38話


アレクシスの執務室へと戻ったエレーンは、ほっと胸を撫で下ろしていた。レイニードに対して怒りが先行してしまい、気付いたら地面に叩きのめしていた事実に、何より自分が一番驚いていた。

ほぼ覚えていないに等しいのだ。アレクシスの采配が批判されるかと思うと、もう頭の中が怒りで真っ白だったのだ。試合中は只ひたすら目の前のレイニードの動きを追っていた。一瞬、ルーカスより遅いじゃないか、と脳が判断したのははっきりと覚えているが、後は体の習慣が勝ったのか、気付いたら彼を地面に押し付けていた。


でも、勝てて良かった。自分の存在がアレクシスの汚点になるのは今日の結果を見ても明らかだが、多分耐えられそうにないのだ。アレクシスは、自分を見付けて、気付かせてくれた人だ。その人の判断が悪く言われるのが、これ程怖いとはエレーンも思ってもみなかった。それだけ彼が大切で、エレーンの行動を占めている。それは分かっていたのだが。


正気を取り戻してからは、言いたい事は既に予めまとめてはいたから上手く話せたものの、肝心のレイニードの事はあれで良かったのだろうか?ちょっと人前で酷かったかも知れない。後で難癖つけられないと良いけれど。


一応、何かしら動きがあれば、ロバートが動いてくれると言う事で、この件は一先ず解決した事になった。



エレーンも大きな問題が片付き、心から安堵した……が、先程からアレクシスが無言なのが気になった。


「……あの、アレクシス?」


「……何だ。」


「……どうかされました?」


素っ気ない返事に、エレーンは少し胸が痛んだ気がした。机に向かっている彼は、書類から全く顔を上げてはくれない。


「……いや、何も?」


尚も此方を見ようとしない。それほど、仕事が押していたのだろうか?確かに、自分の所為で予定が長引いた事は否めない。


けれど……怪しい。

いつもはもっと、それこそレイニードに対して何かしら文句を言っていても良い筈なのだ。


「……本当に?」


「……。」


エレーンはそのままじーっと見つめてみる。ちょっと書類を持つ手が震えている気がする。


「エルさん、それぐらいにしてあげて下さい。坊はエルさんの宣言に人知れず堪えてい」

「……分かった分かった。正直に言う!」


ロバートがまだ話しているのに、アレクシスは乱暴に割って入って来た。持っていたペンも投げやりに戻す。


「……その、今回の件は一気に片付けたいと思ってはいたんだが、大事になってしまって申し訳無かった。下手をすればハウエル家と婚約させられたか、役職を疑問視されたかも知れなかったんだ。カレイラ嬢の助力があってまとまったが、エレーンが勝ってくれた事に心底ほっとしている。ちょっと、仕事に集中しようと……いや、していたから、怒っているとか疲れているわけでは無いんだ。」


「……それは、寧ろ私事でしたのに、多くの方々を巻き込んでしまい申し訳無いと言うか……。ニコルさんも、カレイラさんの事もです。」


「……エレーンはもっとロバートに怒っても良いと思うぞ?」


「何と!私ですか?」


ロバートはいつもの様に惚けて見せた。


「……そうだろう、穏便に済ます事も出来た筈だろ。」


「私はこの手は使いたく無かったのですよ。上手く纏まって良かったですが。大体、坊がエルさんは強い方が好きだと仰るから提案したまでで……騎士は単純……もとい、純粋な方が多いですから。」


「!、そうですっ!」


そう言えば、何故アレクシスがそんな事を知っているのだろうか?!ここ数日羞恥に耐えるのが精一杯で、エレーンは問い詰めるのを失念していたのだ。

思い切り、アレクシスを凝視する。


「どうして、アレクシスは私の好みを?」


「……本当の事だろう?」


何やら、当人は怒った様な顔をする。むしろ、荒ぶっているのは此方なのだが。


「いえ、それは昔の事であって、今は会場で言った通り、本当に違います。大体、私の殿方の好みとか、そんなお話しした覚えも無いんですが……」


「……。」


「アレクシス?」


「サイラスどのに直接聞いた……」


父様ー?!


エレーンの頭に、父、サイラスの仏頂面が浮かぶ。二人がそんな話しをするイメージが湧いて来ない。しかし、事実アレクシスは知る由の無い話を知っていた訳で…。


「な、ななな……何て話を……!」


「……。」


「他、他に変な話はしていないですよね?!」


「……。」



その沈黙が恐ろしい!!目眩がしそうで、エレーンは額に手を当てた。


ちょっと、待って。いや、待って欲しい。


遣える主君に、娘の殿方の好みを話すなど、どんな状況だろうか?!


此方の焦りを他所に、……アレクシスは先程とは打って変わって意地悪な笑顔を向けている。


ああっ、自分の恥ずかしい失敗談とか話していないだろうか?!


エレーンは内心嵐の様に激しく暴れる思考を抑えて、アレクシスに再度問うてみる。


「ですから、何を話したのですか?」


「……内緒。」


そう言った彼のとても良い笑顔に、絶句した。イスベルに帰ったら父を問い詰めねば……!!それにしたって、アレクシスのこんな笑顔はいつ振りだろう?内容がこれで無ければ、一緒に微笑み返したいくらいだ。エレーンは混乱しながらそんな事を思っていた。

アレクシスが愉しげに笑うと年相応の幼さが出て、エレーンは胸がどきどきとして、更に慌てるのだった。


そんな二人を、ロバートは微笑ましく見守っていた。






その日エレーンはニコルとカレイラに大変世話になったので、空き室を借りて夕御飯をご馳走する事にした。


大食堂の調理場の端を借りて調理したのだが、最初は調理スタッフ達が恐縮しながら、自分達が作ると言うのをどうにかこうにか遠慮して貰い、休憩時間に調理場に人が居なくなる間を利用して作ったのだった。


久しぶりの料理作りに楽しくなってついつい人数分よりも多く作ってしまい、どうしようか迷った末に、騎士団長へも差し入れた。騎士団長には訓練の変更等迷惑も掛けた上、お礼が思い付かなかったのもあった。料理を持って行くと、団長他、副団長にクロードの昔馴染みに…次から次へと人が寄って来て、慌ててロイと退散した。


今日は具沢山の焼きうどんと、子羊のロースト、牛肉のカツレツに、アン直伝のもつ煮込みと、南瓜のサラダに、野菜たっぷりクリームスープ。おまけにデザートのチェリーパイにプディング、シフォンケーキ……作り過ぎである。




「……貴女、本当に公爵令嬢なんですの?」


普通なら、使用人が居る貴族の令嬢が料理をするなど、考えられない事である。ニコルの驚きは、至極真っ当だった。余程の事だったのか、目の前の長いテーブルに隙間無く置かれた料理を見て、エレーンを見て……の往復作業を何度もしていた。


エレーンはテーブル脇のワゴンに用意したクリームスープの鍋から、スープをカップに移しながら、返事をする。


「はい?そうですけど……。あ、美味しくなかったですか?」


「いえ、そうではなくて……」


「まあ、気にするなニコル。それにしても、どの料理もとても美味しいぞ、エレーンどの。」


既に食事を始めていたカレイラは、満足そうにフォークを口へと運ぶ。その動きは流れる様に綺麗で、王子殿下を前にしても態度はいつも通りそのものだった。最初こそアレクシスを前にしてニコルは緊張しきりだったが、料理を用意したのがエレーンだった事。そして本当は女性だけでの会の筈が、アレクシスが絶対食べると駄々を捏ねたとロバートに暴露されて、顔を真っ赤にして大慌てだのを目の当たりにして、すっかり肩の力が抜けていた。


リンは顔出しが駄目だと断られ…と言うか、作っている間エレーンの周りをうろちょろしてはつまみ食いをして、自分の好きな料理を持って引っ込んで行ってしまい(ちなみに焼うどんとカツレツにチェリーパイだ)、ルーカスは何故か何処へ行っても捕まらず、今はアレクシス、ロバート、ロイ、カレイラ、ニコルとエレーンを含め六人で食卓を囲んでいる。


「今回は、ニコルどのにもカレイラどのにも世話になったな。」


「……そんな、恐れ多い。とんでもございませんわ。」


あの醜態を見てしまった後では、どうもアレクシスを王子として扱うのに、ニコルは抵抗がある様に見えた。あれを見てしまったら、只の年下の男の子にしか見れないのは、仕方が無いのかも知れない。


「……。」


「……。」


「もう止めませんか?」


「……しかしな……。」


沈黙に耐えられず、エレーンが促した。


「……殿下、あの後では辛いですよ。流石に。」


「じいが余計な事を言うからだろ!」


「本当の事でしょう。王子然としていれば、この様な気不味い雰囲気にはならなかったのに。全く嘆かわしい。」


「あのな……」


「……殿下、落ち着いて。」


珍しくロイに諭され、アレクシスは項垂れた。しかし、直ぐに顔を上げて、二人の令嬢の顔を確認した。


「分かった。カレイラ嬢、ニコル嬢。先程はとんだ醜態を晒して申し訳無かった。今日は形式等気にせず楽にしてくれ。せっかくエレーンが作った料理だ。冷めない内に頂こう。」


「ふふっ。殿下はそれぐらいで調度良さそうですね?」


「カレイラ嬢……兄上には内緒だぞ?また嫌味を言われるからな……。」


アレクシスのぼやきに、会食の雰囲気は更に和やかになった。話は、あの婚約者騒動の発端、ニコルが何と言って騎士達に噂を蒔いたのかに移った。ロバートが頼みはしたものの、何と言って回るかは、ニコルに任せていたのだ。


「軽くあしらっただけですわ。好みを聞かれて、エレーンさん自身が騎士ですから、強い方なんじゃありませんの?知りませんけど。と言っていただけですわ。」


「それが、あんな噂に……。」


噂話とは実に恐ろしい。エレーンは少し額に汗をかいた。


「親切に教えてくれてる……ぐらいに言われてたよね……。確か。」


ロイは身震いする。リンの報告書には、そう書いてあった筈だ。何をどう取れば、今の言葉がそう聞こえるのか。


「まあ、そうでしたの?殿方はちょっと夢見すぎですのよ。少し自分の都合の良い話だけ耳に残して、後は聞いておりませんでしょう?」


「ニコル、お前そんな知ってる風に……」


ニコルの大人びた発言に、カレイラは微妙そうな顔する。


「だってカレイラ様、一ヶ月で有に二百人近く話しかけられましたのよ?嫌でも学習致しますわ。」


ふんっと鼻を鳴らすニコルに、エレーンは申し訳無さすぎて、肩を落とす。確かに、あのギャラリーの量を考えると、ニコルの苦労が嫌でも想像がつく。


「本当にすみません……。」


「解決致しましたし、謝罪は結構ですわ。……料理も美味しいですし。」


「……!ニコルさんっ」


エレーンは思わずニコルを抱き締めた。前回我慢したから、もう良いだろう。良い筈だ。そう自分に了承して。


「ち……ちょっと、食事中に端ないですわ!!離しなさい!本当に貴女、公爵令嬢らしくないですわっ!」


思いがけない事態に、ニコルは顔を真っ赤に慌てている。が、エレーンは一向に離さない。むしろ力が強い。


「……お嬢は結構感激屋なんだよね。」


ロイは然もありなん、とした、何とも当たり前の事の様に一人で頷いている。


「だっ、だからと言って、人前で抱き付くなど……っ」


「マルシュベンは愛情表現激しいから……ニコル嬢は諦めて。今後も。」


「?!」


ロイの無慈悲な断言に、ニコルは赤かった顔が青ざめる。それを見てカレイラは心底面白がっている様だ。


「……俺はされた事無い。」


「?!」


まさかのアレクシスの発言に、今度は皆目を丸くする。当の本人は、本気なのか冗談なのか、口を尖らせている。それが幼くて可愛らしく、結局本気そうに見えるのが不思議だ。


「あ、当たり前です!私だって流石に弁えます!!」


ニコルからパッと離れて狼狽えるエレーンの姿に、ニコルは大笑いするのだった。





それから食事が終わり、アレクシスとロバートがまだ残っている仕事を片付けに抜け、ロイが女子会に恐れをなして退出していった。

ようやく、本来の目的である女だけのお茶会、開始である。


「……本当は好みの方とか、おりませんでしたの?」


「ニコル、不躾に何だ。」


「だってカレイラ様は気になりませんの?私が二百人捌いている間に、とても凛々しい殿方もちらほらおりましたのに。」


こんなガールズトークは久方振りのエレーンは、少しドギマギしながら考えていたが、どんな人物が優勝してしまうのかしか考えておらず、覚えているのはレイニードの顔のみ……という事実に至った。


「……全く見ておりませんでした……。」


「ええ?!勿体ない……。」


「お前な……。」


カレイラの注意も何のその。ニコルは少し頬を膨らませて拗ねた顔をした。


「あら、カレイラ様だって酷いですわ。私、今日の試合までカレイラ様の決闘のお話は知りませんでしたもの。」


「いや、決闘では無いから。」


「ええ?!ルーカス様と婚約が出来る様にわざわざ決闘にしたのでは無いんですの?」


途端に、カレイラはガチャリと紅茶の入ったカップをソーサーへと戻した。


「おい。……何であいつの名前が出て来るんだ。」


「だって、身分差がございますでしょう?ですから、負けたら妻になると言う条件で決闘に至ったのだと……」


雲行きが怪しくなって、ニコルは少し躊躇いがちに答える。カレイラの表情は、ニコルの一言一言に怒りを帯びている。


「……誰が言っていた?」


「ええ……と、騎馬隊二番隊副隊長の……」


「あいつ……!!」


「もう騎馬隊全隊の噂ですよ?」


その言葉を受けて、カレイラは勢い良く立ち上がった。


「今日二番隊は、夜勤だったか?!場所はどこだったか……ニコル、馬の手配をしてくれ。今日という今日は、二度と立ち上がれない様にあいつをぶちのめす!……すまん、エレーンどの。とても美味だった。また機会があれば是非!」


怒れるカレイラに連れられ、ニコルは悲壮な声を上げて部屋を後にするのだった。

二人を見送り、置いていかれたエレーンは、静かに後片付けを始める。しかし、


「貴族の噂って……。」


実に恐ろしい。



エレーンの認識と、アレクシスの危惧していた噂の本質が若干違うのだが、それでも、下手な行動は慎む様にしようと、エレーンは決意するのだった。




最後は慌ただしかったが、無事に、エレーンの婚約者騒動はこの夜を持って幕引きとなった。



次の日から、やけに仕事に打ち込む者が続出して、上官達が喜んでエレーン宛に感謝の手紙を寄越して来て、返事に四苦八苦する羽目になるのだったが、それはまた別の話である。


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