持たないことにした。おそらくこれは前提の話であって、存在するものだと信じないと何も理解はできないのだろう。


「恨みや憎しみってのは、当然一方向のものもある。が、たとえ一方向だとしても相手がいることに変わりはない。互いに憎しみ合っていたとしても、周りに迷惑をかけたり法を犯したりしなきゃ勝手にやってろって話だ。だから、一般人はこういう世界があることを知らない。ここまではわかるな」


 再び、頷く。ちらと結芽のほうを見ると、彼女はベッドに腰かけたまま足を交互に揺らし、硬い表情でその爪先をじっと見つめていた。


「ただ、常軌じょうきいっした人間ってのは必ず現れるもんだ。憎しみの果てにあっさり殺しちまうくらいならまだマシなくらいさ。例えば片方が相手を呪うとかになるとな、手がつけられん。呪詛返しって言葉があるだろ、互いに延々と呪い合うようなどうしようもないことになったりする」


 利津も話しながら時折、結芽のほうを気にしているようだった。おそらく結芽も視線に気づいているのだろうが、それでも頑なに揺らした足を見つめ続けている。


「それでも個人というちっせえ規模でやってれば可愛いほうだ。やがて家系間で争いだす奴らもいる。そして」


 一度言葉を切った利津は短く息をはいて、それから再び話し出した。


「周りを巻き込んで派閥を作って力をつけてまで争う奴らもいる――俺や結芽がそうだ。因縁の世界で派閥争いにまで発展してるものは少ない。つまり俺達はトップクラスの馬鹿ってことだな。おかげで派閥は争いを大規模に発展させた罰として、国の監視のもと犯罪者を取り締まる義務がある。お前が結芽を最初に見たときのように」


――私に憧れるのは、やめたほうがいいわよ。


 結芽がそう言っていた理由が、やっとわかった。彼女がひったくり犯を捕まえたのは、決して正義感によるものではない。義務があったからなのだ。

 そして――


「さっきの、二人組は……」


 震える喉を振り絞って、問う。とっくに結論の出ていることを。


「そうだ。あの二人組は俺らの派閥である香椎派が争っている相手、保科派の人間だ。まあ、下っ端だったが」


 あんなに怖い人たちだったのにあれで下っ端と言われるのか、と身震いして、ふと引っかかった――香椎派?

 思わず目を見開いて結芽を凝視ぎょうしする。しばらく爪先を睨んだままだった結芽であったが、やがて気まずそうにちらとこちらのほうを見て、また目を逸らしてから口を開いた。


「そう。派閥争いの中心である家系に生まれて――先月両親が亡くなったから、私が香椎の当主よ。正義なんてほど遠い、対局の存在。……ごめんね」


 それだけでも衝撃的だというのに、達規はその後の二人の言葉にさらに衝撃を受けることとなった。これまでの日常がひっくり返ってしまう、その言葉に。


「達規」


 それまでの弱気な表情から一転、結芽は睨みつけるように強い眼差しで達規と目を合わせた。


「あなたはあの二人組に騙されて名乗ったことで、香椎派に所属していることになってしまった。……選んで。身を守る術を学び生きていくか、全て忘れて元の生活に戻るか」






 頭の中を、選択肢がぐるぐると回っている。

 ある程度回復してからリビングへと移動した達規は、ソファに座りながらぼんやりと目の前のテーブルを視界に映していた。ここは結芽の家らしい。両親が亡くなったため一人暮らしだが、保護者代わりとして派閥の人間がよく訪れるのだとか。


「突然で混乱しますよね。大丈夫ですか?」


 小さな音を立てて、テーブルに紅茶の入ったカップが置かれた。紅茶を持ってきたのは、ゆるく巻いたマロンブラウンの髪がよく似合う、ふんわりとした雰囲気の舞園まいぞの十岐ときという女性だ。


「どうぞ。少しは落ち着けるといいのですが」

「すみません、気をつかってもらって……」

「いえ」


 十岐はにこりと微笑み、軽く頭を下げてキッチンと思われる方へ出て行った。砂糖とミルクを入れて一口飲むと、鼻に抜ける香りが幾分か達規の気持ちを落ち着けてくれた。

 選択肢の詳細な説明を思い返す。しっかりと考えたうえで決めなければならない。


 派閥間の戦闘で名乗ることは、昔使われていた儀礼なのだという。基本的に一般人を巻き込んではならないと国から正式に定められる以前、家系だけにとどまらない派閥の争いは極力一般人を巻き込まないようにするために、暗黙の了解で新たな賛同者――派閥の加入者を把握するため、相手派閥の人間に名乗っていたのだという。情報管理能力の向上によってその儀礼は途絶えたが、当時は先ほどのように巻き込んでしまった一般人に名乗らせてしまうという手法はよく用いられたらしい。





「今は使われなくなったとはいえ、古い儀礼ってやつは無下にできるもんじゃない。争いを続けようとする保科とは違って、香椎は前当主の意思で和解を推進している。だから儀礼を無視することも、弱い下っ端を無駄に殺すこともできない。今頃お前の名前は、国が管理する香椎派のリストの隅っこに入れられていることだろう」


 来客用の寝室から出る直前。厳しい顔でそう話した利津は、一度小さく息をはき、続けた。


「だから、これからは身を守る術を学んでもらわなければならない。が、戦いたくなければ、国に依頼して香椎派のリストから名前を削除してもらうこともできる。ただそのためには、記憶を消す必要があるんだ。国からしたら一般人に知られたくない社会の汚点だからな」


 どこまで記憶を消すんですか、と訊いた達規に、利津は腕組みをし、目を閉じた。


「……俺らに関することを、全て。お前の場合、最初に結芽を見たとかいうひったくり犯に関する記憶も含めてだな。なんの変哲もない休日に出かけて何事もなく帰ったという、偽の記憶を植え付けることになるだろう――」





 かちゃりと音が響く。達規ははっと思考の底から浮上し、顔を上げた。

 結芽がいつの間にかもう一つのソファに座って、紅茶を飲んでいた。


「ずいぶん考えこんでたわね。悩んでるの?」

「そりゃ……まあ」

「なんで?」

「え?」


 問いかけの意味を図りそこねて、首を傾げる。


「悩む必要ないじゃない。派閥に留まった場合、そりゃ普段は通常の生活ができるかもしれないけど、いつ命を落とすかわからない世界に居続けることになる。長くその生活を送ってから記憶を消してくれと言われても、それだけ多くの記憶をいじるとなると人格になにかしら支障が出る。そんなリスクを負うくらいなら、この二日間の記憶くらいばっさりと切り捨てて元の生活に戻ったほうがいいに決まってる」


 カップの中に視線を固定しながらひと息にそう言いきった結芽の言葉は、全て正しかった。

 記憶を消されるといっても、たったの二日間。派閥や結芽に関することのみだから、学校の休み時間で結芽にどう声をかけるかとばかり考えていた自分の記憶はほとんど消されてしまうのだろうが、授業内容などの記憶は残るというのだ。何もデメリットがない、普通の日常に戻るだけの最善の選択。達規自身も、それが一番だとわかっている。

 わかっているのだ。けれど。


「でも、」

「記憶を消す選択をしたら、次に会ったとき私を知らない人だと認識するけれど」


 口を開いた途端、結芽が紅茶のカップを置きながら言葉をさえぎった。


「同じ学校だし、同じ学年だし、また友達になら、なれる。派閥のことを知られないように気を付ければいいんだもの。達規が望むなら、今度は私から声をかける」

「香椎さん……?」


 なにか、必死な様子だった。

 不思議に思って結芽の顔を覗き込む。瞬間、達規は驚きに目を見開いた。

 結芽は、泣いていた。

 カップをソーサーに置いた姿勢のまま、視線もまだカップに向けられたままで、大きく開いた目いっぱいに涙を湛えていた。意思の強そうな瞳が、揺れる。


「こんな世界に、あなたのような真っ直ぐな人を巻き込みたくない。こんな世界に足を踏み入れたって、いいことなんてひとつもない。……二度と巻き込まないようにするから、だから!」


 それきり言葉にならず、結芽は声を殺しながら涙を流した。

 その姿を見て、達規は気付いてしまった。もしかしたら彼女は、いままでその立場ゆえに仲のいい友人を作ることを避けていたのではないかと。わずかな時間会話しただけの達規に対して心を痛めるような、優しい彼女のことだ。弱みになる可能性、巻き込む可能性に気付かないわけがない。


 そして、わかった。

 自分がなぜ、選択に悩んでいたのかを。


「……香椎さん、俺――」


 そっと声をかける。ようやくこちらへと向けられた赤く充血した目に視線を合わせて、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「派閥に、入るよ。特訓をお願いしなきゃいけないのは申し訳ないけどさ」


 驚いた表情ののち、結芽は達規をきっと睨む。震える唇を噛みしめて、なんとか絞り出したような声もまた、震えていた。


「……なんで」

「ずっと考えてたんだ。香椎さんが言った、私に憧れるのはやめたほうがいいって言葉について」


 利津からの説明を聞いたことで、そう言っていた意味は理解できた。でも、ひとつだけわからないことがあった。

 派閥の人間である彼女ではなく、彼女自身の人柄に関してはどうなのか。


 誰かのことを考えて涙することができるほどの優しさ。派閥の和解という、亡き両親の意思を継ぐ姿勢。そして何より、初めて彼女を見かけたあの日の、彼女に憧れた自分の目が間違っていたとは思えない。素晴らしい人格を持った少女が悪を倒した瞬間の、心震える感情が間違っていたとは、思えない。


「考えて、わかったんだ。……やっぱり香椎さんは、俺が憧れる素敵な子だなって」


 達規はあの日、確かに憧れた。それを嘘にはしたくなかった。


「なかったことになんて、したくないんだよ」


 少しばかり恥ずかしいが、偽りない本心を伝えて達規は笑ってみせた。瞬きで涙を零した結芽が、それを隠すように両手で顔で覆う。


「馬鹿じゃないの」


 両手の下からもごもごと言われ、苦笑する。


「自分でもそう思うよ」

「後悔しても知らないわよ」

「しないよ。自分の行動くらい責任持たなきゃな」


 それに対する返事はなかった。ただ鼻をすする音だけがリビングに響く。達規は心優しい少女に向けて、小さく呟いた。


「これから、よろしく」


 やはり返事はなかったが、結芽は見間違いかと思うほどに小さな動きで、一度だけ頷いた。

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