(7) 追い込み馬の苦悩

 

 シクタンに乗るイアンは、なかなかスパートしないフレアを訝しがる。

 

 ―― どうした? まだ追い出さないのか? 中山の直線は短いんだぞ!?

 

 しかし騎乗は南條。世界的な実績こそイアンが優っているが、中山での実績は遥かに上回っている。その南條が中山の直線距離を考えないわけがない。

 

 とすると、これがフレアの実力か? 意外にたいしたことがないのか? イアンは思う。疲れがたまってそれまでの走りを見せないことなど、競馬の世界では当たり前のように起こることだ。それがこのレースのフレアなのではないだろうか。イアンは前との差が開いていかない状況のなか、そう考えた。

 

 ―― とにかく全力で追おう。大金星が舞い込んでくるかもしれない。

 

 イアンはシクタンに鞭をくれた。

 

 一方シルバーソードの背で、マルクは手ごたえを感じていた。4コーナーで馬場の中央へと大きく膨らんだのはとんでもないコースロスだ。しかし鋭角的に曲がらなかったおかげで、スピードは乗った。ぴったりクーレイに付かれてはいるが、しかし馬場の中央で内側に付かれているので、たいしたプレッシャーではない。寄ってこられたら、さらに外へと出せばいいだけだ。押し込められる心配はない。それにここまで外に出した以上、さらに外へと出したってたいして変わらない。

 

 ―― 残念だったな、アルフォンソ。

 

 マルクの一瞬の判断が、アルフォンソの思惑を退けた。アルフォンソに致命的な邪魔をされる怖れを消したうえに、シルバーソードにエンジンをかけた。うまく1枚目の壁は突破した。あとは、このシルバーソードのゴムマリのような末脚がフレアを差し切れるかどうかだ。

 

 そう思った瞬間、ガクンとシルバーソードの重心が下がった。馬がハミを取り、一気に加速した。

 

 ―― これだ! これだよっ!!

 

 マルクの全身に震えが走る。実力馬に乗り慣れているマルクだが、この馬の末脚は1つランクがちがっていた。走るのではなく、跳ねるのだ。

 

 ―― この差なら、追いつく。

 

 マルクは斜め前方を見て思う。これなら、届くと。

 

 追い込み馬というものは、なにも好き好んでごぼう抜きしようとしているわけではない。たしかに、全馬まとめて差し切れば、これほどカッコいいものはない。しかし当然ながら、後方から追い込めば、前に届かないというリスクもある。

 

 それなら、多少前に位置取っておけば、直線追い込んだ時に差し切りやすくなる。でも、それは人間の計算でしかない。計算どおりにできないのだ。追い込み馬の多くは馬群を嫌うからだ。馬込みに入ると、嫌気やパニックで集中力を欠き、最後の直線で全力で走らなくなってしまう。レースをやめてしまうのだ。

 

 だから、最後に本気を出してもらうために、後方に下げて他馬に囲まれないようにする。前に届かないリスクは受け入れなければならない。その馬の持つ性質なのだから、仕方がない。

 

 シルバーソードも馬込みを極端に嫌う。だから最後方から行くしかない。それが祟って、神戸新聞杯と菊花賞では惜敗した。破壊力ある末脚も、前と決定的に差が開いていれば埋められない。

 

 追い込み馬が有力な逃げ馬に対抗するにはどう乗ればいいのか。これは競馬の永遠の課題だろう。運を天に任せ、馬群が固まってくれることを祈るだけか……。

 

 前走菊花賞では、フレアに対してタイムシーフが大博打に出た。ポツンと1頭だけで大外をまわる、と。

 

 これなら馬群に包まれないので、馬の気を損なわせないで済む。しかし直線だけのレースならいいが、通常のレースにはコーナーというものがあり、外をまわれば距離のロスがはげしい。1秒の何十分の1を競う競技で、相手より何十メートルも余分に走ることは、壊滅的な不利になる。

 

 しかし稀代の逃げ馬フレアを差し切るには、あれしかなかった。タイムシーフは見事博打を成功させ、最後、ぎりぎりのところで差し切った。作戦もすばらしいが、コースロスも構わず最後まで脚が衰えなかったスタミナも、またすばらしかった。

 

 タイムシーフにできるのなら、とマルクは思う。シルバーソードにだってできるはずだ、と。

 

 その追い出すマルクの右半身を、アルフォンソが睨みつけていた。

 

 ―― ダメだ。やられた。

 

 素直に認めた。よりプレッシャーをかけるため、並んだときに半馬身ほど出たのだ。それがもう、逆に半馬身先行されている。なにより、シルバーソードが地を掻く様がすさまじい。自分の乗っている馬から伝わる反応と、全然違う。

 

 アルフォンソは一瞬で置いていかれた。

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