第十一話[彼のごはん]

 彼は毎朝、わたしを起こしてから会社に行く。眠たい目をこすっているわたしをテーブルに誘導して、朝ごはんの前でスプーンを握らせてくる。自分の食事はとっくに済んでいて、彼は身支度をてきぱきとこなす。ただしいつ見てもわたしの方を気にしているのは確か。ほら、ネクタイを結びながらも視線はこちらに向いている。だからわたしも、ぴしっと背筋をのばして卵がゆにスプーンを入れる。昨日の夜はわたしが友達と出かけていたから一緒に食事をしていない。だからか、用意されたものはいつもより力が入っているような気がした。丁寧なよそい方も、野菜を入れないぶん鮮やかな陶器のお茶碗も、さりげなく手が込んでいるのがよくわかる。考えてくれるんだよね。ひと口でもたくさん食べられるように。少しでも気持ちよく栄養をとれるように。でもごめんなさい。もう味なんて感じないんだ。口に含んだお粥は本当にただのぺっとりした物体で、ちっともうまく呑み込めない。できるだけ笑顔を崩さないでスプーンを動かす。おなかに入れることだけ考える。おいしいはずなんだよ。こんなに愛されているんだもの。想像で味覚をおぎなって、愛だけを幸せだけを心にとめる。彼はわたしがものを食べていると喜ぶ。きちんと栄養をとれば長く生きられると信じているから。彼のやさしいまなざしを感じるたびに申し訳なくなる。仕事もあるのに、炊事はすべてまかせっきりで。掃除や洗濯くらいは頑張りたいのに、いつも助けられてばかりで。何より嘘ばかりついていて。

「じゃ、行ってくるから。何かあったらいつでも電話して。職場も近いんだからさ」

 わたしがお茶碗を空にしたのを確認して、彼が玄関のとびらをあける。ありがとう。行ってらっしゃい。彼の背をだいて、頬にキスをする。無事に帰ってきてね。外はすばらしい晴天だった。青くてあかるい光がさしてくる。再びとびらが閉まって、鍵を中から掛ける。遠ざかる足音を聞くこと、数秒。耐えきれなくなってトイレに走る。

 かがみ込んで吐いた。なんで、ちゃんと彼の愛情を受け止められないの。お茶碗からそのまま捨てたのとおなじくらい原型をとどめた吐物を見たくなくて、すぐに水を流した。なのに気分の悪さはぜんぜん抜けない。咳き込んでは胃袋のなかみをひっくり返す。出るものがなくなっても脚に力がはいらなくて立てない。泣くことすらうまくはできなくて、小さくうなりながら胸をおさえていた。このまま消えてしまいたい。自分が嫌い。早く自由にしてあげたいなんて表面では思っていても、ほんとうは依存している。彼の隣にずっといたい。あふれんばかりの愛を浴びていたい。

 壁に寄りかかりながらキッチンに這っていく。グラスに水を。胃酸でざらついた口のなかを流す。つめたくて気持ちがいい。うがいを何度かしてから、ひと口だけ飲んだ。わたしのからだが唯一すなおに受け入れてくれるもの。水が命のみなもとだというのは確かみたい。鍵のかかる戸棚をあけて、経口補水液のボトルをとりだす。彼には内緒。あまり深刻な顔をさせないように。午前中をたっぷり使って飲みきる。だれもいない家はとてもしずかで、世界から切りはなされてしまったかのよう。

 夕方まではお掃除をして過ごす。いろんなものを磨きあげたり、整頓したりすると落ちつく。わたしにだって出来ることはあるんだよ。すこしは役にたてているかな。つらくなったら敷きっぱなしのお布団で横になる。何度めかの休憩でうつらうつらしていたら、彼が帰ってきた。

「大丈夫?」

「うん。ちょっと休んでただけ」

「そうか。夕飯まで寝とくといいよ」

 遠のく意識のなかでまぶたがおちる。あ、幸せかも。かすれて低い彼の声を反芻しながら夢をみた。なつかしい匂いの夢だった。食卓、春の陽ざし、ならんだ色あざやかな朝食。たぶん、休日のおそい朝。わたしも彼も笑っていた。永遠につづくと思ったしあわせな光景だった。

「ごはん、食べられる?」

 耳もとでささやかれて目がさめた。うん、と答えてお布団を抜けだす。そろりと立てば、きちんと手足が機能しているのが知れた。うつくしいかぼちゃのスープがわたしを待っていた。銀のスプーンはきれいに磨かれている。やっぱり味も匂いも感じないのだけど、うれしくてかなしくなる。食卓に飾られている季節のお花も、テーブルクロスの若草色も。こころづくしの夕食を、わたしのからだは戦いにしてしまう。スプーンを運ぶこと、口に入れること、噛むこと、呑みこむこと。ぜんぶが苦痛でたまらない。とっくに生きることをあきらめて余力で活動しているからだを無理やりこじあけて食事をしているのだと思う。だけど、やっぱり彼のつくるものは意地でも食べたい。それが原因で死んだっていいし。それを彼にさとられさえしなければ。

 菩薩のようにおだやかに夕食を終えて、床につく。わだかまる吐き気をなだめながら目をつむる。こみあげてくるものを飲みくだしては、寝返りをうつ。彼のまえではなるだけ元気そうにふるまいたかった。眠りはどこまでも浅くて、悪夢のかけらばかりが記憶に残る。かたわらの彼が安らかに寝息をたてていることだけが救いだった。やがて夜明けが来たのをカーテンからもれる蒼白い光で知る。やっと。この色にほっとしてしまうのは皮肉だ。気がゆるんだらまた気持ちが悪くなってきて、彼を起こさないようにそっと寝室をぬけた。リビングでからだをゆらしながら耐える。おさまったらまた布団に行けばいい。いつもそうしていたし、なんだかんだその上から朝食を入れてもお見送りまでは平然とした顔をしていられるのだ。それなのに。

「沙英、どうした」

 彼の声が背中にふりかかる。そちらを向けば、不安げな顔にぶつかる。やめてよ。

「顔色が……」

 わたしの光が青みを帯びているのは知っているじゃない。黙ってよ。言いかえそうとしたけれど、言葉はなにもでてこなくて、かわりに胃がきゅっと縮んだ。とっさに口元を押さえる。あわてて彼が駆けよってきて、肩に手をまわした。身をあずけて歩くのは楽だけどいたたまれない気分になる。いつもよりトイレが遠く感じた。便器の前でかがまされても、やっぱり食べ物をそれも彼のつくってくれたものを粗末にするのは気がひけた。くちびるを引きむすぶ。一度どこかへ消えた彼が上着をもってきてくれた。肩があたたかい。ゆっくりと背をさすられて結局もどしてしまった。落ちていくかぼちゃの黄色はなんだか汚くみえた。いちばん見られたくないひとに見られた。ぼろぼろ泣きながら何度も嘔吐する。大して食べてもいないくせに。

「苦しいよな。今日は病院いこう。仕事は遅れていけばいいから」

 そんなのいらないよ。どうせ治らないんだから。ごめんね、他人のくせにあなたの時間をこんなに使って。あなたの愛を無駄にして。はやく死んじゃいたいくせに、わたしの手は意識のそとで彼の指を握りしめている。

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