七 ひとを喰らう鬼

 息をするのも苦しいほど、緊張していた。

 ざわざわとした感覚がどんどん強くなってくる。

 雨戸は人ひとり通れるくらい開かれている上に、廊下には泥で描かれた足跡が残されていた。下駄を脱ぐと、四つんばいになって戸の隙間に身を滑り込ませる。

 まず廊下があり、障子を隔てて祖母が眠る部屋がある。中の灯りが透けて、障子がぼんやりと明るい。足跡は廊下を横切って、同じようにわずかに開いたままの障子の向こうへ続いていた。

 どうして、こんなにも静かなのだろう? 

 大人たちがいるのに。

 侵入者がいるのに。

 気づいていたら……黙っているはずがないのに。

 嫌な予感がした。

 どうしようと思っていると、黒い影が障子の奥で揺らめいたのを目にした。迷ったものの、そのまま這って進むことにした。そして、そおっと障子の隙間から部屋の中を覗き込む。

 まず最初に目に入ったのは、壁にもたれ掛かって眠るお坊様の姿だった。隣りにいるよく知らない親戚らしき男の人も、うなだれるようにして眠っている。

 ぽつ。

 大人たちが眠るそばに、黒い染みができた。

 ぽっ、ぽつ、ぽつ。

 黒い飛沫が畳の上にどんどん染みをつくっていく。死角になっている方向から飛んでくるようだ。かすかに犬猫が水を飲むような音が聞こえる。

 なんだろう。もっとよく見ようと身を乗り出した。

 蝋燭の薄明かりに浮び上がった黒い背中が、最初に目に飛び込んできた。背中を覆う、もつれた黒髪。あの人だとすぐにわかった。

 ぴちゃぴちゃとなめ、すする音。合間に挟まる硬い何かを砕く鈍い音。一心不乱に何かに食らいつく姿は、まるでお腹を空かした犬に似ていた。

 わたしは目の前の光景に釘付けになっていた。

 目をそらしたくても、そらすことができない。悲鳴を上げようにも、声は喉の奥でかき消えた。

 金臭い匂いが鼻を突く。彼がむさぼっているものが何なのか。わたしはようやく気がついた。

「…………!」

 突然吐き気がして口を押さえた。吐きそうになるのを懸命にこらえた。

 誰か、誰か!

 大人たちの目を覚まそうと何度も叫ぼうとしたけれど、喘ぐだけで声が出てくれない。

 彼は食むことに夢中で、わたしに気づかないようだ。もしかしたら気づいていても、気にしていないだけなのかもしれない。

 彼は真っ赤な血に染まった肉塊に顔を埋めると、大きく首をのけぞらせて力まかせに肉を引き裂いた。肉と一緒に食いちぎった布切れを邪魔そうに吐き捨てる。

 べちゃり。

 音を立てて、何かが手元に飛んできた。

 布地は黒ずんだ血を十分に吸って、元の布の色もがわからないほどだった。

 これは、何?

 信じたくなかった。

 この布切れが祖母が身につけていた経帷子だなんて。

 白かった布を違う色に染め変えてしまったものは、祖母の流した血などとは。

 鬼だ。

 人喰いの鬼が、ここにいる。

「いやああっっ!!」 

 わたしは初めて悲鳴を上げた。

 悲鳴を聞いて、彼はやっと動きを止めた。ゆっくりと振り返ると、無造作に血で汚れた口を拭う。

「おまえは」

 やはり、彼は忘れな草を摘んでくれた、あの人だった。

 むき出しになった彼の顔は驚くほど幼く無防備で、ひどく驚いているようだった。

 けれどわたしの視線は、彼の傍らに横たわった血まみれのモノに向いていた。

 血だらけの肉の塊は元の形など、とうに失っていた。乱れた布団は、どす黒い色に染まっている。

「う………!」

 喉の奥から酸っぱいものがせり上がってきた。両手で口を押さえた途端、吐瀉物が溢れ出た。

 ろくにものを食べていなかったから、水っぽいものばかりしか出てこなくて余計苦しかった。

「あ、あ」

 足から力が抜けて逃げることもできない。このままでは、わたしも祖母のようにこの身を喰い千切られるのだろう。絶望のあまりどうすればいいのわからなかった。

「……みるな」

 彼は振り絞るように呟いた。

「見るな」

 その声はどこか悲し気で、思わず自分の耳を疑った。彼は恥じ入るようにうつむいた。

「頼むから、俺を見るな」

 押し殺した声で囁くと、側にあった蝋燭の炎に手を伸ばした。血に塗れた手が炎を握りつぶした途端、辺りはたちまち突然闇に包まれた。


 わたしの意識もそれきり途切れてしまい、目を覚ました時には、すでに祖母の葬儀は終わっていた。

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