第2話


 翌日、雨音はキャットフードを仕入れてきた。

 床に置いた白い小鉢の前で、缶切不用のリングプルを、雨音はパリンと引き開けた。

 小鉢にコツコツ缶をぶつけ、最後に手の平で缶の底をたたき、化け猫に捧げる供物くもつを用意した。

 この世は知らぬ間に、変わっていくのだな……化け猫は鼻をくんくんと動かした。

 供物からは、鳥と魚が混じったような、不思議な香がした。


 化け猫の日々は、雨音とともに変化した。

 屋根裏が世界の大半に違いないが、身を粉にして尽くしてくれる女の存在は、物の怪の身にも快いものに違いない。

 今更、ミルクとキャットフードがない生活は考えられない。それに、毛繕いもこまめにしてくれる。

「そなたは、うまく取り入ったな。我は思う、そなたよりも、たぶんそなたが捧げる供物のほうがうまいとな」

 化け猫は、満足そうに雨音の顔を見る。それでも雨音は、色もさえなく陰気な顔だった。


「化け猫様は、いつからこちらにお住まいなのでございますか?」

 珍しく雨音のほうから話しかけてきた。

 おなかがいっぱいの化け猫は、そんな無礼も気にならなかった。

 雨音の膝枕で、喉もとを撫でられて、気持ちがよく、ゴロゴロいいながら目を細めた。

「それは、我もわからぬ。気がついたらここにいた。もう……何百年も……」

「……おさびしくはありませんか?」

 おさびしい? さびしいとは、どのようなことだろう?

 化け猫の知らない言葉だった。

「雨音は……さびしく思います。たった独りでこのような中、望んできたとはいいながら、現世に未練をもつ身が情けない」

 そういうと雨音はしくしく泣き出した。

「せっかくのいい気分を……めそめそすると、そなたを食うぞ!」

 機嫌を損ねた化け猫は、雨音の膝から飛び降りると、自分のテリトリの屋根裏に戻った。


 化け猫に捧げられる名誉よりも、さびしいという気持ちにかられるとは……。

 所詮は女、弱虫な女……。


 また、雨が? 静けさを柔らかく裂く音。

 窓の外は明るいままだ。化け猫の瞳は、細いままだ。

 窓から外を確かめようにも、ここから外は、化け猫のテリトリではない。

 外の世界には、物の怪が入りこめない結界があるのだ。

 世にも恐ろしい化け猫が外に出られぬように、かつてのえらい坊主が張ったものらしい。

 仕方がない。化け猫は、雨を呼ぶように顔を手でぬぐった。


 これは、雨の音ではない。

 化け猫はとがった耳を立てる。キュンと細い目を鋭く光らせる。

 雨音が、何かを使って音を奏でているのだ。小さな箱から流れる音は、澄んでいて耳に心に心地よい。

 これが、さびしい……そういうことだろうか? 化け猫は目を閉じた。


 人はいつから来なくなったのか?


 昔、人にとり憑いた。

 それは、雨音のような女だった気がする。

 いや、もっと小さな少女だっただろうか?


「母さん、怖いよ。その話」

「猫っていうのはねぇ……。歳を重ねて人にとり憑くのだよ。やがておまえなどバリバリと食うよ」


 化け猫の真っ赤な口は耳まで裂けている。

 そして、手を回せばどんな悪人でも、踊らされてしまう。踊り踊って……死んでしまうまで。


 そう、たぶん。


 今となっては試すことすらできない。化け猫の前に、人はいなくなってしまったのだから。

「さびしい……」

 化け猫は、雨音のまねをしてつぶやいてみた。

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