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所持金は一切無事だったらしい。
しかし、事態は解決に向かうどころか、悪い方向に進んでしまっている。
「ほら、やっぱり盗まれていたんだ!」
「わたしが盗るわけないじゃない!」
損害はどこにも出ていない。何も起こっていなかったことにもできる。しかし、当事者たちの腹の虫は収まらなかったようだ。
自分の主張に間違いがなかったと息巻く藤巻さん。無実の罪を着せられたのであって、盗みなどはたらいていないと語気を強める駒沢さん。特に藤巻さんの憤りは、自分の財布を持っていた駒沢さんのみならず、自分の主張を嘘と疑った店長にまで向けられている。それゆえ店長まで浮足立ってしまい、うまく宥められない。攸子も同様に、藤巻さんを無銭飲食と一方的に疑ってしまっただけに歯切れが悪い。
頼りの店長と攸子があたふたしてしまっては、残りの人たちで落ち着かせようとしても、混沌極まる状況は改善されない。
みんながおろおろ、むしろ混乱が深まっていくだけだ。
とにかく口論だけでも納めなければならない。割って入ってふたりを引き離そうか、と英里奈と目配せをしたそのとき、大きく手を叩く音が響く。
「はいはい、一度静かにしよう」
まさに水を打ったように静まり返る。ついに静止に乗り出した「お金の探偵」の深い嘆息を、残る九人は聞かされた。
「さっきから何をしているんだ、黙って見ていれば誰もろくに収められない。自分の思うままにものを言っているだけじゃないか、それでどうやって解決しようというんだい?」
落ち着いてください、ということを赤石さんなりに表現した言葉だ。もちろん、彼のくどくて挑発的な言い回しが、当事者の神経を逆なでするのは言うまでもない。
「濡れ衣着せられた側の身にもなってよ!」
先に我慢ならなくなったのは駒沢さん。でも、赤石さんはぴしゃりと切り捨てる。
「無理言わないでよ。君が本当に盗んでいないかどうか、僕にはわからない」
「やってないのにやったことにされる謂れはないわよ」
「だから、それはあんたがやっていないと言っているだけだ。僕にはわからない」
それ以上の証拠がどこにあるの、と駒沢さんはもごもごと小さく言い返した。そんな弱々しい反論では、赤石さんは聞く耳持たず。
「ここは全員がフェアに、何をして何をしていないか、事実を確認していこう」赤石さんは十人の中央に歩み出た。さすがというべきか、恐れを知らない口ぶりだ。「それぞれ何をして過ごしていたか、説明してもらおう。ただし、そうだね……二人以上が証言をして裏付けをしないと、説明が本当かどうかは保留するのでどうだい?」
なるほど、別の人の承認を事実判定の根拠に使うということか。まずは、各々が好き勝手に自分の主張を並べていく混沌を抜け出さなくてはならない。
「店長、もう閉店だから時間もあるだろう?」
「あ、はい」
さっきまでは大人しかった赤石さんの態度が急変して、店長の混乱はピークに達してしまったらしい。アルバイト店員に対しても随分と腰が低い。
「じゃあ、これから全員で証言ゲームだ。審判は僕」
彼が自分を指し示した瞬間、藤巻さんから抗議の声が上がる。
「ちょっと待て、お前は信用できるのかよ!」
「できる。だって誰も僕が財布やカバンに触ったところを見ていないはずだから。それに、僕がここで店員をするのはきょうまで最後だから、店に不利なことだって平気で言えるよ。……だよね、遙?」
いきなり振られても困る!
場の視線を一手に受けて、頬が引きつるのを感じながら彼を支持する。
「彼の言っていることに嘘はありません。ついでに言うと、彼、探偵だった時代もあって、頭も切れるので、この場を任せても大丈夫だと思いますよ」
これを疑ったらキリがない。当事者たちは不承不承頷いて、この場は赤石さんを信じて、彼のルールを受け入れるという意思を示した。
彼の信用を保証したわたしに向けられる、攸子と英里奈からの「変な知り合いだな」という視線には耐えるしかない。
証言を聞く前に、赤石さんはその場の十名を確認した。赤石さん、わたし、英里奈、攸子、店長、店長の奥さん、藤巻さん、駒沢さん、増嶋さん、そして、増嶋さんが連れてきた禿げ頭の友人は
「よし、それじゃあ聞き取りを始めよう」
最初に証言を求められたのは、当事者も当事者、藤巻さん。
「おいおい、俺は被害者だぞ」
本人は発言を要求されるとは思っていなかったらしい。でも、盗まれたことが事実であると確かめるには、まず彼自身の発言が嘘でないことが確認されないといけない。
仕方なく、というふうに中年男性は語りだす。
「店に来たときは、確かここにいる全員店にいて、それ以外はいなかったはずだ。……あ、いや、カウンターのふたりはまだ来ていなかったな。料理を待つあいだ、トイレに行くために一度席を立った」
「財布はどうしていた?」
「よく憶えていないが、ポケットに入れていると座り心地が悪いから、テーブルの上に出しておいたと思う。もちろん、いくらなんでも放り投げておいたわけではないぞ。調味料とかメニューとかの脇の、目立たないところに。席を離れるときに、置きっぱなしにしていたらしいな」
「座席にいなかった時間はどれくらい?」
「長くても二分かそこらじゃないか? わざわざ時計は見ていないけどさ」
財布をテーブルの端に置いていることを知っていれば、お手洗いのあいだに誰でもそれを持ち去ることができたようだ。ただし、この証言の裏付けが不足したり、別の証言で嘘だと明かされない限りで。
早速、赤石さんは藤巻さんの証言に嘘がないか、残りの八人に問う。
すると、日野さんが手を挙げた。
「変なことはしていなかったように思うなぁ。少なくとも、席にいるあいだはずっと見えていたし。物陰に置いたようだから、財布については、ちょっと断言できないけど」
日野さんの座席からは、向かい合う増嶋さんの背後に藤巻さんを捉えられる。日野さんは座席にいると、多少増嶋さんの体には隠れてしまうが、ずっと藤巻さんを見ていることになる。
財布の状態については証言がなかったものの、座席の位置からして、信頼度の高い証言と考えていいだろう。
「へえ、ありがたいなぁ。わざわざ証言してくれるのか」
さんざん疑われて機嫌の悪い藤巻さんは皮肉を垂れる。日野さんは穏やかだ。
「まあ、自分に不利なことを言われたくはないので」
案外、駆け引きじみたことを考えているようだ。
「それで、ほかに裏付けを与えられる人はいないの?」
赤石さんの問いに答える者はいない。これでは日野さんひとりの証言しか得られなかったことになるため、藤巻さんの証言が嘘とされる可能性が残ってしまった。つまり、自作自演の疑いも捨てきれない。
舌打ちをする藤巻さんに、赤石さんは薄ら笑いを見せる。
「まあ、証言が出なくても仕方がないかもしれない。店の端にいて見えにくい位置だったし、それに、やましいことのある人があえて証言をしなかったとも考えられる」
次に証言を求められたのは駒沢さん。座席としては、日野さんの真横の壁際にいて、日野さんと増嶋さんを正面に見ることができる。
藤巻さんの自演という場合を除けば、鞄から彼の財布が見つかったがために、最も疑いをかけられてしまう立場にある。明確な証言が必要だ。
「私のところから藤巻さんは見えないわよ。わざと証言しないなんて、そんなこと」
事実、彼女の座席に座って藤巻さんのほうを見ようとしても、レジ前の通路との仕切りがあって藤巻さんの座席のほとんどが隠れて見えない。
「もう確認済みだけど、藤巻さんの前に店に入ったの。食事を終えるまで席を立つことはなかったわ。食後にお手洗いにいったところは、カウンターの女の子ふたりが見ていてでしょう?」
わたしと英里奈は頷いた。
ついでに、増嶋さんも「見ていたよ」と付け加えた。
「で、騒ぎが始まったところに戻ってきたの」
駒沢さんの発言に異議を訴える者はいなかった。彼女の席を視界の端に収められる増嶋さんの同意と、少なくとも厨房からわかる範囲では席を立ちあがるところを見ていないという攸子の賛同があって、最低ラインである証言ふたりぶんはクリアした。
藤巻さんの表情が歪む。
財布が発見された鞄の持ち主が座席にいたなら、財布を盗んだ犯人である可能性は限りなく低い。候補が減るごとに、藤巻さんの自演という可能性も高まっていく。
そこで確認されるべきは、加害者ではなく、被害者としての証言だ。
「お姉さん、鞄におかしなことをされた覚えはない?」
この問いに、駒沢さんは困った表情を浮かべる。
「いや、座席にいたときは携帯を見ている時間が長かったから……正面に置いていたけれど、ほとんど注意して見ていなかったかも。正直に言って、よく憶えていないの」
お手洗いから戻ってきて初めて自分の鞄に見知らぬ財布が入っているのに気が付いたのだから、彼女が盗人について断言できないのは当然だ。鞄に財布を入れられる瞬間を目にしていたなら、問題はここまでややこしくならない。
「僕たちは、まだほかのお客がいる時間からここにいました」
増嶋さん、日野さんのリタイア二人組が発言する番だ。彼らは事件の当事者の中では来店が最も早いので、藤巻さんが来店してからの過ごし方が主な証言内容となる。
「藤巻さんが来る頃には食事も終えていたし、ずっと座席で話していたよ。お客も減ってきたから、長居してもそこまで迷惑じゃないと思ってさ」
わたしと英里奈が来店してからもずっとそんな様子だった。
「嘘は言っていないと思う」
併せて証言したのは駒沢さんだ。バッグの様子を注視していなかったとはいえ、正面の座席で座って話し込んでいるふたりが立ち上がったり、こそこそ財布を盗もうと動き始めれば、さすがに覚えがあるだろうという。
「藤巻さんがトイレに行っているあいだが盗みのタイミングでしょ? そのとき増嶋さんか日野さんが立ち上がって財布を取りに行って、私のバッグに入れるなんてことをしたなら、さすがに目立つわよ」
これを聞いて、日野さんは表情を明るくした。
「じゃあ、これで無実ですね。だって、ここでお互いを目の前に見て話していましたから」
駒沢さんの証言に加えて、藤巻さんと日野さんが双方一緒に過ごしていたと証言をできるから、ルール上は二名ぶんの証言を得られたことになる。ふたりはずっと座っていた、と。
赤石さんも頷いた。
「まあ、そういうことになる。ただし、結託して嘘を言っているのでなければね」
日野さんと増嶋さんは顔を見合わせた。
「まさか、嘘だなんて」
と、ここでお金の探偵は藤巻さんを振り返る。
「ねえ、わざと黙っているってことはないかい?」
「え?」
「ずっと見えていたはずだろう?」
藤巻さんの座席に座れば、常に増嶋さんの背中を見ていることになる。それなのに彼らの行動に裏付けを与えないとすれば、増嶋さんか日野さんがじっとしていたことを認めると不利益がある、という疑い――すなわち自演であった可能性――がぐっと高まる。
「そんな、わざと黙っているわけがないだろう」藤巻さんは座席の向かい側、店の隅に置かれているテレビを指さした。「あれを見て過ごしていたんだ。ここから見るには体を横に向けなきゃいけないから、増嶋さんのほうは見ていなかった」
嘘っぽいな、と思ったのはわたしだけではないはずだ。
来店が最後で、厨房からも席に座っていることが見えていたわたしと英里奈は、証言をするまでもなく盗みをはたらいていないことが確認された。また、攸子の両親――店長と奥さん――も互いに働いているところを見ているし、厨房から出ていないことも裏付けが取れたため、シロということになった。
最後に残るのは攸子。
「まあ、働いていてうろちょろしていたから、証言をするのも、裏付けをもらうのも難しいよな」
こういうときに、彼女の竹を割ったような性格がいいものなのか悪いものなのか。
攸子の言う通り、ホールで働いていた彼女は行動を証明するのに不利だ。客は普通店員の動きに注目していないし、ホールにいるとオーダーや片づけ、会計などタスクが多いため、彼女自身何をしていたかを正確に振り返って述べるのも簡単ではない。
「盗んでいないことを説明できるとしたら、駒沢さんの鞄に入れるなんてありえないってことだね。店の娘が客から盗みをはたらいたとして、どうしてすぐバレるようなことをするのさ。ここは自分の生まれた家だよ、私だから知っているようなところにいくらでも隠せる」
ごもっとも。ただし、この場のルールにはそぐわない証言なので、赤石さんの裁量に委ねられてしまう。彼は「合理的」なものの考え方が好きだから、意外と効果的な証言なのかもしれないけれど。
ここまでで、わたしと英里奈、店長と奥さん、そして駒沢さんに関しては、財布を盗んでいないということになっている。増嶋さんと日野さんも、少なくともふたりで結託して悪さをしているのでなければ、何もしていないということだろう。しかし、藤巻さんと攸子には確かな証言がない。
一方で、盗まれた財布が駒沢さんのバッグにいつ入れられたのかも定かではない。彼女は自分の手荷物にさほど注意を払っていなかったようだから。もっと証言が要る。
しかし、続く彼の発言に耳を疑った。
「話は見えてきた、証言はここで切り上げていい。……視点を変えてみよう。それぞれの注文とその金額、レジの金額を確かめるんだ」
証言集めを切り上げるって?
しかも、どうしてレジの金額を?
「関係ないことのように思いますけど」怪訝そうに英里奈が尋ねる。「というか、証言が足りていませんよね? もしかして、証言だけでは方が付かないとか?」
自分が無理に始めた証言集めを勝手に切り上げたものだから、赤石さんには再び資質を疑う目が向けられてしまう。彼は証言を集めるだけ集めておいて、集約するようなことを一切していないから、適当なことを聞いたり話したりしているだけに見えなくもない。売り上げを調べるとなると、店長も渋い表情だ。
当の赤石さんはというと、疑われることに慣れているというか、飄々としていて意に介さない。「いいから、いいから」と強引に聞き出そうとする。
彼なりに考えていることがあるのだろう、わたしから切り出した。
「唐揚げ定食、六五〇円です」
渋々、英里奈が続ける。彼女が注文したラーメンは五五〇円だ。
カツカレーを注文したのは増嶋さん。値段は七五〇円。
日野さんと駒沢さんは同じ注文で、七〇〇円の塩鯖定食。
藤巻さんはわたしと同じ唐揚げ定食、六五〇円である。
「じゃあ、次はレジを調べてもらおう。遙、頼んだよ」
「え? いや、できませんよ」
わたしの回答に、赤石さんは顔を歪めた。店長に「いいよね?」と確認すると、半ば無理やり許可をとって、再びわたしに売り上げを調べるように言う。でも、店長の許可の問題ではないのだ。もっと物理的なところで、できないものはできない。
「遙は、いつもここのレジを使っているんじゃないのか?」
「いや、そうじゃないんです。いまは鍵を持っていないから」
会計はホールが兼ねているため、レジのそばにずっと人がいるわけではない。よって施錠は必須だ。赤石さんが鍵を持っていないということは、彼はわたしの代役を務める一週間、会計を任せられていなかったのだろうか。
「ああ、そうか。私が持っているんだった」
やはり、攸子が鍵を鍵を持っていた。気が利かなかったね、と笑いながらポケットに入れていたそれを取り出し、レジに歩み寄るが――
「ちょっと待った」赤石さんが彼女を制止した。「僕が頼んだのは遙だ。遙に数えてもらうよ」
強めの口調に驚いた様子で、彼女は引き下がった。
彼女は先ほどの証言ルールで無実かどうか保留されている。赤石さんはそれを気にして、わたしに頼んでいるのだろうか? まさか盗みをはたらくとは思えないけれど。
鍵を受け取り、レジを開く。注文の記録と照らし合わせながら、きょうの売り上げを調べる。そういえば、少し前にも売り上げを調べたことがあった。あのときは、金額ではなくてお札そのものを調べていたのだったか。
……おや?
おかしいな。
数えなおしてみよう。
……あれ?
やっぱり数え間違えてはいないようだ。
「おかしい! 一四〇〇円も多いなんて」
報告を聞いた赤石さんの口角が上がっていく。驚いた様子はなく、むしろ、予想通りとでも言いたげだ。どうやら、事の真相がわかったようだ。
「いや、多くていいんだ。その金額の差は、今回の件が複数の共犯によって起こされたことを示している」
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