四 鬼のはなし

 誰だろう。

 昼間、こんな人がいたかどうかも憶えていない。多分、この家の人間だとは思う。でも。

「わたしなんか構わない方がいいですよ」

 気を使っているのか、余所者が珍しいのか。その人が隣に座ろうとしたので、一応忠告しておいた。

 けれど男の人は忠告を無視して座り込むと、唐突に訊ねた。

「お前は、由比だろう?」

 誰かから聞いたのだろう。無言のまま頷いた。

「さすが、というべきか」

「……? あの」

 こちらが恥ずかしくなるくらい、真っ直ぐにわたしを見つめる。

 じろじろ見るのとも違う。親戚の人たちのように、値踏みをするようなのとも違う。男の人はまるで好奇心旺盛な子供のようにわたしを眺めていると、ぼそりと呟いた。

「白鷺と呼ばれた女の娘だけあるな」

 白鷺、というのは母のもうひとつの名前だ。遊女だった母は、白鷺と呼ばれていたらしい。

 なんだ、やっぱり母さんのこと知っていたんだ。またどうでもいいことを言われるのだろうと、覚悟を決めて唇を噛み締めた。

「きれいだな」

 予想していたものとは違う言葉が聞えてきた。わたしは思わず聞き返した。

「……何が、ですか?」

 男の人は柔らかく目を細める。

「お前が、だ」

 低く囁く声に、心臓が大きく音を立てる。

「う、嘘。からかわないでください」

 どもりながら反論すると、男の人は小さく声を立てて笑った。

 耳が熱い。きっと頬も赤くなっているだろう。

 こんな顔を見られるのが恥ずかしくて、わたしは慌てて俯いた。 こんなことを言われたのは初めてだ。ううん……何回か言われたことはある。

『お前はきれいな子だねえ。きっと将来は母さんみたいな売れっ子になれるだろうよ』

 べたつくような男の声が蘇り、ぶるりと身震いした。

「あの……ええと」

 嫌なことを思い出した。さっさと忘れてしまおうと、全然別のことを考えようと努める。

「あなたは……郡司の血縁の方ですか?」

 そこまでわたしの素性を知っていているということは、やはり郡司の家の人間だろうと思う。

 でも男の人は、ただわたしを静かに見つめているだけで、何も答えてくれようとしない。

 ふと、女中さんたちの話を思い出した。確か郡司の家には、ちょうど二十歳になるひとり息子がいるらしい。

 ちょうどこの人も、それくらいの年齢のはずだ。

「あなたはもしかして……正平さん?」

 確かそんな名前だ。

 でも男の人は何も言ってはくれない。わたしが困ったように見つめ返すと、口元にひっそりとした笑みを浮かべる。

「やっぱり。あなたは正平さん……ですよね?」

 郡司家のひとり息子は、東京で下宿生活をしながら大学で勉学に励んでいると聞いていた。

「この町は、気に入ったか?」

 質問に答えてはくれなかったが、否定もしない。返事を貰うのを諦めて「気に入ったか」の問いに答える。

「……はい。でも」

 海と山、ふたつをあわせ持った小さな町は、保養地や別荘地としても名高いらしい。けれど、この家は小高い山の上にあり、せっかくの海の気配も感じられない。

「でも、ここは少し不便です」

 海辺の賑やかな界隈に出るのも、狭い山道を下っていかなければならない。大した勾配ではないが、だらだらと続くこの坂道を上り下りするのは、結構面倒くさい。

「そうか」

 恐らく正平さんであろう人は、至極真面目にこう答えた。

「だが、慣れてしまえば平気なものだ」

 確かに。住めば都という言葉もあるくらいだから、そういうものなのかもしれない……などと考えていたら、お腹の虫が急に鳴き出した。慌てて手で押さえるが、鳴ってしまったものはどうにもならない。

 もう、恥ずかしい……。

 さすがに人前でお腹を鳴らしてしまうなんて、本当に居たたまれない。

「……それにしても止みそうにないな」

「そんなに鳴らしていませんが」

 お腹を押さえながら、むきになって反論してしまう。すると正平さんは不可解そうに目を瞬かせるものの、唐突に「ああ」と納得したように頷いた。

 自分のお膳をわたしの前に押しやり、最後にお箸を手渡してくれた。

「お前の方のは、これで止むだろう」

 お腹の虫が、という意味に違いない。恥ずかしいけれど、またお腹が鳴ったらもっと恥ずかしい。わたしは小さく手を合わせて、さっそく小芋の煮物に箸を付けた。

「さっきの話のこと、聞いてもいいですか?」

 ひとつ小鉢を空にすると、お腹の虫もようやく落ち着いてくれた。気を取り直して、白磁の酒器からお酒を注いでいる正平さんに訊ねてみた。すると。

「何がだ」

 自分から声を掛けてきたくせに。すっかり忘れているらしい。

「何がって……。大人なたちの話です。それで……」

 正平さんの様子を伺う。わたしの問いを待っているかのようだったから、そのまま続けた。

「何を運ぶのですか?」

 内緒話のように、そっと訊ねる。

「亡骸だ」

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