第五章 壊れた仮面と二月のこぐま

作戦会議は入念に

第一話 猪突猛進イノシシさん

『ブギュィイイイ!!』


 すさまじい咆哮を上げながら、泥と筋肉の塊が、こちらに向かって突進してくる。

 ビィイン! と、なにかが張り詰める音が響き、筋肉の動きが強制停止させられた。


『ブルァ……』


 憎々しげにこちらを睨みつけながら、それ──大きなイノシシは、ブシュウと蒸気のような息を吐き出した。

 その後ろ脚には、強靭なワイヤーが絡まっている。


「設置式のくくり罠は、イノシシであってもこの通り拘束できる。問題はな、リィル。イノシシの体力が尋常ではないから、罠にはめたところで正面切ってトドメを刺すのは難しいということだ」


 仮面を外していた天狗さんが、そんな解説をしてくれる。

 うん、これはわかる。

 ヒグマとは比べものにならないけれど、このイノシシってやつもかなりヤバイ。


「イノシシの牙は鋭く硬い。人間の皮膚ぐらい簡単に貫くし、そこから感染症になる可能性もある」

「カンセンショー」

「たちの悪い病気ってことだ。おまけに全身には、泥を積層した鎧までまとっている」


 彼の言うとおり、今も息も荒く暴れまわるイノシシの全身は、固まった泥にまみれていた。

 というか、この場所がぬかるんだ泥道だった。


「ヌタ場というんだなぁ、これは。ダニとか寄生虫を殺すために、猪とかシカは泥を浴びる。人間が風呂に入るのと一緒だ。だが、この泥が厄介だ。幾重にも重なった泥は、脂や毛皮と一体化して、まさに装甲と化す。ヒグマほどじゃないが、これも硬い」


 言いながら、天狗さんはその辺に落ちていた長い木の棒を拾い上げた。


「え? それでどうするの? まさか……殴るの!?」

「殴ること自体の、効果を否定はしないがなぁ」


 彼は苦笑する。

 なんでも、首が短くて、筋肉の量が非常に多いイノシシでは、殴っても効果が薄いらしい。


「おっかなびっくり、遠くからスイングしてもだめだ。脳震盪を起こすだけの威力が欲しければ、接近してしっかり頭をたたかなきゃいけない。こいつの間合いに入る必要があるってことだが……でもな、みろ、この元気なイノシシを」

『ブルギィ! ブルル……!』


 ドダダダ……と地面を蹴立てながら、あたり一面を走り回り、隙あらばこちらに襲い掛かろうとするイノシシ。

 イノシシが走り回るだけで、下草や低木はなぎ倒され、足にはまったワイヤーが絡まれば、細い木なんてへし折ってしまう。


 怖い!

 ものすごく怖い!

 プレッシャーが、半端ではない。


「足くくり罠ひとつだと、どうしてもこんな風に走り回るのを許してしまう。へばるのを待つとしても、イノシシの体力は底なしだ。こっちが根負けするか、足を引きちぎる方が早い。それに、イノシシはまっすぐしか走れないみたいなイメージを持ってるやつが多いが、実際は異常な速度で旋回してくる。あの速度で、小回りが利く。厄介だ」

「じゃあ、どうするの?」

「まず、この木の棒の先に、ナイフを括り付ける。即席の槍を作るわけだ」


 槍。

 それは、命を奪う刃物だ。

 天狗さんが腰から引き抜いたナイフの、ギラリとしたきらめきに、あたしは思わず、腰が引けてしまう。

 彼はちらりと、こちらの様子を見て、それから背負っていた大きなバックから、あるものを取り出した。


「鉤付きワイヤーロープーぅ」


 なぜか妙なイントネーションで説明を始める天狗さん。

 え、この人なに? 割とドン引きなんだけど……


「……おい、まじかよ。このネタでウケが悪いのかよ。これが異文化交流か」

「いや、へこんでないで教えてほしいんだけど」

「おまえに急かされる日が来るとか、この天狗の目をもってしても」

「天狗さん!」


 もう!

 


「……はいはい」


 しまったと言わんばかりに顔をしかめ、彼はそのロープの点検を始めた。

 もちろん目の前では、殺意と敵意丸出しのイノシシが威嚇を続けている。


「先っぽが鉤になっている、ワイヤー入りのロープだ。こんな風に、手元を絞ると、鉤が絡まり、ロープが絞られる」

「あ、わかった! それをイノシシのほかの足にひっかけて──」

「そうだ。近くの木に固定し、動きを封じる……!」


 言うが早いか。

 天狗さんは、突っ込んできたイノシシの足元に向けて鉤ロープを投擲する。

 それは蛇のような動きをしながら、イノシシの足に絡みつく。


「おっとっと!」


 急激な方向転換をしたイノシシに、引っ張られる天狗さん。

 あえて踏ん張らず、同じ方向に走りながら、ロープがたるまないように張り詰める。

 そうしてさくっと木の幹に、ロープを巻き付け、固定してしまう。


『プギルゥ!!』


 がくんと動きが止まるイノシシ。

 前脚と、後脚が一本ずつ、ピンと伸びてしまい身動きが取れない。

 それでも暴れまわろうとするが、天狗さんはそれを許さない。


「リィル」


 彼は、即席の槍を手に持ち、語る。


「前にも言ったが──狩猟を行うものは、鳥獣に不要な苦痛を与えちゃいけない」

「……うん」

「躊躇うな。一刺しで殺せ。狙えないなら、ここまで動きを封じてから、頭を渾身の力で殴れ。殴らず槍だけでやるなら掬い上げるように横から、左の脇腹、あばら骨を避けて前脚の付け根に向け、まっすぐだ。そこが、イノシシの命を維持する、心臓がある場所だ。迷えば余計な傷を与えて、苦痛が長引く。味も悪くなる。それに」


 彼は仮面をかぶりながら、言う。


「あっちも必死だ。仕損じれば、返しの番でワイヤーを引きちぎって、俺たちに襲い掛かってくるかもしれない。あの牙で足の動脈を切られれば、失血死もするだろう。おまえ、死にたいか?」


 あたしは。

 たぶん、即答できた。

 死にたくないと。


 彼は肩を揺らし、


「俺も、まだ死ねない。だから生きるために──おまえを殺すゥ!」


 地面を踏み抜くような強靭な一歩とともに、天狗さんの両手がかすみ、槍が放たれた。


「っ」


 ぎゅっと目を閉じそうになって。代わりに唇を噛みしめる。

 目をそらしちゃいけないと思った。

 これから、あたしたちがすることを見ないふりするのはダメだと思った。

 それは逃げるとか、卑劣だからとかじゃなくて。


 あたしも──殺す食べることを決めたから。


 そう、これは──

 


「ばああああああああああ!!」

『ギプゥ!? プギィィィ……』


 狂気に満ちた天狗さんの蛮声と。

 イノシシの、断末魔。


『……──』


 イノシシは心臓を一突きにされても、しばらくは立ち尽くしていた。

 ロープで動きが制限されているのに、まるでどこかへ行きたいように、おぼつかない足取りで動き回って。

 座り込んだり、立ち上がったり。



 そして、ゆっくりと倒れる。


 びくり、びくりと痙攣しながら。

 その瞳にあった敵意が、生への執着が、霧散し、消えていく。


「……いただきます」


 両手を合わせて。

 目を閉じ。

 あたしは祈った。


 天狗さんの大きな傷だらけの手が、あたしの頭を、くしゃりと撫でる。

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