その後のふたり


「終わっ……たぁ~!」


 思い切り伸びをしたら、凝り固まっていた背骨がポキポキと音を立てた。あれ、なんかデジャブ。

 相も変わらず、漫画家・絢本すずはちょっとだけ無茶をしつつ漫画を描いている。昔と違うのは、単行本のおかげで安定した収入を得られるようになってきたことと、


──コン、コン。


 時折訪れるあの人の合図が、チャイムからノックに変わったことと。


「アヤちゃん、お疲れ様です。終わったんですか?」

「終わりました~……。今、何時ですか……」

「1時です。午後の方の」


 午後の方の1時。なら、約束の時間まではだいぶある。今からでシャワーを浴びて、着替えをすれば、余裕で間に合う。でも、安心したら一気に眠気が……。


「おっと」


 優しく抱き抱えられて、その温もりに身体を預ける。


「小宮さん、いらっしゃいますよ。支度しないと」

「……頑張って終わらせたんです」

「ふふ、お疲れ様です」


 剥き出しで、脂ぎっているおでこに優しくキスをしてもらう。あぁ、心地いい。


「……くちには?」

「後で。シャワー、浴びましょうね」


 一緒に暮らし始めて、彼は私の扱いがさらに上手くなったように思う。それでもしっかり甘やかしてはくれるので、非の打ち所はないのだが。彼は軽々と私を抱き抱えて、さっさとバスルームに連れ出してくれた。



 * * *



 シャワーを終えて身支度を済ませてリビングに戻ると、予定よりだいぶ早く小宮さんが来ていた。「お邪魔してます」と頭を下げた小宮さんは、家に来るのにもだいぶ慣れたようで、彼が淹れた紅茶を飲んで待ってくれていた。


「お待たせしてすみません!」

「いえ。届いたデータを早速見させていただいて、いてもたっても居られなくなってしまって。こちらこそ早くにすみません」


 そう言うと小宮さんは、小さな紙袋から小ぶりな花束を取り出して、私に渡してくれた。


「最終話、脱稿おめでとうございます」

「ええ!? そ、そんな……ありがとうございます……! 無事最終回を迎えられたのも、小宮さんのおかげで……それなのに、こんなもの頂いてしまって」

「いえ。私も担当の前に一読者として楽しませていただきましたし、この漫画に携われて本当によかったです。だから、贈らせてください」


 小宮さんの気持ちが嬉しくて、思わず泣きそうになった。有難くそれを受け取り、深々とお辞儀をする。


「……それでは、仕事の話をしましょうか。最終話はお預かりしましたが、今後の単行本作業も残ってますし。次回作の打ち合わせもしなくちゃいけないですし。絢本先生にはまだまだやってもらうことが沢山あるので」


 打ち合わせの場所はファミレスではなくなったけれど、小宮さんは相変わらずツンデレだ。



 * * *



「それでは、今後ともよろしくお願いします」


 打ち合わせを終えて、玄関で小宮さんを見送る。小宮さんは、まじまじと私の顔を見て、呟いた。


「以前よりも仕事量増えましたけど、お元気そうでよかったです。ちゃんと食べて寝てるみたいですね」

「あはは……しっかり管理してもらってますから……」


 自分一人だったら、そんな風には出来てなかった。それは彼女にもありありと伝わっているようで。


「旦那さんにもよろしくお伝えください。……では、お邪魔しました」


 ぺこりと頭を下げた小宮さんを、しっかり見送った。鍵を閉めるために手を着いた時に、左手に光るシンプルな指輪が目に入った。漫画を描いてる時は一切気にならないそれは、こういうふとした日常の一コマで、その事実を浮き彫りにする。

 漫画家・絢本すずとしては、基本的には昔と何も変わっていない。でも、私の戸籍上の名前は、確かに鈴木絢から御影絢に変わったのである。


「小宮さん、お帰りになったんですか?」

「はい。旦那さんによろしくだそうです」


 彼はキッチンで紅茶のカップを洗ってくれていた。カチャカチャと食器を片しながら、私の言葉に微笑む。


「アヤちゃんもコーヒー飲みますか? それとも、寝たい? お腹空いてますか?」

「……んー」


 確かにお腹は空いているし眠い。でもどうするか決めかねて曖昧に返事をした。すると彼は「あ、」と小さく声を上げた。


「アヤちゃん、おいで」


 言われるがまま、キッチンの彼の元に歩いていく。すると彼は、私の顎をくい、と持ち上げ、そのまま唇を奪った。


「ん、」


 にゅるり、と入り込んできた舌を拒むことなど出来なくて、それに応えるように自身の舌を絡ませた。きゅん、と身体の奥が疼く感覚に、身をよじらせる。唇が離れる頃には、すっかり息も荒くなってしまっていた。


「な、急に何……」

「さっき、アヤちゃん言ってたじゃないですか。『くちには?』って」


 言ったけど。確かに言ったけど。それが今だとは思わなかった。不意打ちでそんなことをされて、ここのところ仕事に追われていたせいでしばらく眠っていた欲が顔を出す。


「……陽一さん」

「ん?」

「もっと」


 私の短い要求に、陽一さんはふふ、と笑った。その笑みがすごく優しくて、嬉しい。こうして陽一さんが全部受け止めてくれるから、私はどんどんダメになっていってしまう。でも、それでもいいって思えてしまうから怖い。私はもう、彼がいない生活には戻れない。

 甘くとろけそうなキスの合間に、彼の服をぎゅっと掴む。もう既にかなり深いところまで溺れてしまっているのに、そうやって無駄な抵抗をしてみるのだ。




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甘い吐息で深呼吸 天乃 彗 @sui_so_saku

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