分離

桜々中雪生

分離

 人は、なぜ恋をするのだろう。幸せの量に反比例するように、こんなに辛くて、苦しいのに。もしかしたら、私だけなのかも知れないけれど。


 私の恋人は、私とは正反対の人間だ。背は高く、頭脳明晰、仕事もきっちりこなし、おまけに顔までいい。それに比べて私は、背も低く、勉強だって平凡中の平凡で、仕事は与えられたもので精一杯、顔に至っては平均以下、家事全般も最低限しかできないのだ。そんな私を、彼は好きだと言って、私たちの交際は始まった。

 すぐに飽きられると思った。気の利いたことを何一つ言えない私は、彼を満足させてあげられないと思っていた。それなのに、予想に反して、彼は私と付き合い続けた。本気になれば、あとが辛くなってしまうと思っていたのに、気がつけば、私は彼を深く愛してしまっていた。

 好きな人と一緒にいられる。それは、とても幸せなことだけれど、同時に、とても不安にもなるのだ。

 私にとって彼は特別だけれど、彼にとっては、私など星の数ほどいる女の、人間の一人に過ぎないかもしれない。彼が私を抱き締めるたび、好きだと言ってくれるたびに、そんな考えが頭をよぎる。

(きっと、私が私でなければ、もっと自信を持って彼の隣にいられる)

 何度そう思ったか知れない。

 彼に抱かれながら、私なんかでいいのだろうかと思ったことも度々ある。私はあまりに、彼と不釣り合いだったから。


 好きだと言ってもらえなくなると不安になる。そのくせ、好きだと言われれば、「うそつき」の言葉が口をついて出てくる。怖かったのだ。私だけだと、彼はこの恋愛に本気にはならないのだと、言い聞かせる日々。そうして、防御線を何重にも張り巡らせていた。


 私は嫉妬深いけれど、彼がそうでないことも、私の不安を倍加させていた。

 ──こんなに好きなのに、あなたは私がどうでもいいのね。

 何度も何度もそんな言葉をぶつけた。


 私だけ。私だけだ。

 私ばかりが愛を注いでいる。他の誰も視界に入れてほしくない、他の誰の視界にも入ってほしくない。


 これではただの子どもの駄々だ。わかっていても止められなかった。こんなものは愛とは呼べない。私は彼を、愛しているつもりだっただけなのだ。


 ようやく気づけた。彼を、太く冷たい鎖でぐるぐる巻きに縛りつけてしまっていたと。彼の顔から笑顔がなくなった。彼の態度が素っ気なくなった。それでも彼は、私を抱き、好きだと囁き続ける。

 わからない。もう何もわからなくなっていた。彼に笑顔がないことが悲しかった。私を好きだと言わせてしまうことが悲しかった。

(ごめんなさい、私じゃないね。あなたが笑顔になれるよう、私は消えるね)

 そう心の中で呟くと、私は、鎖を首にかけた。次第に顔が腫れぼったくなり、やがて、陸に打ち上げられた魚のようにびくんびくんと全身が跳ね始めた。それでも手は緩めない。

(私さえいなくなれば)


 醜く横たわる私を見つけ、彼が嬉しそうに笑う姿を想像して、私も小さく笑った。

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