紫陽花に雨、君に傘

九十九 那月

紫陽花に雨、君に傘

「どうして、雨の日の紫陽花はこんなにも美しいんだろうね」


 脈絡もなく、貴女は不意にそう言った。

 私が答えられずにいると、貴女は勝手に言葉を続ける。まるで最初から、私の答えなんて必要としていなかったみたいに。


「私はね、別に晴れ空の下で見る紫陽花のことを否定してるわけではないんだよ。何といっても私は、雨よりもずっと晴れている方が好きなんだ。時々頭が痛くなるから、雨なんてなくなってしまえばいいと思ってるくらいだ。……それなのに、なぜか紫陽花と雨の取り合わせだけは、どうしても見たい、って思ってしまうんだよ。一体これは何でなんだろう」


 ねぇ、と、そこでようやく貴女は、私の方を振り向く。その拍子にレースの模様が入った傘がくるりと揺れて、水滴が緩やかな雨と混ざって消える。


「……そういうものだから、なんじゃないですかね」


 私は、思いついたままの言葉を口に出す。それだって、本心であることには間違いがない。紫陽花が咲いている季節には、ほとんどいつだって雨が降っていて、そしてそれを見るたびにいつも、私は何でもないことのようにふと、「紫陽花には雨が似合う」と思ってしまう。

 けれど、貴女は、やれやれ、とでも言いたげにため息をついて――いや、実際にそう口に出して、呆れた顔を私に見せる。


「わかってないね。そりゃぁ紫陽花と雨と言ったらセットだろう。けれど私が聞きたいのは、それがなぜか、ってことなんだよ。……たとえば、ほら」


 それから貴女は、首と肩の間に傘の中棒をはさんでしゃがみ込むと、左手を伸ばして、いたわるような優しい手つきで蒼い紫陽花の花弁に触れる。


「あじさい、っていうのは、漢字で書くと、紫、に、陽、に、花だろう。だというのに実際の紫陽花は、陽があるときよりも雨の時に輝くときた。不思議じゃないか」

「それは、」


 言葉に詰まる。雨の日の方が似合う、というのは自分でも言ったことなのに、そう言えばなぜ「陽」なんて言葉が使われているのか、なんて、考えたこともないし、そう言われれば不思議で仕方がない事のように思われてくる。

 すっかり考え込んでしまった私に、ほらね、と貴女は得意げな表情を見せて。


「……まぁ、実を言うと、その字が使われるようになったのは、昔の人の勘違いのせいだ、なんて説があるらしいのだけどね」


 肩透かしを食らったような気分になった。


「……そういうことは先に言ってくださいよ」

「なに、以前気になって調べたってだけさ。もしかしたらもっと深い理由があるのかもしれないし……何より、やっぱり似合うだろう、あの字が一番」


 ため息をつく。少々の不平を述べたところで貴女に流されるだけだということは、しばらく付き合ってきてわかっていたことではあった。これ以上この話を続けたって、きっとまた揶揄からかわれるだけだ。


「そう言えば、傘、変えたんですね。……似合ってます」


 そう言えば、今度は貴女は子供のようにむくれた顔をして。


「……言うのが遅い」


 なんてそう言う。


「すみません。……でも、本当に」


 それも、嘘じゃない。

 水も滴る――なんて、その言葉は、現代では女性に対してあまり使わない言葉かもしれないけれど。ともかく、貴女は晴れの日よりも、雨の日に傘を持って佇んでいる方が、素敵に見える気がして仕方がないのだ。

 そこまで考えて、ふと思う。思ったことを口にする。


「……雨の日の紫陽花が綺麗なのって、花の上を水滴が伝うせいなのかもしれませんね」


 けれど、貴女には私の考えていることまでは伝わっていないから、当然貴女は不服そうな顔をして。


「急に何だい、その話が本当なら、紫陽花にホースで水をかけたって綺麗にならなきゃおかしいだろう。……それともあれか、私のことを例えて言ってるのか、傘が本体ってことか……!」


 そう言って、珍しく怒ったような顔をする貴女を横目に、私は想像を巡らせる。

 貴女に傘を持たせて、上から水を掛けたなら。確かにそれは、なんだか少し変な感じがする。なるほど、確かに、ただ水があればいいというわけでもないらしい。


 そんなことを考えているうちに、ふと、ずっと聞こえていた傘を打つ音がほとんどしなくなっていることに気が付く。


「……あ、雨、あがりそうですね」

「おや」


 そこで、貴女は我に返って辺りを見回す。気がつけば雨は止んで、空には僅かに晴れ間が差し込んでいた。


「……本当だね、なんだ、思ったより早かったな。……じゃぁ、そろそろ退散しようか」

「え、もういいんですか」


 思わずそう聞いてしまう。まだ外に出てきてから二十分もたっていない。


「いいんだよ、私は雨の下の紫陽花を見に来ただけなんだ。それに夏の晴れ空の下は暑くてたまらない」


 傘を畳んだ貴女はそう言って、手で顔を煽ぐ仕草などしてみせる。確かに、雨が上がって間もないというのに、早くも夏特有のじっとりとした暑さを感じ始めているけれど、さっき雨が嫌いで晴れが好きだと言ったのはどこの誰だったか。


 そうして私も、貴女の後を追って歩き出す。

 そのときに、ふと、視界の端で七色が揺れる。


「……どうしたんだい?」


 すぐに足を止めてしまった僕に、彼女は不思議そうな顔で振り向く。

 私のすぐそばで、ピンクや紫の花弁の、そのひとつひとつの上で虹色が揺らいでいる。私の視線を追った貴女も、それを見ていることに気付く。

 不意に、その言葉は口を突いて出てきた。


「……もしかしたら、雨の日の紫陽花が美しいと感じるのは、この瞬間が来ることを知っているからなのかもしれませんね」


 すると貴女は驚いたような顔をして。


「君にしては面白いことを言うね。……なるほど、確かにそれなら、紫陽花にホースがダメなわけだ」


 納得したように頷いて、踵を返す貴女の背中を追いながら、けれど、と思う。


 紫陽花には雨が似合う。貴女には傘が似合う。


 けれど、雨が止めば貴女は傘を閉じてしまって、だから貴女に「この瞬間」は訪れなくて。

 それでも、私は、貴女のことを美しいと思う。貴女には傘が似合うと思う。雨が似合うと思う。だからきっと、さっきの私の言葉は間違っているのだ。


 だから私は、雨の下で傘を差している貴女のことを、よく見ていたいと思って、けれどいつだって、傘のせいで貴女は必ずどこか隠れてしまって――そして何となく私は、貴女が雨の下で美しい理由は、きっとその向こうにあるのだと思えてしまって。


 だから、私は、ただ、その傘が煩わしいと、そう感じるのだ。





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