第三話[吾子]

「セツさん」

 品よく背筋の伸びた老婦人に声をかける。きれいなシルバーの髪は雲の峰めいたふわふわのパーマがかかっている。ちょうどスーパーから出てきたところで、買い物袋を両腕に下げていた。

「亜希子さん。あなたもお使い?」

「いえ、今日はちょっとおやつを買ったくらいで。実は主人が帰りに買い出ししてくれるんです。だから、一個持ちますね」

 セツさんの手から、荷物をひとつ取る。

「あら、そんなことしなくていいのよ。あなた一人の身体じゃないでしょう」

 気遣ってくれる彼女の袖口から、ささやかな光がこぼれる。ずいぶん大きくなったお腹にふれるわたしの手も、わずかだけれど輝度をもっている。同病なのと、いまいち家事に頼りない夫を持っているという境遇が似ていて、わたしたちは戦友のような間柄になった。家も近いし、買い物に行くお店も一緒。当然の成り行きとして親しさは日ごとに増していた。ゆっくり帰り道をたどりながら、お喋りをする。死を肌に感じているのはお互いさまで、だからこそ忌憚なくものが言えた。今日の夕飯のメニューを相談するのと同じ調子で、自分が消えたあとの家族の心配をする。無駄な感傷はない。ただ現実として遺してしまうもののことを考えられた。

 四つ辻で手を振って別れる。歳は親子よりも離れていて、下手したら祖母と孫の関係になるほど。だけど古くからの友人みたいな気兼ねのなさがあった。平屋の小ぢんまりした一軒家に消えていくセツさんを見送って、わたしもアパートに入る。階段で二階に上がるのも、手すりをしっかりつかんで慎重になる。ひとりになるとつい、わたしの中にあるもう一つの命のことを考えてしまう。

 病気がわかったのは、妊娠を喜んだ直後だった。まだ堕ろせますよ、と言ったお医者さんに悪気はなかったのだろう。原因もわからなければ治る見込みもまるでないなら、なんで赤ちゃんを殺さなくてはいけないのかと憤慨したものだけど。冷静に考えれば、この状況で子どもをつくるのは色々と問題があった。わたしが死んだら夫はシングルファザーになる。まだ若くて、仕事への熱意があって、家事は得意じゃなくて器用でもない。わたしの母も結構な歳だし、ずっと面倒を見てもらえる保証もない。何ならわたしが介護の心配をしなければいけないくらいの時期だ。拒否感は消えなくて、病院を変えた。夫はわたしの判断に任せると言ってくれた。妊娠と病気で二重に具合が悪くなることや、使える薬が少なくて苦しむ可能性もあることを受け入れられるか。考えうる問題点をただ挙げて、静かに決断を待ってくれた。もし産むのなら、自分は最大限に努力するし最後まで父親として育てると真剣な顔で告げられた。心底、この人の血を引く子を産みたいと思った。神様が許してくれるはず、と根拠のない安心感は持っている。大丈夫。わたしのかわりにこの子が夫に寄り添ってくれる。

 念入りに手を洗って、ケトルに水を入れる。ラジオをつけてリビングのソファに沈んだ。家が一番ほっとする。積み重ねてきた日常に守られている感じがして。お湯が沸いたら、お気に入りのマグカップに注ぐ。お茶よりも白湯の方が好きだ。買ってきたお菓子を少しだけお皿によそって休憩にする。最近は家事をかなり夫に投げてしまっているのでだいぶ暇だ。幸い、つわりもひどくならないままだったし、発光症にありがちな体調不良もない。夜になるとあぁ光っているなと思うくらいだ。医者が言うにはかなり遅めの進行らしく、死に支度をするのは尚早だったかもしれないとも思う。とはいえいつどうなるかは予測できないので、近々死ぬ心づもりで生きている。生後すぐに母親を失うであろうわが子のために、ビデオレターやら日記やら手紙やらを用意した。これからもたぶん増えるだろう。おもちゃや本も年齢に合わせていくつも用意している。誕生日には毎年、お母さんからだと言って渡してもらうつもりだ。忘れられないといいけど。まあちょっとくらい遅れたって、二年ぶん一緒にあげたっていい。母親がいらないくらい充実した暮らしになってほしい。

 ほんとうは、そろそろ夕飯の支度をしたかった。疲れて帰ってくる夫のために湯気のたつ食事を用意したかった。叶うなら、彼の夢を支えたかった。たくさんの生徒たち。たくさんの未来。彼が生涯で導く将来は幾つあるのだろう。目をつぶって自分の肌ごしに我が子へ手のひらをふれる。見えないけれど確かに生きているはずの。不思議と命の気配はわかる。信じていると言ってもいい。このお腹には、わたしのものではない魂がある。幸福な眠気にいざなわれて、わたしはソファに横たわる。柔らかな布地にしみついた生活の匂いに包まれて浅い夢ばかり見た。

 はっきりと目覚めたときにはすっかり暗くなっていた。慌てて鎧戸を閉めにまわる。ちらと覗いた夜空には、宵の明星がまたたいていた。星の名前はさほど知らないけれど、星空を眺めるのは好きだった。最近は自分の光が気になってしまって夜に外出することは減ったけれど。街灯りより自分の方が邪魔だ。いっそ満月よりも。いたたまれなさも相まって、つい眠りに逃げてしまう。あるいは部屋の電灯に。

「ただいま」

 ずいぶん早いお帰りじゃない。残業は回避したのだろうか。嵐でも来るのかしら、と呟くのは脳内にとどめて玄関へ。見慣れた紺のスーツより、ずっと鮮やかなものが目に入って戸惑う。腕がいっぱいになるくらいの花束。そのすべてが優しいピンクの薔薇だった。わけをたずねる前に答は告げられた。

「お誕生日おめでとう、亜希子」

「ありがとう……」

 忘れていた。自分の今よりも、残していく人たちのことばかり考えていて。受け取れば甘く清らかな香りがした。少しばかり重たい。命だったもの。いや、今でもまだ生きているもの。あまり深く思索にふけると迷路に入ってしまうね。あとでちゃんと水切りしてあげるから、小さく声をかけて部屋に持ち帰る。

「夕飯、いま作るからな」

 こんなものを抱えて、なのにちゃんと食材も買っていて笑ってしまう。左手で下げたエコバッグがちょっとくたびれた顔をしていた。ざあざあ音を立てて手を洗ったあと、彼はタブレットとにらめっこしながら調理をはじめた。手を出したくなるのを我慢してテレビをつけた。バラエティ番組のくだらない大騒ぎはものを考えなくてすむから楽。ただしうるさいのは嫌いなので音量は絞っておく。不安そうに見えないように気をつけながらキッチンに視線をやる。あぁ、ちょっと板についてきたみたい。その痩せた背中に託したいものがたくさんあって、それは今が限りなく幸せだからで、嬉しいのだか悲しいのだか切ないのだかわからなくなってしまう。涙が勝手に流れてきて声も出さないでぼろぼろ泣いた。ただ確かに、わたしは幸せ者なのだなって、思う。

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