第4話 優しさすら恐ろしかった


 昔、まだ僕が、当たり前のように見える《彼ら》をわかっていなかった頃。

 異形が、恐ろしいものだときちんとわかっていなかった頃。

 僕に優しく微笑む彼らの善意が、決して善意にならないのだと知った。

 人間である僕と、それ以外の存在である彼らの認識は重ならない。

 よかれと思ったことさえ、悪意になり得るのだと、僕はそのとき、知った。


 あれは、曾じいちゃんが生きていた頃だから、小学校に上がる前だ。

 その頃はまだ神社を恐れることもなく、僕の日常は平穏だった。

 何度も危ない目にあっても、それでも、僕は。

 あの瞬間まで、本当の意味で異形を恐ろしいとは思わなかった。


 僕にとって恐ろしかったのは、暗闇の方だった。

 たった1人で夜の闇に取り残される方が、数倍恐ろしかった。

 異形でも、何でも、誰かがいるのならば怖くなかった。

 眠るのが怖いとき、《彼》の姿に安堵したように。


 けれど、彼らは決して優しくない。

 優しいそぶりを見せても、その本質が相容れないことを、僕はあのときに知った。

 そのときから、変わらず側に居てくれる雄清ゆうせいに、僕は感謝している。




 僕らが幼稚園の頃、雄清は僕の目の前で、大怪我を負った。




 左膝に深い深い切り傷が出来て、その傷は今も雄清の足に残っている。

 その傷の影響で、雄清は走るのが苦手だ。

 体育の授業を見学するほどではないけれど、闊達に笑う姿と不似合いなほどに、

 彼は運動会などで活躍することは無い。

 皆の中心にいながら、運動は好きだと笑いながら、その足は彼の思うとおりに動かない。


 日常生活に支障は無いから問題ないと笑っているけれど、笑い事じゃない。

 少なくとも、あの頃の僕には、ただ、恐ろしかった。

 自分の側に居るせいで、自分以外の誰かが怪我をするのが怖かった。

 怖くて怖くて、ただ泣きじゃくるしか出来なかった。

 僕の側には《彼》がいたけれど、《彼》は僕しか護ってくれなかった。

 そんなこと、とっくにわかっていたはずなのに。



――ゆーちゃん!

――っ、イ……たぃ、かも……。

――いたいかもじゃないよ!いたいんだよ……!



 血まみれの膝小僧を抱えて、雄清は暢気な顔で笑っていた。

 でもその顔はくしゃくしゃに歪んでいて、多分、

 僕に心配をかけないように笑っていたのだろうと思う。

 きっと、本当は、痛い痛いと泣き叫んでしまいたかったと思う。

 それなのに雄清は、自分の目の前でぼろぼろ泣いている僕を気遣ってくれた。


 何が起きて雄清が大怪我をしたのかは、覚えていない。

 その辺りの記憶は曖昧で、ただ、雄清が僕を庇って怪我をしたことだけは、覚えている。

 耳にこびりついている、「あぶない、あっちゃん!」の叫びは、今も忘れられない。

 え?と振り返ったときには雄清に突き飛ばされて、地面に激突した。

 咄嗟に《彼》が何かをしてくれたのか怪我は無かったけれど、衝撃はあった。

 そして向けた視線の先には、血まみれの雄清がうずくまっていたのだ。


 周囲の人々が叫んで、救急車を呼んで、何か大騒ぎをしていた。

 その騒ぎがちゃんと聞こえないほどに、僕は雄清の側で泣きじゃくっていた。

 僕の側に居るから雄清が怪我をしたのだと思った。

 雄清が違うと言っても、危ない目に遭う僕のせいで、雄清が怪我をしたのだ、と。


 けれど、本当に恐ろしかったのは、そのときではなかった。

 雄清に庇われて、僕は無傷で、雄清は大怪我をして。

 それが引き金になって、僕は幼稚園で遠巻きにされた。

 それ以前にも、僕と遊んでいた子達が怪我をすることがあったからだ。

 かすり傷程度だったけれど、雄清が大怪我をしたことで、皆、怖くなったんだろう。


 とはいえ、それも別に、僕には恐ろしいことではなかった。

 当然だと思った。

 少し寂しかったけれど、僕のせいで怪我をするのなら、離れている方が良いと思った。

 本当は幼稚園に行くのを止めようかと思ったぐらいだ。

 けれど雄清に「ちゃんとこないと、おこるからな!」と言われたら、通うしかなかった。

 ……雄清は、僕のたった一人の、一番大切な友達だったから。


 そうして幼稚園に向かって、怪我をした左足をひょこひょこ引きずりながらも雄清がいて、

 当たり前の日常が戻ってくるのだと思っていた僕は、打ちのめされる。

 雄清の膝の怪我は、完治しないことを知る。

 日常生活も、軽く走ることも出来ても、今までみたいに全力では走れないことを知る。

 僕が雄清から足を奪ったと知った。

 あんなにも走ることが大好きで、元気だった雄清の足を、僕が壊した。


 怖くて怖くて、悲しくて悲しくて、僕は毎日嘆いた。

 雄清の前では普通の顔をして。

 家に戻れば布団の中で悲しみに暮れた。

 《彼》は何も言わなかった。

 ただ側に居てくれた。

 その優しさはありがたかった。

 だから、僕が怖いと思った優しさは、善意は、《彼》のそれではない。


 突然目の前に現れたソレが何なのか、僕は今でも知らない。

 多分、何か、力を持った異形だったのだろう。

 もしかしたら、神様に連なる何かだったのかもしれない。

 それは人に良く似た姿をして、優しい優しい笑顔で近付いてきた。

 穏やかに微笑むお姉さんの姿のままで、僕に近付いて、そして。



――吾子、泣くことはない。吾子が願うなら、あの者の足、治してしんぜよう。

――……え?

――案ずることは無い。役立たぬ足を捨てて、新しい足を繋いでしまえば良かろう?



 柔らかく微笑むその笑顔は優しいのに、告げる内容の異質さに幼い僕はぎょっとした。

 雄清の足を治してくれると聞いて、期待をした心はすぐに打ち砕かれた。

 目の前の異形は、当たり前のように雄清の足を奪い、新しい足を添えると言ったのだ。

 人間ではあり得ないその発想に、ぞっとした。


 それを受け容れてしまえば、それはもう、人間の範疇には収まらない。

 僕と同じようにあちら側を見る目を持つ雄清が、そんなことを受け入れるわけが無い。

 人間を捨てる道を、選ぶわけが無い。

 幼い頃の僕にはそこまで確かなことは解らなかった。

 ただ、怖いと思った。

 優しく笑うその笑顔が、当然のように差し出されるその手が、怖かった。

 優しさは優しさでは無いのだと、そう、思い知った。


 怖くて怖くて、マトモに答えることも出来なくて、ただ泣いた。

 助けて、助けてと《彼》に縋った。

 ただ僕に優しくしようとしてくれただけだったソレは、困ったように笑っていた。

 僕を怒りもしなかった。

 幼い僕が泣きじゃくるのを見て、少し寂しそうにしただけだった。



――吾子は、望まぬのか?

――やだ、……っ、いやだ……!

――アキラハ、友ヲコチラ側ニ属サセタクハ、ナイノダ。

――……そうか。アレならば、我らの力を受けても変質せぬと思うが……。

――……ひっ。



 言葉の意味は、今ならわかる。

 普通の人間ならば、彼らの温情を受けて何かを与えられても、変質するのだ。

 受け止めきれないのだ。

 幸か不幸か雄清には資質があって、だからこんな申し出をされたのだと、今ならわかる。

 けれどあの頃の僕には、ただ、怖いことがそこにあるようにしか、思えなかった。


 《彼》が代理で話を付けてくれて、ソレもそれ以上は言わなくて。

 ただ、僕を慈しむように優しく頭を撫でて、去って行った。

 その優しさすら恐ろしかったのは、どうしてだろう。

 本当に、ただただ優しかった。

 僕には、普通に優しかったのだ。


 けれど、根本から相容れないのだとわかってもいた。

 彼らの優しさは、剥き出しの善意は、こちらには恐怖だ。

 価値観が違う彼らが差し出すその手は、下手をしたら僕らを壊す。

 人間には重すぎる何かを、善意で差し出してくる優しさは、

 なまじ柔らかく暖かいから、ただただ、怖いのだと思った。


 その話を雄清にしたのは、中学に入った頃だった。

 色々と感情の整理が出来て、そういえばと思い出話として告げた。

 ……案の定、雄清からは拳骨を貰った。

 お前はバカかと怒鳴られた。

 そういう反応をされるだろうと思ったから、直後には言えなかったんだけど。



――俺の足は、俺の足!お前に責任は無いだろ!

――でも、あのとき雄清は僕を庇ったじゃないか。

――それなら、庇い損ねて怪我をした俺の責任!

――えぇえええ……。

――お前が必要以上に背負い込む必要は無い。以上!……次に同じようなこと言ってくるのがいたら、きっぱり断れよ。お引き取り願えよ?

――大丈夫。流石にもう、あーゆーのと取引できるとか思ってないから。



 雄清はどこまでも雄清だった。

 流石僕の親友と言うべきなのか。

 その後の学校生活でも何度か危ない目にあったけれど、

 身を守る術を身につけた雄清はドヤ顔で無傷だったりする。

 嬉しいけど時々腹が立つのは何故だろう。

 うちの親友は悪友を兼任しているのかもしれない。


 なお、同じように曾じいちゃんにも説教をされた。

 こちらは、会話が終わってソレが去ろうとしたときに部屋に乗り込まれた。

 珍しく早くに帰宅していた曾じいちゃんの感知に引っかかったらしい。

 おや?と楽しげに笑ったソレの襟首を引っつかんだ曾じいちゃんが、

 廊下の窓を開けてフルスイングでぶん投げたのには目が点になった。

 ついでに、塩を撒いておけとお祖母ちゃんに言っていた。



――あきら

――は、はい……。

――つけいられてはいけない。彼らはお前に優しいだろう。我々のように見える者に、彼らは優しい。

――……。

――だが、決して我々とは相容れない。……優しさに惑わされては、いけないよ。

――……はい。



 曾じいちゃんには絶対服従だった。

 とはいえ、理不尽なことは一度も言わなかった。

 幼い僕にもわかるように、話に付き合ってくれた。

 その曾じいちゃんに言われたなら、僕はそれに従うだけだった。


 ……ただ一人、背後の《彼》だけを、例外にして。

 異形は恐ろしいのだと、彼らに心を許してはいけないのだと、僕は覚えた。

 そうして今も、生きている。

 《彼》以外の全ては恐ろしいのだと信じて、《彼》の庇護だけは信じて。




 それでも、どうして《彼》だけは違うのか、何で曾じいちゃんは教えてくれなかったんだろう。




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幸運の子~生まれた時から異形に守護されております~ 港瀬つかさ @minatose

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