第十二話[残していくもの]

 遅れて出社してきた部下と入れ替わりにオフィスを去る。この後は通院の予定で、早退は事前に報告済だ。ケータイの画面をつけて通知のないことを確認する。待ち受けは妻子の写真。自然とため息が漏れる。先行きのことを考えれば不安ばかりで。彼女たちの未来を見届けられないのはもどかしかった。エレベーターはすぐに来た。会議室へ向かう一団を尻目に一階のボタンを押す。昼はとうに過ぎているから人通りはさほど多くない。IDをかざしてロビーを出ていけば、紺の制服の警備員が軽い会釈をした。

 定刻通りに着いた路線バスに乗り込む。車内はお年寄りと子連れの母親ばかりでスーツ姿はやや浮く。とはいえ視線が刺さるなんてこともなく、十分もしないうちに目的の停留所に到着した。杖をついた老婆がふたり、連れだって降車する。そのあとを追って地面に立てば、妙に清々しい空が頭上に広がる。広大な駐車場を従えた白壁の病院が目の前に屹立していた。受付を済ませ、診療科の待合に移動する。ノートパソコンを立ち上げ、我が家の財政の試算表を呼び出す。何度も何度もさらって確認するが、これでよしとは思えなかった。ローンは自分が死ねば無くなるが、妻は結婚以来働いておらず、子どもはまだ小さい。おまけにお腹の中には二人目がいる。子ども同士の年の差も少ないから出費が多い時期が重なる。生命保険だけでは一生食っていくことはできないだろう。だが可能ならば妻にはあまりきつい思いをさせたくない。我儘なのは理解しているが、自分なりに最善を尽くしたい。

 何が起こるかわからないものだよな。実際、生命保険の類が役に立つとは微塵も思っていなかった。人間はずいぶん楽観的にできているらしい。それとも俺が不運なだけか。妻の名を、子どもの名を小さく呟く。二人目はまだ名前がないが。この子の顔を見ずには死にたくないなと思う。生まれたら生まれたで、俺のことを呼んでくれるまでは死にきれないと思うんだろう。次は学校に上がるまで、成人するまで。きっと満足することはない。親はいつか子を置いて死ぬのが当たり前なのだから、いつかは折り合いをつけねばならない問題ではある。ただ、あまりに幼いままに、何も残せずに去っていくのは寂しいものだ。せめて一人前になるまでは、という願いがとんでもない高望みになってしまった今では、してやれることなんてさして多くはないのだろう。

 受付番号がコールされた。ノートパソコンを閉じて立ち上がる。同時に背後で笑い声が聞こえて、振り向く。車椅子に乗った十代後半と思しき男子とそれを押して走る同じ年頃の女子。やけに晴れやかな表情をしている。寝間着姿なので病棟から来たのだろう。屈託なさそうに声を立てて笑う二人が眩しい。病人なのだろうから、内心には深い悩みもあるだろう。それでもあんな顔ではしゃげたら、どんなに素敵なことだろう。いや、そんなこと言ったらいけないか。俺の苦しさは全部、今まで得てきた幸せに起因するんだもんな。

 しつこく番号が読み上げられる。毅然と顔を上げて、大股で歩いて診察室へ向かう。大人として、いくらかは格好をつけたいものだ。

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