二 見えてはいけない人

 昔からこういう勘だけはよく働いた。そして、大抵この勘は外れない。わかってはいるものの、目が吸い付くように彼から離れない。

 老人のようにも見えるけれど、痩身ながらにしっかりとした立ち姿は、まだ若いようにも思える。

 墨染めの衣は、お坊様のものとよく似ているけれど、布地はすっかり色褪せて裾や袖元はボロボロになっていた。髪はわたしのよりずっと長い。背中を覆うほど長い髪。もちろん手入れなどされていないだろう。黒い髪はもつれて、絡まった糸玉のようだ。

 擦り切れた袖から伸びた細い腕は、蝋のように白い。ふわりと吹いた風が、彼の重たげな髪を揺らす。一瞬だけ露になった横顔を目にした。思っていたよりも若い。

 彼の視線が何かを捜し求めるかのように、遠くに向けた視線を漂わせ……何気なくこちらを向いて、そして止まった。

 彼と視線が重なった途端、ざわりと肌に粟立つような感触を覚える。

 どうしよう。

 額に冷たい汗が一筋流れる。

 見なければよかったと、今更ながら後悔する。

 しばらくの間、彼との睨めっこの状態でいた。ほんの数秒間の出来事だろう。でも、とてつもなく長く感じられた。

 見えているのに見えない振り。これはずいぶんと難しい。先に勝負を降りたのは、わたしの方だった。

 さりげなく目を逸らし、知らん顔で忘れな草を摘む振りをしようと努力する。

 けれど手が震えて上手く花を摘むことができない。その時だった。突然、白く骨張った指がぬっと現れた。

 驚きのあまり、息が止まりそうになる。

 細い指が、わたしが摘もうとしている花の茎に触れる。

 ぞっと背筋に寒気が走った。駄目だ。怯えるなと自分を励ましながら、どうにか平静を保とうと努力した。

 ぷつり。

 花が手折られた音の後、男の人はゆっくりと花から手を放す。

 もしかして、摘んでくれたの?

 淡い色の小さな花の存在に呆然としていると、かすれた低い声が耳元をかすめた。

「……する」

 微かな声は聞き取りにくかった。

「この……いや、違う」

 この娘、と聞こえた気がした。

 わたしのこと?

 背中に冷たい汗が一筋流れる。大丈夫、わたしが見えているなんて、この人は気づいていない。

 視線を上げればすぐ間近に彼の顔がある。恐ろしくて声を上げてしまいそうなのを必死に堪えた。

「あそこか」

 押し殺した声に、苦しげな様子が伺える。

「しひとのにおいは……あそこか」

 彼は呟くと、ゆっくりと立ち上がった。


 ……今のは何?

 今更になってがくがくと手が震えてきた。今すぐ皆がいるところへ飛んで行きたいのに、足が思うように動かない。

 しひとのにおい。

 しひと? しひと、って?

 耳にまだ残る彼の言葉を、頭の中でくり返す。

「あ……」

 しひとは、死人。

 ―――死人の匂いがする。

 ぞくりと寒気が走る。この家で死んだのは、わたしの祖母にあたる人。

 あの人が、どうして祖母を?

 彼が立ち去った方向へ目を向ける。けれど、もう彼の姿は見当たらない。

 まるで白昼夢でも見ていたかのようだ。でも、夢ではない証拠に、わたしの手の中には、手折った忘れな草がある。

 あの人は……一体何だろう?

 間違いなく、あの人は生きた人間ではないはずだ。けれど、死んだ人間だとも言いがたい。

 生きた人間にしてはあまりにも虚ろすぎるが、死んだ人間にしては少々生々しい。

 下町に住んでいた頃も、ときどき不思議な人たちを見たことがあるけれど、そういう人たちともまた違うような気がする。

 とんでもないところに来ちゃったな……。

 息を殺しながら、こっそりと溜息を吐いた。

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