第四話[ふたり並んで]

 駅前の路面店で花束を買った。家内の好きな花も知らないのはふがいないものだ。今更恥じたって遅いが。柔らかい色味のひとつを選ぶと、千円札でお釣りが来る。存外安いものだな。応対してくれた若い女の店員は小さい手にあかぎれを幾つも作っていた。幸の薄そうな細い肩に、他人事ながら心配になる。きちんとした給料をもらっているか、等々。しかしどうにも偽善のようでむず痒い。思考の中に現れた家内が「いい事じゃないですか」と笑って慰めてくれた。

 住み慣れた家は多少がたが来ているものの、おおかたの機能に問題はない。他人どうしであった二人が生活を共にし始めた場所であり、子供三人を一人前になるまで育て上げたマイ・ホームである。愛着は数十年分、アルバムよりも鮮明に思い出が刻まれている。退職し、子供たちが独立し、やっと二人に戻ったところで家内の病気を知った。最近はやりの奇病だ。当人はこちらが戸惑うくらい穏やかに受け入れ、日常の大部分は変わらないままだ。私も仕方なく迫ってくる死を受け入れたことにして、静かに日々を過ごしている。妻の仕事をうまく助けられないのが目下の悩みである。家内は私の自活力を不安視しているようだが、いまだに私を甘やかしている。結果として上達したのは掃除機がけ位なもので、こんなことで生きていけるものか自信がない。

「おかえりなさい」

 前掛けで手を拭きながら家内が出てくる。支えられている実感を得たのはごく最近のことだ。

「あら、珍しいじゃないの。お花なんて」

「こういうのは好きか? 情けないことにお前の好みもはっきりとはわからん」

「何言っているんですか、今まで散々わたしを喜ばせておいて。お花はみんな好きですよ。有難うございます」

 目を細めてそう答えてくれる。ようやく安堵して靴を脱いだ。だが家族を喜ばすようなことはあまりした記憶がない。仕事をするのが一家の主の役目だと強く思い込んでいた。残業に疲れてきつく当たったこともある。それでも毎日私のシャツにアイロンをかけ、食事を欠かさず用意してくれた家内にこたえるすべが見つからない。まごついているうちに絶妙な間合いで茶を淹れて、縁側に誘ってくれる。並んで座ると、おさまりの良さに却って怖くなった。じきに失われる事が決まっているからか。

「借りばかりが膨らんでいく気がするのだが」

「わたしは何にも貸してやしませんよ。好きでやっておりますから」

「そうは言ってもな」

 頭を掻くばかりで、何も解決案は出てこなかった。妻を失った後、どうやって生きていけばいい。この穏やかな暮らしのあとの独居は、想像するだけで胸が空疎になった。日が暮れるまで昔話をして、風呂を浴びて夕飯を食う。敷いてくれた布団は太陽の匂いがした。また干したのか。先に寝息を立て始めた家内の布団からは温かな光が漏れている。身体から発する光の色は、人によって違うのだという。ならばこの、心が落ち着くような柔和な光は性格によるのだろうか。家内に背を向けて、自分の掌を眺めた。光があふれてくることを期待して。もし神様がいるなら、お願いだ。私にも同じように病を下さい。可能ならば同じように、同じ時に散りたい。二人で長い余生を過ごせないならせめて、お互いの魂を交じらせるように終わりを迎えたかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る