十二 兄の帰郷

 東京にいる正平さんが帰郷した。それにあわせて、父も戻ってきていたらしい。

 実を言うと、母屋に入るのは久しぶりだった。わたしの生活は離れで、彰子さんと寝食を共にする機会などなかった。

 母屋は余所の家の匂いがした。

 普段使わない高価そうな洋風の食器を下ろしたと妙さんは言っていたけれど、普段を知らないから良いとも悪いとも言えなかった。

 その上、普段飲まない珈琲が目の前に置かれた。外国人からわざわざ豆を取り寄せた一級品らしい。

 だけどわたしには一級品のありがたさがいまいちわからない。口を付けると、ひどく苦くて飲めたものではなかったからだ。

「ここでの暮らしはどうだ?」

 珈琲と苦戦しているさ中、着流し姿でくつろいだ父がわたしに声を掛けてきた。

 最初、自分に話し掛けたとは気づかなかった。彰子さんに目配せされて、わたしは慌てて口の中の珈琲を飲み込んだ。

「はい、皆さんにとてもよくしていただいて……」

 ふと、正平さんもどきにも同じことを問われたのを思い出した。

 この人が父親だったのだと、正平さんが「父さん」と言ったのを聞いて気が付いたくらいだ。同時に、顔を忘れてしまうくらい会っていなかったのだとも自覚する。

 どうしてこの人は、今更わたしを引き取ろうと思ったのだろう。今なら聞いても大丈夫そうな気がした。

「あの……」

 思い切って話を切り出そうとした途端、彰子さんが遮るように話を始めた。

「この間千歳叔母様が、正平さんに良いお話を持ってきてくださったのよ」

 わたしに話をさせまいとしているのか、普段口数の少ないはずの彰子さんは、次々と言葉を並べる。

「お写真を拝見したら、とても優しそうなお嬢さんなのよ。この春女学校を出て、今は花嫁修業にいそしんでいるそうよ。ねえ正平さん、一度くらいお会いしてみたらどうかしら?」

「いやあ……」

 正平さんはあからさまに困った顔になる。

「僕にはまだ大学での勉強が残っているので、お会いして、もし……という事態になっても、すぐには……あれでして」

「そんな取り越し苦労ばかりしていたら、何にも始まりやしませんって。ねえ、あなたからも正平さんに何かおっしゃってはもらえませんか?」

 どうやら正平さんのお見合い話があるらしい。わたしを取り残して、三人の間で話が進められていく。

 そうか。やっぱりわたしは彰子さんによく思われていないのか。

 当たり前といえば、当たり前だ。仕方なく開き直ると、三人の茶番劇を眺める。

 寡黙な父親と、良妻賢母の母。社交的で陽気な息子。そこにわたしという存在はいらない。

 早く離れに戻りたい。

 そうしているうちに、お見合いの話題は終わったようだ。お盆休み中に一度会うということで、話がまとまったようだ。

「そうだ、母さん。明日友達が来るんだけどさ。客間をひとつ用意してもらえる?」

「まさか、正平さん……」

 いつも表情を変えない彰子さんの顔に、期待交じりの笑顔が宿る。

「ああ違う違う」

 正平さんは慌てて否定する。

「大学の友人だよ。ほら、以前にも来たことがあるだろう。葛木だって」

「……あら、そうなの」

 すると彰子さんの顔は、見る間にがっかりとしたものになる。わたしは彰子さんの百面相が珍しくて、つい二人のやり取りを眺めてしまう。

「由比さん」

 わたしの視線に気づいたようだ。彰子さんは冷淡にわたしを見下ろした。

「あなたは離れにお戻りなさい」

「はい」

 つい正平さんが持ち込んだ和やかな空気に、自分の立場を忘れてしまっていた。わたしは一礼すると踵を返した。

「由比、また後で」

 背後から正平さんの声が追い掛けてくる。

 また後で、か。

 今度母屋に出向くのは、正平さんが東京へ戻る時だろう。

 いったん足を止めて軽く頭を下げると、わたしは逃げるように離れに戻った。


 夕餉に母屋へ呼ばれることもなかった。いつものようにひとりで済まし、湯浴みをした後はもう寝るだけだった。

 今日も暑い夜だった。灯りを落として、虫取りの線香を焚くと、庭に面した窓を開け放ち、縁側に腰を降ろした。

 お客さんはもう来たのだろうか。

 母屋の方へ耳を傾けてみるものの、聞こえるのは涼しげな虫の声ばかり。人の声はちっとも聞こえやしない。

 その時だった。

 離れの近くにある裏口から声がした。

「申し訳ありません。こちらは郡司さんのお宅でしょうか?」

「そうですが……」

 誰だろう。でもここにいるのはわたししかいない。とはいえども、こんな夜更けに、簡単に人を招き入れるのは考え物だ。

「申し訳ないのですが、ここは裏口なので、正面に回ってもらえませんか?」

 声を張り上げると、男の人は申し訳なさそうな様子で言った。

「非常に申し上げにくいのですが、正面がわからなくて」

 どうやらかなりの方向音痴らしい。

 仕方がない。慌てて蝋燭を探すと、手近にあるお皿に立てて灯りをこしらえた。適当な下駄を引っ掛け、裏口の外に立っている人の姿を引き戸の格子越しに覗き込んだ。

 おぼろげな蝋燭の灯りに浮かび上がったのは、洋装に身を包んだ若い男の人だった。

「ああ、よかった。あ、と……」

 自分がおかしなところから入ってきてしまったと自覚したらしい。男の人は申し訳なさそうに頭を掻いた。

「申し送れました、私は正平くんと同じ下宿の葛木と申します」

「正平さんの、お友達ですか?」

「ええ、そうです」

 葛木と名乗った男の人の声は、ほんの少しだけあの青年の声に似ている。そんな気がした。

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