3

 今回だけ、ほかに方法のない非常時だから。一度だけ。

 何度自分で自分に言い訳しても、あの日迷い込んだ洋館を再び訪ねることには強い抵抗があった。

 あの男――確か赤石哉汰といったか――は自分のことを「お金の探偵」と名乗っていた。この人に依頼すれば、少なくとも英里奈の身に何があったかは調べがつくかもしれない。信頼に足る人間ではないが、もし彼が偽物だったなら逃げ出せばいい。タダなのだから。

 きのうのうちに、受け取ったまま捨て忘れていた名刺の電話番号に連絡を入れておいた。彼が軟派なことを言いはじめる前に、「タダで相談に乗る」と言ったことを言質に取って、相談に乗ってほしいと捲したてた。

 すると彼は事も無げに、「いいよ」と。

 そして、わたしに自宅に来るよう言った。そこで話を聞こう、と。

 よほど強烈な記憶になっていたのか、一度目は迷い込んで偶然に見つけた洋館だったが、二度目には迷うことなく辿りついた。

 小綺麗にされた庭を横切り、観葉植物に囲われて玄関に立つ。傷の多い木造の外壁を間近で見ると、この建物の古さがうかがえる。インターホンも壊れているらしい。住宅街のコンクリートの中で、ここだけが時代に取り残されているかのようだ。

 ドアをノックすると、やや間があって主人が扉を開いた。

「ようこそ、我が家へ」先日は窓越しに言葉を交わしたのでわからなかったが、赤石という人はなかなかの長身だ。正面に立たれるとやや首を上に向けなければならない。「どうぞ上がって」

 まるで友達を迎え入れるかのような態度。しかし、家の中は人を歓迎する環境になっているのか。靴を脱いでもスリッパひとつなく、リビングへと続くフローリングはくすんでいる。

 やはり疑わしい。この男性を信用してよいのだろうか? 素直に応じて家に上がっていいのだろうか? 汚れてしまうのは足だけで済むのだろうか?

 いや、ここで退くには早すぎる。

 爪先で立って足を踏み入れた。

「僕が言ったことを憶えていてくれて嬉しいよ」

 自称お金の探偵はリビングへと歩みを進める。それに続きながら、毛玉のついた深緑色のフリースの背中をじっと見つめる。

「タダだと言っていたので」

「カネが要らないなら、多少怪しくても利用しない手はない、と?」

「はい」

「タダより怖いものはない、ともいうけれどね」

「…………」

 彼は口を開いて笑った。

「まあ、質は保証するよ。僕はプロだ、嘘は言っていない」

 散らかっていて、塵の舞う息苦しい部屋だった。せめてソファとその周辺だけは片付けられていて、促されたわたしは浅く腰かけた。主人は先にダイニングへ向かい、飲み物の支度をはじめたらしい。

「悪いけどコーヒーしかないんだ。それにブラックしか用意できない」

「構いません、飲めます」

 当然、飲む気はない。わたしは歓待されるべき客ではない。

 砂糖やミルクの準備がないということは、おそらく普段から客人は滅多にないのだろう。それでよくわたしを「お金の探偵」という一点だけで招こうとしたものだ。

 主人が向かいのソファにどっしりと座り、カップを並べた。息苦しい空間に心地よい香りが漂いはじめる。

「さて、最初に名前を聞いておこう。僕は名刺を使って名乗ったが、キミの名前をまだ知らない」

青山あおやま遙です」

「遙か、わかった」

 いきなり下の名前で呼ぶか。

 まあ、この男ならそうなるだろうと想像はできた。

「それで、相談内容は? 電話では確か、友達の話と言っていたね」

「はい。まずは話を聞いてもらえますか?」

 わたしは英里奈のことを仮に「Aちゃん」として、自分の話せることすべて明かした。彼の不愉快な態度を可能な限り目にしなようにするには、こちらから一方的に話してしまうのが一番だ。それに、まだ探偵としての腕があるとわかったわけではないのだから、説明できることは説明して、相手にまず責任を持たせてしまうのがよい。

 きのう電話で兄さんに話したのとほぼ同じことを語った。そのうえで、今回の相談の目的は、解決策を見つけることよりも、英里奈の置かれた状況を把握することだと強調した。

 ソファに仰け反って話を聞く彼は、誠実さには欠けていたが、確かに話を聞き入れているようだった。

「……ということです」

 すべてを伝えつくすと、彼は体を身を乗り出した。

「なるほど、原因と経緯を知りたいのか。だとすれば僕を選んだのは賢明だった」

 傲慢な発言ではあるが、これまでになかった重みのある声だった。

「まあ、聞いたところコンビニらしいふざけた話だ。よくある横暴だね」

「じゃあ、店長が売れ残りを買わせたってことですか?」

 そうじゃないよ、と彼は笑った。攻撃的な口調の割には、彼の中では笑い話らしい。

「本題に入る前に言っておこう。今回の被害者は友達のAちゃんだけじゃない」

「どういうことですか?」

 確かに、英里奈だけでなくほかのアルバイトだって、店長の横暴に振り回されていた可能性は大いにある。でも、わたしが相談しているのは英里奈のことだ。

「Aちゃんの店には最近、同じ系列のライバル店が出店したんだって?」

 それはそうらしいが、つまりどういうことだろう?

「想像しやすいところから。同じ系列のコンビニが至近距離に何軒もあるのを見たことはないかい?」

「……まあ、そう言われればそうかな、というところなら」

 確かに、徒歩圏内で同じ看板を見かけることはある。

「ドミナント戦略といってね、コンビニは輸送コストが一定以内に収まる支配地域をつくるために、狭い区域にでも集中的に店舗を展開することがある。コンビニの利用者は徒歩圏内の住人であることが多いから、一店舗で利用が見込まれる客の人数と、住む範囲がおおよそ決まっている。一方で、コンビニで売られる商品の幅は広く、陳列棚もそう大きくはないから、企業独自の配送センターがないと供給が追い付かない。だから、店舗と店舗の隙間――つまり徒歩圏内にコンビニがない人々が住む区域を他店に埋められると、そのぶん自社の輸送範囲に無駄が出てしまう。それを防ぐために、たとえ近距離であっても出店する」

 随分と長く語った。立派な蘊蓄である。

「それで?」

 今回の件でもその戦略と思しき出来事があった、それはそうだろう。

 ううん、と彼は口を尖らせた。

「なら、もう少し話そう。遙のために大事な導入だ。それに店長はオーナーだと言っていたね?」

「はい」

「オーナー募集、なんて広告を電車や店頭で見たことはないかい?」

「……あるかもしれません」

 自分の店を持てる、というような宣伝文句が書かれていたような。

「コンビニオーナーも立派なカネ儲け戦略だ。あれは従業員を経営者に仕立て上げることで、残業やら収入やらの労働基準を全部取っ払おうという目論見なのさ。まあ、判例ではオーナーも従業員とされたことはあるけどね。要は、タダ働きを命じることのできる店長を作り出すことが狙いなんだ。オーナーの中には、経営者として私生活を犠牲にし、損失を自分のカネで補い、むしろ貧しくなっていく者も多い」

 なるほど、タダより怖いものはない、と。

「……店長も被害者だと言いたいんですか?」

 そういうこと、と彼は深く頷いた。

「オーナーにとって、ドミナント戦略で出店されるライバル店舗は、同じ系列の仲間ではなく、恐怖でしかない。ノルマ達成が一層厳しくなり、自分の生活と身分が危うくなるからね。Aちゃんの店の店長が急に乱暴な性分になってしまったのも、そのせいだろう」

「…………」

 彼はコーヒーで喉を潤し、手を叩いた。

「長々と話したが、言いたかったことはつまり、店長をとりあえず悪者にしようというのは浅はかだということだ」

 英里奈の自業自得だったと言いたいのだろうか? 買わなくてもいいケーキをわざわざ店のために買い込んだ、とか。店長が苦しい立場にあってアルバイトをいじめるようになったと百歩譲って認めたとしても、そうなるとアルバイトのほうに非があったということになる。

「店長がケーキを買うよう強制したはずがない、そういう理由があるんですか?」

「単純な話だ。だって、違法だから」

「へ?」

「民法や労働基準法に引っかかる。罰則付きのノルマは禁止、購入の強要は業務命令の乱用、給与は一部を商品に置き換えたりせず全額現金での支払いをしないと違法。オーナー店長がいくら過酷な状況にあったとしても、発覚すれば処分間違いなしの違法行為にまで手を出すとは思えない。リスクを高めるだけで、せいぜい憂さ晴らしにしかならない」

 彼は冷めはじめたコーヒーを飲み干すと、カップを持って立ち上がる。

「売れ残りの買い取り強要は、店長にとってまったく合理的ではない。おそらく、ほかのアルバイトに圧力をかけたということもないだろう。あくまで店長は自分の身を守りたいはずだからね」

 それでも本当に違法行為に手を染めていたなら、争えば絶対に勝てる。そういう意味では、むしろ幸運かもしれないね――平気な顔でそう言うと、二杯目のコーヒーを淹れに台所へと背を向けた。

 コンビニの戦略だの法律だの、彼は胡散臭いとはいえ「お金の探偵」を自称するだけの知識が垣間見られる。為人は好かないが、言っていることはある程度の説得力を否定できない。

 とはいえ、英里奈に責任を求めているように思えてならず、気に入らない。彼は誰の味方をしようとしているのか?

「さて、そろそろ視点を変えようか」二杯目のコーヒーをカップに注ぐと、リビングをうろうろと歩きまわりだした。「今度は、Aちゃんが何を考えていたのかを明らかにする段だ。なぜ、自分からケーキを買うようなことをしたのか?」

 やはり、英里奈が自発的に売れ残りを買い取ったことが前提とされるらしい。

 一歩ごとにギシギシと床が小さな悲鳴を上げる。同じところをぐるぐる回りながら、散らかした書類を蹴飛ばしても気にしない。腕を組み、どこを見ているのか上を向いて唸っている。

「遙、身を削ってでも働けるアルバイトがあるとすれば、何がそう思わせる?」

「え?」

 唐突な問いに面食らったが、確かに、英里奈の行動を最も異常に思わせたのは、売れ残りを引き受けたり、体調を崩しても出勤しようとしたりといった、行き過ぎた忠誠心のような何かだ。その正体を探ることがわたしの最大の目的かもしれない。

 わたしについて考えたとき、何がそこまで執着させるか。

「人間関係だと思います。せっかく築いた信頼ですから」

 お金の探偵は足を止めて、ふう、と一息。

「そう言うと思った。おそらくそうだろう。カネに困っているとしても、職場を変えるのは最初に思いつく選択肢のはずだからね」

「人間関係が決定的ではない、と?」

「うん、推定が混じるが、彼女は奨学金受給者だろう。地方から出てきて独り暮らし、その生活ぶりはアルバイトと勉強で極めて多忙。言っちゃ悪いが、典型例だ」

 奨学金。英里奈はお金を借りて大学に通っていたのか。

 奨学金を受け取るための担保は当然、成績だ。彼女が勉強に熱心だったのは、お金が必要だったからと考えると合点がいく。そして、それでも足りない生活費はアルバイトで補う。これは、彼女の生活そのものだ。

「アルバイトは勉強の時間を削り、それを取り戻すための勉強時間は睡眠のための時間を奪っていく悪循環だ。彼女は特にひどいサイクルに陥っている、心身を傷つけるほどのね。せっかくの信用が惜しいという話で済むのか?」

 もちろん、それはわたしも疑問に思うところだ。

「お金が足りないことが元凶と考えているんですか? だとしたら多少は、アルバイト先を変える決心がつきやすいと思ますけど」

「いや、現状を変えたくても、変えようとしても、変えられない人たちは必ずいる。人間関係が惜しいから辞められない? カネが欲しいだけなら職場を変えるはず? そのどちらかになるような、単純な話ではない。今回の件の始まりは、中間にあると見た」

 どういう意味だろう?

 お金の探偵は一瞬の間をおいてから切り出した――結論を話そう、と。

「しがらみがあって辞められないのは確かだろう。そして、金欠で辞められないのもまた確かだろう。いずれかではなく、いずれもだ。Aちゃんと店長とのあいだにあった関係性が、この両面を結びつける」

 結論と言って語りだしたにしては勿体ぶる。

 何を意図しているのか説明するよう、視線で訴えた。

「Aちゃんはコンビニの人間関係を気に入っていたのかもしれないけれど、決定的とは言えない。僕にはわからないからね。でも、確からしいのは、彼女が『逃げられない』関係に囚われていたことだ」

「逃げられない?」

 しがらみという言葉で表現したように、彼はどこか否定的な言葉で英里奈と店長との関係を言おうとする。「逃げられない」というのも、名残惜しいものというより、不気味にまとわりつくような意味合いを感じる。

「遙、キミはアルバイトを離れられない理由として人間関係、特に信頼関係を挙げた。もっともないち意見だが、見方が肯定的すぎる」

「店長が荒んでいたと聞いています。それで関係性が悪化したと言っているんですか?」

「それもそうだが、僕は言ったはずだ。個人的理由と金銭的理由との中間を見るべきだとね」

 中間?

 お金と、信頼関係とのあいだ。

 逃げられない、逃げてはいけない――


「……店長から、お金を借りていた?」


 アルバイトを離れられない、強力なしがらみ。金銭の貸し借りはその最たるものであろう、借りを返さない限りは切れることのない契約関係だ。この相手なら貸してくれるだろう、この相手なら返してくれるだろう――個人で交わされるそれは、ただ損益をやり取りする以上に生々しい。

 英里奈は生活費に困っていた。そのためのアルバイトだ。長く続けていく中で、信頼関係が築かれていったのだろう。しかし不安定な生活であることには変わりなく、避けがたい欠乏に直面した彼女は――おそらくは最後の手段に――店長を頼みの綱とした。

「店長からカネを借りるというAちゃんの判断は、至極妥当だっただろうね。遙と金銭授受をして禍根を残すようなことしたくなかったから、次善の策としてアルバイト先の人脈に頼った。ところがその店長、いや、オーナーには、それに応えるだけの余裕がなかった」

 冷めてしまったコーヒーに眉を顰めてから、続ける。

「オーナーはカネによる力関係に寄り掛かった。カネを返せない以上逆らえないことを利用して、大量の売れ残りを処理した。強制はしなかっただろうさ、何もしなくたって、Aちゃんが自分から『利子』を払うとわかっていたから」

 利子。

 ただ借りた金額を返すだけでは足りず、英里奈は行動で以て、上下関係を追認しなければならなかった。

 つまり、ちゃんと全額返すつもりがあるのか、試されたのだ。大量の売れ残りを引き取ることでそれを示すよう、より「上」からの圧力に怯えて神経を尖らせていた店長から求められていた。

「Aちゃんは自分からケーキを買った。でも、それは自分の意志ではない。立場の弱さゆえに逆らえなかったんだ。不幸だったのは、カネを借りた相手もまた、より弱い者を利用しようとする弱い人間だったことだ」



 洋館の主は三杯目のコーヒーを淹れに席を立った。

 ダイニングから漂う素敵な香りの誘惑に敗れ、わたしもカップを手に取った。すっかり冷めてしまい、弱くなった香りの代わりに苦みと酸味がうるさかった。それでも、温かければ相当おいしいコーヒーなのだろうとは想像がつく。

 戻ってきた主人に淹れなおすか問われたが、遠慮する。

「その……わたしは何をできるんでしょうか? たぶん、借金を返してからアルバイトを辞めるのが最善だと思うんです。そのために、わたしは何をすれば助けになれますか?」

 決心してここに相談に訪れた当初の目的は達成していたが、それでも、わたしひとりの力ではどうにもできない問題であることには変わりなかった。変わりがないどころか、はっきりと大きな障壁を見せつけられたのだ。

「本人の力で解決してもらうしかないかもね」お金の探偵はやや冷めた返事をしたが、ふと思い出したように書類とゴミの山から何かを探す。まもなく、卓上カレンダーを発見した。「ああ、そろそろか。ちょうどよかった、解決は近い」

 彼はにっと口角を上げた。

「きょうが振込日の奨学金がある。彼女がその団体の奨学金を受け取っているなら、それでまとまった額を支払える。当分は倹約を続けることにはなるけれど、少なくともマシな立場を取り戻せるはずだ」

 借金を返すことができれば、アルバイトにとって苦しい環境となったコンビニに留まる必要もなくなる。いまの職場を離れるだけでも、英里奈の生活は改善されるに違いない。しかし、学業と両立しながら無理なく働ける職場が見つかるかどうかは、彼女の努力次第となる。現状を変えるという意味での解決はできるが、苦労が続くという意味では根本的な解決にはならない。

 それに、オーナー店長はその弱い立場から救われることはない。再び別のアルバイトに当たり散らすかもしれないし、場合によっては誰かが英里奈のような目に遭うことも考えられる。

 この解決で、何が変わるのだろうか?

 当事者たちは、変えようと努力したことだろう。

 でも、それは以前からずっと同じなのだ。

「さて、依頼は完了かな?」

「……はい」

「プロだった人間が言うのもアレだが、僕のところに何度も来るようなことにならないよう祈るよ」

 赤石さんに礼を言って、彼に見送られながら玄関を出ると、背後から西日を浴びた洋館の影が暗く長く伸びていた。英里奈のところに寄っていくべきかと考えたが、迷ったのは敷地を出るまでの一瞬だった。自転車のハンドルを握った瞬間、二週間前の自分がとんでもない失言をしてしまったことを思い出したから。

 自転車で走りぬける四軒寺の街並みがどこか嘘っぽく思える。ここは見慣れた生活の場のはずなのに。

 自宅もまもなくというとき、鞄からメールの着信音が聞こえた。家に帰ってからでもよかったが、その場で確認することにした。

『アルバイト辞めてきた。新しいところを見つけるのに苦労するかもしれないけど、もう大丈夫。このあいだは本当にごめん。心配してくれて本当に感謝してる』

 お金の探偵は、確かな事実をひとつ見逃していた。

 立場こそ弱かったのかもしれないが、英里奈は強いのだ。

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