一 通夜

 わたしは妾の子だ。

 母は吉原の遊女だったので、父親が誰なのかわからない。ひとりわたしを産み落とした母も、出産と同時に命を落とし、それから十五年。わたしを育ててくれた母の母、祖母も半年前に亡くなってしまった。

 母と同じように遊郭に行くしかないと思っていた矢先、自らを父と名乗る男が現われた。

 郡司何とか一郎、太郎だったかもしれない。あまり興味がないから、聞いてもすぐに忘れてしまう。

 とにかく、その郡司なんとか一郎、もしくは太郎は、気難しそうな初老の男の人だった。横浜の方で、何か商売をしているらしい。フロックコートに黒帽子。口元には白髪雑じりの髭をたくわえ、いかにも裕福そうだ。母の馴染みのお客だったらしいけれど、とても遊郭に通うようには見えない。

 でも、本人が言うのだから間違いないのだろう。そう思うことにした。

 雑多な下町の一角にある遊郭で、一生襤褸雑巾のように使い捨てにされるよりはましだ。そう思ったからだ。

 でも祖母という人は、わたしが郡司の家に来るのを、最後まで反対していたらしい。そして皮肉にも、わたしが引き取られて三日後、彼女は亡くなってしまった。


(ほら……あの娘だよ)

(ああ、どうりで)

(母親が遊女だと……)

(よくもまあ、ずうずうしくこの家に)

(おルイさんが亡くなったのも、あの娘のせいじゃないの)

 お通夜の席では、お坊様がお経を唱えている間も、背後から刺すような視線をいくつも感じていた。

 別になんとでも言えばいい。陰口なんて言われ慣れているから平気だ。

 形式どおりに手を合わせ、焼香を終えると、挑むように弔問に訪れた人々に向き直った。

 一瞬、空気が強張るのを肌で感じる。わたしは澄ました顔で、畳に手を付き、深く頭を下げた。親族の席に静々と戻った途端、ひそひそ話が静かに波が打ち寄せるように聞えてくる。

 耳を澄ますと、わたしの素性から始まり、ひとり息子がちっともしっかりしていないとか、祖母は相当がめつい人物だったという話まで耳に入ってくる。かなりの資産を溜め込んでいるものの、息子夫婦に渡すでもなく、墓場の中まで持っていくつもりだったようだとまで。

 亡くなった祖母という人が、どんな人かまでは知らない。だけど、お通夜で悪口を言わなくてもいいと思う。

 だから金持ちは……なんて言うと、貧乏人のひがみに聞こえてしまうだろうけれど、実際貧乏人だったのだから仕方がない。

 嫌なお通夜だ。故人の死を悼む人間はいないのか。

 金屏風みたいな法衣に身を包んだ三人のお坊様。立派な広間にずらりと並んだ喪服姿の人々。庭にも溢れてしまうほどの弔問客。まるで黒蟻が甘い汁を啜りに集まってきたようだ。

 辺りに白く立ち込めた焼香の煙を吸い込んでいるうちに、段々胸がむかむかとしてきた。多分、少しきつめに締められた帯だけのせいじゃないと思う。

 もう駄目だ。

 非難の視線を覚悟して、わたしはふらりと立ち上がった。

 ずっとここにいたら、吐いてしまいそうだ。わたしが気分悪そうに口元を押さえると、誰もが嫌そうに顔を背けて、見て見ぬ振りをした。

 もう嫌だ、帰りたい。

 でも、今のわたしに帰る場所などない。もちろん、この家にだって、わたしの居場所はない。一瞬、遊郭に行った方がましだったと思いたくなる時もあるが、それは隣の芝生が青く見えているだけだとわかっていた。

 水が飲みたい。

 井戸があるかもしれないと、裏庭に回る。思ったとおり井戸はあった。古いけれどちゃんと使える。しかも、そこには小さな庭があった。

 草木や野の花が自由奔放に咲き乱れていた。可憐で小さな野の花が一面に散りばめられているようだ。

 まだ低い黒い枝の木は、多分桜だと思う。細い枝には固くて小さな蕾がまばらにくっついている。花開くのはまだ先だ。代わりに小さな白い花をいくつもつけた沈丁花の花は、うっとりするような甘い匂いを漂わせえていた。

「もう、嫌だ」

 沈丁花の枝の陰にもぐり込んだ途端、じわりと涙が滲んできた。

「こんなところ……もういやだ」

 嗚咽を飲み込むと、抱えた膝に瞼を押し当てた。

 帰りたい。でもどこへ?

 馬鹿みたいだ。もう帰るところなんて、どこにもないのに。

 ふと目を上げると、足元に薄紫の小さな花……忘れな草がひっそり咲いている。

 わたしを忘れないで。確かそんな花言葉があったはず。

 忘れ去られたわたしには、ぴったりだ。

 自分をあざ笑った、その時だった。

 背後の枝が、がさっと音を立てて揺れた。

 途中でお通夜を抜け出してしまったから、連れ戻しに来たのだろうか。でも、よく考えてみたら、わたしを迎えに来る人なんかいるわけがない。

 そうは思いつつ、背後に感じる気配は確かだ。恐る恐る振り返ると、そこには男の人が、影のようにぼんやりと佇んでいた。

 ――不味い。

 直感が告げる。「この人は見えてはいけない人だ」と。

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