Case.2

見つからない偽札事件

1

 わたしの通う文政ぶんせい大学とその系列校は、お嬢様学校とか、お坊ちゃま学校と呼ばれることがある。

 セレブな街たる四軒寺に堂々と四学部をワンキャンパスで設ける私立大学は、常識的に考えれば相当な財力を持っているといえるだろう。創立百年を超えているから、おそらく四軒寺が高級住宅街になる前から学校の敷地を持っていたはずだが、とはいえその実績とネームバリューから多くの「お金持ち」のご子息たちが系列校に通う。わたしも附属高校で社長令嬢や医者の息子などに会っている。その子たちはたいてい小中学校も系列に通っていて、公立で学んだわたしと比べて育ちの良さを感じたものだ。

 大学は高校と違って、それほどお金持ちの濃度は高くないと思われる。わたしと生活の感覚が明らかに異なるような経験は、高校に通っているときよりもぐっと減った。

 たとえば、

「まったく、自分の本を学生に売りつけるってどうなんだよ?」

 という高校からの友人で、定食屋の娘である攸子ゆうこが漏らす愚痴――二限の講義で用いる教科書が講師の自著で、しかもなかなかの高額――には、わたしも大きく頷いてしまう。

「そうだよねぇ、自慢したいのか、それとも在庫処分なのか」英里奈も攸子の不満に賛同を示している。「教室で自分の考えていることをベラベラ喋るのはタダなのに、本に書いたアイデアはきっちりお金取るんだから、ダブルスタンダードだよ」

 あ、授業料は収めてるか、と付け足して、彼女は総菜パンをかじった。

 英里奈があのコンビニを去ってから一か月、いまでは苦労して見つけた家庭教師のアルバイトを中心に生活を成り立たせている。忙しさについては「一割増し」とのことだが、そうして冗談めかしているあたり、暮らしは相当改善したようだ。

 卵焼きを嚥下したわたしも、自分の考えを述べる。

「でもあの先生、教科書読まないと試験対策できないって噂だよ?」

 攸子や英里奈の言っていることはもっともで、わたしだって教科書に高いお金を払わないで済むならそうしたい。けれども、単位を取って四年で卒業するためとなると、結局すべて買いそろえていないと不安だ。

 しかし、攸子は「いや」と言って続ける。

「買うならもう少し粘ってからだな。試験が本当にマズそうだったら、仕方ない」

 と言っておいしそうな唐揚げを頬張る。わたしは彼女の家のお店にアルバイトでお世話になっていて、そこでいつも提供している唐揚げは、正直お客さんに出すのが惜しく感じられるほどの代物だ。

 攸子は料理店の娘らしく手作りのお弁当、英里奈は総菜パン、わたしは母さんの作るお弁当。前期の一週目、講義が本格的に始まる前の、のんびりとした昼休みである。

「私は今学期もネットで安く揃えようかな。中古も選択肢に入れてうまくやると、合計で二、三千円は安く済むからね」

 全部買いそろえるわたし、最低限のものを必要と感じたら買う攸子、インターネットも活用しながら費用を抑える英里奈。お昼ご飯と同じで、教科書の用意についてもそれぞれだ。少しでも節約しようと工夫しているんだなぁ。

 失敗しないのか、と素朴な疑問をぶつけてみると、機械音痴をからかわれた。

「慣れだよ、慣れ。ネットフリマだとつかまされることもあるけど、そういうときの対応も含めて慣れちゃえばいいんだよ」

 機械が苦手な人間として反論すると、世の中だいたいのことは慣れで解決する。

「そのネットフリマってものがどういうものかさえわからないんだよ? それにつかまされるって、相当危なっかしいものに聞こえるけど」

 攸子と英里奈が顔を見合わせる。

「要するに、出品者も購入者もサイトのユーザなわけ」箸を指し棒のように中空で振りながら、攸子が説明する。「んで、価格を決めるのも出品者。購入者が値段も踏まえて商品を欲しいと思ったら、連絡を取って交渉するんだ」

 私の使ってるtopSALEトップセイルってサイトの場合はね、と英里奈が後を引き継ぐ。

「交渉が成立したら、まず出品者がサイトを通して商品を発送するの。届いた商品を確認したら、購入者がサイトを通して出品者に代金を振り込む。要するに、サイトが口座番号とか住所とかの個人情報を扱うから、取引するユーザ間での匿名性が保たれるってこと」

 うん、むつかしい。

「やっぱりわたしには無理だよ、怖い、怖い」機械音痴は自慢できないが、わたしはフリーメールのアカウントを作成するだけで一時間近くを要したことがある。ネットフリマとやらも、とても使いこなせない代物であろう。「なんか、最近現金を売買して詐欺まがいのことをする人もいるって聞くし。確か、英里奈の言ったtopSALEってところだったはず」

「ああ、たまに見かけるよ、金貸しするユーザ」わたしの曖昧な知識に英里奈が付け足す。「代金振り込みは商品発送の後でしょ? だから、たとえば一万円札を一万二千円の値段で売ると、出品者は数日間一万円を手放しただけで、一万二千円を手に入れることができる。購入者の側からみれば、どうしてもすぐに使いたいお金を手に入れられて、数日後まとまったお金を手に入れたら、一万二千円を返せばいいの」

 それで出品者はたった数日で二〇パーセントもの暴利をむさぼることができるわけだ、と英里奈はいやらしく笑った。

「最近はその斜め上を行く奴もいるって話だ。そういう金貸しに見せかけて、偽札を売るらしい」

 欲しいなら交換だ、と攸子はわたしの弁当から冷凍のコロッケを攫うと、唐揚げを置いていった。そのコロッケを口にして、やっぱりうちで揚げたほうがうまいや、と彼女は呟いた。



 三限に授業のある攸子、英里奈と別れ、わたしは駅の南の洋館を訪れた。

 あのゴミ屋敷のような洋館も、へらへらした主人も、先月英里奈の件で相談をしたときを最初で最後の訪問とするつもりだった。自称お金の探偵本人だって、会わずに済めばそのほうがいいようなことを言った。

 とはいえそれきりでは申し訳なく感じはじめて、せめて簡単なお礼と、英里奈が平穏を取り戻したことを報告しておくべと考えた。知恵を貸してもらったことには感謝しているのだから、少しでもそれを伝えておくことが礼儀だろう。

 そういう意味ではこれも「仕方なく」だ。今度こそ最後になる。

 ただ、先客がいるらしい。家の前に車が停まっている。依頼人? 依頼人がいるとすれば、彼は本当に探偵なのだろう。でも、彼はもう探偵を辞めたと言っていた。ということは、個人的な来客? 先月会ったときの印象では、来客は滅多にないようだったが。

 それにしてもこの車、外国車だ。あまり自動車に興味のないわたしには、左ハンドルとエンブレムくらいしか判断基準がないのだけれど。舶来品を転がすような人が赤石さんを訪ねてきているのか。

 しかし、わたしの顔を映すほど黒光りするイカしたボディに気を取られすぎた。車の影に隠れて見えていなかったが、スーツの男性が窓のそばに立っていて、彼と目が合ってしまった。

「おや、君もここに用事か?」

 油断した。この家に初めて来たときとまったく同じシチュエーション。様子を窺っていたわたしが実は別の誰かに見られていた、という失態。

 チャコールグレーを身に纏う彼が歩み寄ってくる。スーツ姿をこれほどお洒落に思ったのは初めてかもしれない、静かな歩みでわずかに揺れる背広に浮きあがる陰影が美しく、着る人間が良かったのだろうと感じる。わたしのお父さんのような平凡なサラリーマンには真似できない、紳士然としたスタイル。

 真っ白なシャツに冴える黒と紺のネクタイが怜悧そうな顔を引き立てて、彼を若く見せているが、それを含めて予想するに、三〇代前半くらいの年頃だろうか。

 この清潔ないで立ちからして変な人ではなさそうだ。しかし身なりだけで安心するわけにはいかない。平日の昼間から赤石さんのボロ屋敷に用事のある人が、果たしてマトモな人なのかどうか。

「あいにく、どうやら奴は留守のようだな」男性は首を伸ばして窓を覗くような素振りをする。「見かけない顔だ。ここの主人――赤石哉汰と知り合いか?」

 窓から赤石さんの留守を悟った? この家のインターホンが壊れていることを知っているのか。

「あ、はい。以前少し助けてもらって」

 相手は知らない人だ。答えなくてもいいことなのに、つい。

「……そうか。あれでも人の役に立つことがあるのだな」面食らって頭を掻く左手の手首で、腕時計が輝いている。「しかし君のような若い女性が関わるような奴ではないと思うが……そうか、奴が余計なちょっかいをかけたのだな? 代わりに詫びておくべきか。申し訳ないね、私としても奴には手を焼いているんだ」

 この口ぶり、慣れた様子――もしかして?

「あの、ご家族の方ですか?」

 彼は大きなため息をついた。

「恥ずかしながら、赤石哉汰は私の弟だ」

 ははあ、どうりで。

 兄と言われると納得するところがいくつかある。身なりや態度が対照的というだけで、目鼻立ちなどに似ているところがあるし、背が高いのも家系によるものだろう。何より喋り方がそっくりだ。

 それにしても態度や清潔感といったところでは兄弟で似ても似つかない。軟派な弟とは大違いで、兄から軟派な気質は感じられないし、何よりいやらしさがない。へらへら、にやにやとした気味悪いところがないのだ。

「まったく、きのうのうちに来ると知らせていたのがいけなかった。逃げられた」

 相手を気にせずよく喋るところも、兄弟で似たのかもしれない。

「君も聞いたかもしれないが、奴はカネ絡みの案件を専門とする探偵をやっていた。元来反抗的で長続きしない奴だったが、不安定な仕事を自分で始めておいて自分で畳んでしまった。おかげでいまではあのような汚らしい惨めなその日暮らしだ」

 どうやら赤石家の中での鼻つまみ者らしい。まあ、想像に易いけれど。

「こんな暮らしを続けられて、もし野垂れ死にでもされようものなら家の沽券にも関わる。きょうもせっかく仕事を持ってきてやったのに、逃げ出すとは。自分で改善しようという気がないのか」

 深く突っ込んではいけないのだろうが、商売でもやっている家柄なのだろう。

 家の沽券、とは言うが、お兄さんの苦い表情や厳しい語り口は、愛情の裏返しであることが伝わってくる。

 本当に嫌いなら、放っておくはずだもの。

 わたしの兄が実家を出ていったときや勝手に結婚を決めたとき、うちの両親は愛情をこめていろいろと罵っていたものだ。

「きょうのところは諦めるしかなさそうだ」時計を一瞥し、深い嘆息。それからわたしを振り返り、胸元から何かを取り出す。「君は近く奴に会うつもりだね? よし、君に任せるとしよう。これを渡してくれ。私からだと言って渡せばわかるから」

 渡されたのは一枚の紙切れ。

 福沢諭吉が描かれている。

「え? お金じゃないですか! わたしに預けてもいいんですか?」

 彼はからからと笑った。

「もし盗られても困るのは私ではないよ。欲しいなら自分の財布に入れてくれたって構わないさ。それを使っていいかは別問題だがね」

 そして、お札を返そうとしても受け付けず、そのまま車に乗って走り去ってしまうのだった。住宅街の真ん中で福沢諭吉とともに取り残される。

 いちまんえん。

 こっそりもらってもいいようなことを言っていた。

 いやいや、そんなことをしたら泥棒の仲間入りだ。

 弟のほうの赤石さんに届けないといけない。

 自分の財布のレシートを保管しているポケットに入れておいた。

 わたし、からかわれたのかな?

 車、服装、腕時計――わたしに人を見る目があるかは定かではないけれど、赤石さんのお兄さんからは高校のお金持ちの同級生たちやその家族と似たようなものを感じた。そういう人たちは性格が悪いと思っているわけではない。でも、大学生を見つけて一万円をちらつかせてからかっていたように思えてきた。だとすれば、人を小ばかにする態度は兄弟でそっくりだということになる。

「やあ、久しぶり」

「うわ、赤石さん!」

 背後から声をかけてきたのは、弟の赤石さんだ。お兄さんと入れ替わりで姿を見せるあたり、本当に逃げていたのだろう。ついでに買い出しもしていたようで、スーパーのレジ袋を持っている。カップ麺やインスタント食品ばかりだ。

 そんな貧乏なお金の探偵は、何がそんなに楽しいのか、にやにやしている。

「名前は……そう、遙だ。だいたい一か月ぶりかな、会えて嬉しいよ」

 お兄さんの言葉から想像するに、誰にでもこんなことを言う人なのだろう。助けてもらったからといって多少の嫌悪は拭えないが、こういう人だと思って諦めたほうがいいことはわかった。

 性格も暮らしぶりも、兄弟で雲泥の差だ。明暗が分かれた、というべきか?

「それで、どうしてうちに?」赤石さんはいやらしい笑顔を少し引っこめた。「前も言ったけれど、僕に相談を持ち込むようなことは、ないに越したことはない」

 まったくその通りだと、心の底から思う。英里奈の件のような悲惨なことが身の回りで何度も起こったら気が滅入るし、赤石さんにしょっちゅう会って気苦労するのもごめんだ。

 相談ではなく報告だと前置きして、再び「Aちゃん」の仮称を用いながら英里奈の知る限りの近況を簡単に伝えた。

「そうか、あとは教えに行っているその家次第だね。まあ、良かったじゃないか。少なくとも心身ともに健康的な生活を取り戻したなら」

「はい。相談に乗ってもらってありがとうございました」

「いいえ、どういたしまして」

 このときの赤石さんの笑顔に、いやらしいところはなかった。

 礼をすればここにもう用はないか、と一瞬思って、もうひとつ伝えなければならないことを思い出す。

「そうだ、いまさっき赤石さんのお兄さんが来ていたんです」

「え? 征吾せいごが?」

 お金の探偵は途端に顔を歪め、尖った低い声で実兄の名前を口走った。自分を心配している家族に向かって、あんまりじゃないか。

「はい。赤石さんに渡してほしい、とお金も預かっています」

「カネ! カネだと? 誰がアレから施しを受けるものか!」

 大きな声と汚い言葉。手を焼いている、反抗的――お兄さんがそんなことを言っていた。

「僕はカネに拘泥しない生活を好んでいるだけだ。ブルジョアジーから援助される筋合いなんかないね。お恵みを与えようだなんて、アレも立派な身分になったものだ! いいかい、遙の前では猫を被っていたんだろうけど、本質はカネ儲けしか頭にない、人を人とも思わないような奴だ。関わらないほうがいい」

 家族と何らかの確執があったとしても、そしてお兄さんからのお金が受け入れがたいとしても、罵詈雑言を並べるなんてひどく幼稚な行いだ。自分が貧乏な生活をしていることを正当化して、お金のある人を意味もなく中傷するのもいかがなものか。成功者とそうでない人との差を見ているような気分になる。

 赤石さんの興奮は冷めず、乱暴な足取りでずかずかとわたしの前を横切っていった。ポーチの前で一度こちらを振り返ると、

「Aちゃんのことは本当に良かったよ。それじゃあ、またね」

 と残して扉を閉めてしまった。

 ため息。

 初めて会ったとき女好きがするような軽々しい言動に辟易したものだが、きょうさらに失望した。あの人は残念な大人のお手本なのだ。性格に難があって、そのせいで社会で成功できず、しかもせっかくの救いの手を弾くような親不孝者。

 幸いにして、英里奈のことを報告し、お礼も言ったから、もはや赤石さんに会う必要はなくなった。今度こそ彼との縁を綺麗さっぱり清算して――

 あれ?

 わたし、まだ一万円持ってる!

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