3

 冷静になるというより、気持ちが疲れてしまったらしい。

 病院を出た途端にあらゆる感覚が日常生活に引き戻され、暑さに喘ぎながらアルバイトへと自転車を走らせていた。三十分も遅刻をしてしまったが、それ以外はいつもとまったく変わらない「きよたけ」がある。

 来客のピークを過ぎ、オーダーも終えて一息。料理を待つ。

『四軒寺市内の男性宅に忍び込んだ際に男性と鉢合わせ、殴って怪我をさせたとして、傷害の容疑で――』

 店の隅のテレビが浦上さんの逮捕を報じている。二日を要したものの、市内の防犯カメラや近隣住民の目撃情報が手掛かりとなって逮捕につながったという。被害者たる赤石さんと会ったその日に逮捕まで至るとは思わなかった。しかも、その赤石さんが言っていた通り、浦上さんの犯行だったなんて。

 報道を聞いていると、先刻の怒りが思い出される。どうしてもわたしには、赤石さん自身が原因となって降りかかった事件としか思えない。ただ、同時に熱くなってしまった自分への虚しさもこみあげてきて、苛立ちは押し流されていく。

 家族がどうとか言って彼を罵ったけれど、わたしもわたしで、兄さんを心の奥底ではのけ者にしていたんだよなぁ。

「おい、遙」

 ぎくり。

 はっとして振り返ると、攸子が口を尖らせている。

「え、あ、ごめん。料理、できたよね」

「考え事していただろ? ……塩鯖と、冷やし中華。三番さんね」

「うん」

 三番の卓には、ワイシャツに汗を滲ませた若い男性二人組が座っている。あまり見かけない人で、たぶん駅近くのオフィスに努めている人だろう。

「社長秘書が逮捕か、また相場が落ちるだろうな」

「偽札対応で一時持ち直したのに」

 彼らもニュースを見て話題にしている。相場……topSALEの株価か、MaSTのことだろうか。会社の人間のスキャンダルは、信用に関わる。

 料理を届けてからも、なんとなく気になって彼らの話題に耳を傾けた。

「あの発表のときに売ってよかった。最初のあれで焦って売っていたら、いまごろ大損だ」

「従業員逮捕となると、最初よりひどいよな」

「そう思う。最初の売りは、大量保有する何人かのユーザが結託して引き起こしたって噂もある。何の前触れもなくあれだけ売れるなんて」

「だとしたらそいつらは運がいい。十日前といまとで比べたら、ある意味損切りに成功したってことだろ?」

「……MaSTも終わりか。みんな新規に夢を見すぎたよ」

 小難しいことを言っているが、流れはわかった。どうやら事件以前にMaSTの取引価格が暴落して、その後topSALEでまた期待値を高めるような出来事――偽札対応と言っていた――があったようだ。それで価格は上昇したものの、浦上さんの逮捕で再び下落。ふたりの予測では、もう後がないとみえる。

 唯野さんと浦上さんは、贋札のスキャンダルを恐れるあまり、結局は自分たちで別のスキャンダルを生み出してしまった。唯野さんの偽札が発覚したら、それはそれでビジネスの終わりだったのかもしれないけれど、自業自得だ。

 そういえば、赤石さんは常々、カネは人をおかしくするようなことを言っていた。浦上さんは、スキャンダルでカネを失う恐怖に負けて、常軌を逸した行動を選択してしまったのだ。弱い人間だったということだ。

 ……あれ?

 赤石さんの発想は、これっぽっちのものだったっけ?

「ねえ、遙。料理全部出たよね?」

 また背後から攸子に声をかけられ、肩が跳ねる。

「そ、そうね、全部出たと思う」

「そっか。遙、考え事……というか、お客さんの話に聞き耳立てていたな?」

 さすが攸子、お見通しだ。恐れ入った。

 ボケっとしていたことを平謝り。続けて、声を潜める。

「ところで攸子、topSALEの贋札の噂ってどうなったの?」

「何だよ、営業中にそんなこと」

 唐突に問われた攸子はきょとんとしている。浦上さん逮捕のニュースを見てふと思ったのだと適当に言い訳して、改めて問うと、彼女は「そうだな」と言って語りだす。

「利用規約の改定で収まりそうだって話だよ。現金の出品が禁止されたから、現金と騙って偽札を売ることは、現実的に不可能になったみたい。何でも、出品する商品の写真をAIか何かで読み取るシステムができて、札らしいものは自動的に弾かれるんだってさ。対応に時間がかかったのも、そのシステムの準備に時間が要ったからとか云々」

「へえ……そうなの」

 何だよ、訊いておいて反応が薄いな、と残して看板娘は厨房へ引っ込んだ。

 なるほど、その利用規約の改定で評判が回復したのか。

 お会計にわたしを呼ぶ声が聞こえて、わたしは思考を中断した。



 ヒグラシの声が響く。

 夕暮れの洋館は物語の世界を切り取ったかのようだ。家の前に立つと、伸びる影が覆いかぶさり、屋根の縁からあふれるオレンジ色がわたしを包み込む。家主が留守でも、家主が傷を負った事件の現場となっても、住宅街で異彩を放つ家は、自信を持ってこの街の住宅街に佇んでいる。

 浦上さんの逮捕が報じられているように、もはや警察の捜査も終わっているようだった。夕刻の住宅街には人の気がなく、洋館もどこか寂しそうに見える。

 庭で待っていると、ゆっくりと黒光りする高級外車が走ってきた。庭に少しだけ乗り入れて動きを止めると、まもなくエンジンも停止した。

「征吾さん、急に会いたいと言い出してすみません」

「いや、構わないよ。今晩のスケジュールは空いていた」

 酷暑のもとでも、征吾さんは夏物の背広を羽織っている。日陰ではその黒色が一層深く奥ゆかしく目に移り、吸い込まれていくように美しい。ノーネクタイだが、シャツの白色がつくる黒とのコントラストもまた、彼の存在感を引きだす。

 初めて会ったときも彼に気後れしたものだ。彼は見るからに「本物」で、わたしのような平凡な人物には近寄りがたいオーラを放っている。勇気を出して呼びだしたところ、幸いにも彼はわたしの頼みを聞き入れてくれた。

 場所もわたしが指定した。彼と会うところといえば、思いつくのはこの洋館くらいだった。

 唾を飲む。

 少し心の準備が足りなかった。

 わたしは征吾さんにこんな話を切り出してもいいのだろうか? 彼も弟が傷つけられて、少なからず怒りを感じているはずだ。そんなときにわたしが憶測でものを語って、彼はわたしを許してくれるだろうか? いまさらになって、彼と向かい合うのが恐ろしくなってきた。

 いや、でも、覚悟を決めて。

 早く切り出して、楽になろう。

「何か緊張しているようだね。君のタイミングで構わない。何なら場所を変えてもいい、ここでは暑くて集中できない」

 征吾さんはわたしの肩に力が入っているのを見て、ふっと笑った。その穏やかな微笑みに気が楽になったが、切り出すにはまだ早かった。

 目の端に違和感を覚えた。

 おかしい。

 何かが動いた?

「どうした? 急に眼の色を変えて」

 彼の問いかけよりも、窓で揺れるカーテンが気になった。

 そうだ、カーテンだ!

 どうしてカーテンが動いている?

 家の持ち主は入院していて不在なのだから、窓や扉は閉まっているはずだ。それなのに、家の中には風が通っているというのか? 彼が殴られたのは帰宅直後だから、扇風機がつけっぱなしなのではない。警官もいないはず。

 家の脇へ回った。

「どうした、急に……おや」

 わたしの後に続いた征吾さんも、この家に起きている異常に気がついた。

 リビングのガラス戸が開かれていた。そこから風が入って、家の中でカーテンが揺れ、書類が踊っている。鍵のところにはガムテープが目張りされ、手が通る大きさに穴があけられていた。

「家の人間がいないと知って何者かが入ったか。やり方からしてそれほど知能の高い人間の犯行とは思えないが……まずは通報だな」

 彼の判断はもっともだ。いや、最善であり、それ以外は愚策といえる。しかし、わたしは愚策を選択していた。赤石さんには悪いが、緊急と思って下足のまま家に上がる。

 征吾さんが危険だと言ってわたしを制止する声は聞こえていたけれど、従う気にはなれなかった。体が自然と、侵入者を発見するために動いている。恐怖は感じない、何か胸の奥からくるものがわたしを動かした。

 征吾さんは通報しようと携帯電話を取り出していたが、家に入っていくわたしを放っておくわけにもいかず、彼も家に入った。

 リビングに人の気配はない。当然明かりはつけられておらず、書類やら本やらが散らかり、壁に染み付いたコーヒーの香りが漂っているだけ。一方で、確かに物音が二階から聞こえてくる。

 侵入者は二階だ。誰かはわかったし、目的もわかっている。

 丸腰ではまずいかもしれないと思い、手近にあったモップを手にする。根元を両手で握り、槍のように構える。大した武器にはならないだろうけれど、時間稼ぎくらいならできるはずだ。

 玄関に出れば、いままでそこにあるとは知りつつも登ったことはなかった階段がそこにある。赤石さんは使っていないというが、彼が住む前は誰かが生活の場、ビジネスの拠点として用いていたのだろう。

 一段踏むごとに埃が舞う。咳きこまないよう息を止める。二階に注ぐ西日の明かりを目指し、薄暗い階段を進む。

 フロアが見えた。廊下が伸び、ドアが並んでいる。床には事件の際についた血痕が残されている。

 ドアはいずれも開け放たれていて、舞い上がる埃を見るに、何者かが動き回っていたのは明らかだった。わたしたちが入ってきたことを悟って、いまは息を殺して潜んでいるのだろう。

 緊張が頂点に達する。

 と、そこで先手を打って声を出したのは征吾さんだった。

「誰だ、顔を見せろ」

 すると右手奥の部屋からがたり、と物音。

 そこにいるのか。

「その声は……!」今度は侵入者が声を上げた。もう隠れられないと悟ったのだろう。わたしも聞いたことのある声である。「赤石征吾、お前がいるのか」

「そうだ、私だ」征吾さんも相手を悟り、低く威嚇するような声色で語りかける。「唯野だろう、姿を現せ」

 しん、と一瞬の静けさ。

 体に力が入る。


「あああああああああああああ!」


 蛮声をあげて飛び出してきた手元には、刃物と思しき銀色が輝く。

 物事を理解し判断するには時間が足りなかったが、一瞬でも危険を察知できれば十分だった。咄嗟に目を閉じ、代わりにモップの柄を突きだした。

 闇雲の一撃は、幸運にも敵の顔面に命中する。

 目を開けると、包丁を持った唯野さんが悶えていた。当たった、と驚くのも束の間、わたしを押しのけて飛びだした征吾さんが彼に強烈な蹴りをお見舞いする。たちまち奥の部屋まで転げていって、包丁も手からこぼれた。

 しかし相手も諦めず、床に伏せったまま包丁に手を伸ばす。そこへ征吾さんが駆け付けて右手首を思い切り踏みつける。暴漢は悲鳴を上げてうずくまった。

 もはや抵抗できないと見た征吾さんは、包丁をこちらへ蹴って滑らせる。

 わたしは呆然と立ち尽くしていた。

「青山さん! これだけ危険な目を見れば気が済んだだろう、警察に通報しなさい。それと、下に紐かガムテープがあれば持ってきてくれ。警察が来るまで、こいつを縛り上げる」

 はっとして、自分が苦しくなるまで息を止めていたことに気がついた。

 呼吸が荒い。

 心臓が破裂しそうだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る