後編

 雨を逃れた二人を出迎えたのは、狂気じみて絢爛な城だった。

 天井から下がるクリスタルのシャンデリアが、壁に掛かった武具や物言わぬ甲冑に金属の暗い輝きを与え、無数の絵画や綴れ織りの壁掛けへ影を落とす。石壁に切られたいくつもの窓にはすべて、錬鉄の窓枠と透き通ったガラスが用いられ、空を覆うどす黒い雲がよく見えた。〈白薔薇〉に先導されて進んでゆく廊下や部屋もまた、雑然と置かれた貴族風の調度の数々や、無秩序に配置された胸像、剥製などによって、不調和で混沌とした、ある種の美を醸し出していた。はたしていったいどれほどの情熱と財産と狂気とがここにつぎ込まれたものか、ガブリエルにはにわかに判じがたく思われた。

 しかし、それらの品々を遥かに圧倒する数と質でこの城を支配しているのは、大小幾千という時計たちだった。壁掛け時計、柱時計、置時計や懐中時計、クロノメーターや天文時計などの機械時計の他にも、非常に凝った装飾を施された日時計や水時計、天球儀やトルクエタム、アストロラーベまで、原始的なものから非常に洗練された機構を備えたものまで、ありとあらゆる時代、ありとあらゆる場所で作られた計時装置がこの城に集っていた。それゆえ城の中はどこへいっても、振り子が振れるひゅん、ひゅんという音、機械人形の叩くカリヨンが紡ぎ出す賑やかな旋律、銅鑼の音、香箱ヴァリエが立てるかすかな音や輪列のささやき、脱進機のこすれ――慣れている者でなければ数日と経たず発狂するであろう無機質で単調な音――に満ち、あたかもある一つの抽象的な音楽のごとく城全体を共鳴させていた。各々無数の部品で形作られた機械たちが、総体として一個の複雑な協同体と化したそのさまは、どこか生命というものの模倣を思わせずにはいられなかった。

 けれどこうした豪華な装飾と珍しい時計の数々も、ガブリエルの気持ちを浮き立てるのにはまったくといって役立たなかった。〈白薔薇〉があれからずっと黙りこくっているからだ。

 かといって、自分の方から言葉をかけるのもガブリエルには躊躇われた。どうすればいいというのだ。仲間たちを失い、死すらも許されない、生きることさえも許されないというその少女に、自分はどんな言葉をかけてやれるというのだ。

 そしてなにより、本当に恥ずべきことだが、ガブリエル自身がまだあの告白を受け入れきれていなかったのであった。この浅ましい裏切り者。嘘つきめ。ガブリエルは心の中で自分を罵った。いっそ〈白薔薇〉がそうしてくれたならばどんなによいかと望んだけれど、白い少女はただ黙々と歩みを進めてゆくのみだった。

 やがて二人は居館の奥、〈白薔薇〉の部屋へと辿り着いた。壁は幾重にも重ね合わせた淡いブルーの絹に覆われ、最初に言っていたあのタピスリーも、燭台の光に照らされて浮かび上がっていた。これまで見てきたきらびやかな装飾品や時計たちも、この部屋にはほとんどなく、いくつかの落ち着いた調度類が置かれているだけである。中でもとりわけ大きなものは天蓋付きの寝台で、銀糸を織り込まれ垂らされたうすぎぬは〈白薔薇〉自身と同じ雪のような白だ。少女は硬い表情のままそこへ腰を下ろした。

「ねえ、〈白薔薇〉」

 ガブリエルがその名を呼んだのは、彼女の隣へ腰かけてからどれくらい経ったときのことか。

「どのくらい……ひとりで?」

「わからないわ」

〈白薔薇〉は首を振った。可笑しいでしょう。ここにはあんなにもたくさんの時計があるというのに。またあの寂しげな笑みを少女が浮かべようとするから、ガブリエルは「だからなんだね」と言葉をつなぐ。その視線は〈白薔薇〉の首にかかった懐中時計へと向けられていた。

 この時計はずっと、この少女の傍らにあったのだ。ドニス・オッフェンバックをクナルフ最高の時計師と呼んだことから考えれば、〈白薔薇〉は長ければ二十年近くも、幾千の時計たちだけを友に過ごしてきたことになる。

 拠り所だったのかもしれない。彼女と共に果てのない長い時を生きてくれるのは、もはや時自体、それそのものだけだったのかもしれない。城じゅうにひしめく時計たちを一つひとつめぐり、鍵を挿し込み、ゼンマイを巻き上げ、磨き、慈しみ、語りかける。それだけが彼女の呪わしき無限の生における、唯一残された意味であったのかもしれない。

 どの推測も間違っているのかもしれないし、あるいはまた、正しいのかもしれなかった。ガブリエルのかろうじて想像できうるのは、もう一人の自分ともいうべきこの時計が壊れたとき、彼女がどれほどの衝撃を受けたかということだけ。ただそれだけ。それ以上のことは。もう。

「わたしは」

〈白薔薇〉が口を開いた。

「わたしは、時計たちをあいしている。憧れているの。時を刻んでゆく、前に向かって進んでゆく。体をふるわせて、いくつもの歯車をきしませて、動いてゆく。――まるで生きているみたいに」

 だから、と少女は続ける。

 わたしはこの子たちをあいしている。

 そして、同じくらい、憎んでいる。

「あなたたちにんげんのことだって、そう」

 嫌になったでしょう。わたしのことが。この、ばけもののことが。

〈白薔薇〉は言った。皮肉げな笑みはもうなかった。代わりに硬貨のような目が二つ、壁にかけられた鏡を見つめていた。ガブリエルもつられて鏡の向こうを覗き込み、そこに人形のような少女を見いだした。不安と疼痛とをちっぽけな瞳に押し込んで、必死にこらえようとする、老いることも死ぬこともなく、それゆえに生きることすらできぬと自嘲する、あどけなく、けれど心だけは老いずに、傷つかずにはいられなかった少女の姿を。

 ああ、なんて。くるおしい。

「〈白薔薇〉」

 私も同じだよ。しろばら。

 背中から抱きしめると、やはり甘い砂糖菓子のにおいがして、ガブリエルの胸は衝き上げられた。長い間息ができなかった。激しい感情はときとして人を殺せるほどの力を持てるのだと、彼女はそのとき初めて知ったのだった。

 たとえこのまま死んでしまったって、かまわないけれど。

「なにが同じだというの」

 ガブリエルの腕の中で〈白薔薇〉がつぶやいた。語尾は震えていた。

「〈白薔薇〉」

 穏やかに呼びかけるガブリエルを、〈白薔薇〉はキッと振り返る。その目はしかし刹那、おののいたような色を浮かべてそこに立ち尽くした。彼女を迎えるガブリエルの眼差しが、あまりにも優しかったからかもしれない。

「〈白薔薇〉」

「やめて!」

 ガブリエルの腕と眼差しを振り払い、身をよじって、〈白薔薇〉は抱擁から抜け出した。壁際まで逃げるように走り、振り向いた少女の目は涙で濡れていた。胸元で金の時計が揺れる。

「わたしと貴女は違う。貴女に、わたしのことがわかるはずがない。そうよ。わかるはずなんてないの。なのに、なのに貴女はどうしてそんなことを」

 同じだよ。

 ガブリエルは落ち着いた声で〈白薔薇〉を遮った。

「私も同じなんだよ。いとおしくて、にくらしいよ。図面を引いているときも、部品を削り出すときも、磨いて、螺子ビスを留めて、組み立てて――こんなものが無ければ、こんなものさえ無くなってしまえば、私が父さんを憎まなくてすむんだって、自分の力や才能に絶望しなくてすむんだって思うとね、ときどき、全部壊してしまいたくなる。ぐちゃぐちゃにして、全部なかったことにしたくなるよ。だけどさ、だけどやっぱり、私は好きなんだよ。どうしようもなく、好きなんだよ」

「そんなこと――それと、私のことは違う」

〈白薔薇〉は必死で首を振る。

「そうかな」

 ガブリエルは立ち上がり、〈白薔薇〉のもとへ歩き出した。ガブリエルが近づくのを見て、少女はおびえたような表情を浮かべたが、ガブリエルは構わずに微笑みかけた。しろばら。わかったんだよ、しろばら。

「嫉妬したって、憎んだっていいんだよ。それも私で、それもあなたなんだよ。〈白薔薇〉。苦しければ泣いたっていい。腹を立てれば怒ったっていいんだ」

 だってね、しろばら。あなたが泣いたとき、そうしていま、そんなふうに怒ったとき、恨んだとき、憎んだとき、私はそれをいとおしいと思ったんだよ。しろばら。美しいものだけじゃないんだよ。あなたの中の醜いものだって、全部、全部いとおしかったんだよ。くるしいくらいに、あなただったんだよ。

「……でも、だけどわたしと貴女は違う。あなたはにんげんで、わたしはそうじゃない。わたしは、生きることも死ぬことも、なにひとつできないんだから。わたしの時は、永遠に止まったままなんだから」

「わかってないね、あなたは」

「なにが――」

 続く言葉は抱擁によって遮られた。きつく、熱い、抱擁。細い首、薄くやわらかな背、先ほど暴れたせいで露になった白い肩口。すべてを。ガブリエルは〈白薔薇〉を壁と自分の体とに押しつけ、荒々しく、すべてを奪おうとするかのような、飢えた抱擁をする。〈白薔薇〉の目が戸惑いと驚きを映して揺れる。

「……痛い。いたいわ、ガブリエル。ねえ」

 あなたの時計は時を刻んでいるでしょう、しろばら。こんなにも温かいあなたは、たしかに時を刻んでいるでしょう。生きているでしょう。終わりがなくたって、始まりがなくたって、いまあなたは私の腕の中で、たしかに生きているでしょう。しろばら。

 出会ったばかりの少女への想いが自らの中でこれほど大きくなっていることに、ガブリエルは驚きながらも、不思議と納得をしていた。運命があるならば、しろばら。あなたがきっと私の運命なのだ。

 ガブリエルはそこで腕の力を緩め、少女と向き直った。ごめんねしろばら。〈白薔薇〉は泣いてこそいなかったが、息をかすかに荒げて、頬を上気させていた。すう、と息をつく。彼女は伏せていた目をゆっくりと上げ、何かを乞うようにガブリエルを見つめた。

「いいんだよ、〈白薔薇〉。あなたが誰であっても、何であっても」

 私はあなたをあいするよ。

 束の間の沈黙があった。

 どちらともなく互いの指が互いの背中へと伸ばされ、せがむように回された。わたしもよ、ガブリエル。

 そのとき、二人にとってお互いだけがこの世界のすべてだった。ありとあらゆる音は雑音となり、ありとあらゆる色彩が色褪せて遠退いた。互いのすべてを差し出して互いのすべてを受け取りたいと、ただそのことだけが確固とした欲望と衝動として存在していた。窓の向こうで雷が閃き、一瞬、室内がはっきりと照らし出された。

 稲光の中でガブリエルが鏡の中に見た自分自身の姿は、この上なく幸福そうで、そして、淫靡だった。鐘の音が響いていた。


 ガブリエルが城を訪れてから三日が過ぎた。その間、二人の少女の傍らにはいつも時計があった。昼は城じゅうの時計を巡り歩き、夜は鐘楼の鐘を聞きながらひとつの寝台で眠る。ときに口論になるまで交わされる会話には、いつも必ずといっていいほど時計と暦と時間のことが含まれていたし、書庫で背中合わせに読み耽る本もまた、時計の歴史や製作、失われた過去の技術にまつわるものであった。

〈白薔薇〉の時計に関する知識と眼力はしばしば、当代一流の時計師を父に持ち、自身時計師たるガブリエルさえもしのいだ。いや、長く外の情報を手にしていないということさえなければ――機械時計の技術はここ数十年、過去に類を見ない早さで進歩した――その造詣の深さはガブリエルなど及びもつかないものであったに違いない。特に、時計という一個の機械を越え、こと時間という概念そのものについてとなると、少女の言葉はなるほど永遠を生きる者らしく深遠で、示唆と思索に富んだものになりえた。二人は互いの欠如を補うようにして、時を忘れて語り合った。

 しかし何にもましてガブリエルを驚かせたのは、彼女の一族がその終わりなき命を大いに活用したらしき、時計にまつわる無数にして無類の蒐集物であった。時代を越え海を越え、世界各地から集められてきたそのどれもが、信じがたいほど貴重な一級品で、中には時計と人の歴史の一翼を担った品も含まれていた。たとえば砂漠の王朝の趨勢を占った日時計。たとえば錆び朽ちた古の天球儀、その歯車。遥か東方の国で用いられたという朱塗りの漏刻や、ガブリエルも存在の真偽を怪しんでいたいわゆるどこそこの卵、シルグニアの海軍を世界一に押し上げたあの正確無比なるマリンクロノメーターなどが、精巧な模造品も加えて、城には幾百と集められているのだった。その歴史的・工芸的貴重さ、蒐集に注がれた情熱は、他のどんな価値とでも引き換えられるものではなかった。

 四日目の朝だった。時計師という職種に限らず、とかく職人の朝は早い。ガブリエルは寝起きの悪い〈白薔薇〉を起こさぬようそっと寝台から抜け出ると、しばし胎児のように丸くなった少女の横顔を見つめた後で、階下の調理場へと足を向けた。元々ガブリエルにとっては、工房の販路拡大のためのいくつかの町の下見も兼ねた今回の旅である。旅程にはある程度の余裕を作っておいたし、長居して何か困るということはなかった。むしろ時計師としては、ここに滞在していたほうが、よほどよい経験が積めるに違いない。窓の向こうの薄青い空を見てガブリエルは自分に言い聞かせたが、そこに大いなる欺瞞が含まれていることもまた、彼女はよく諒解していた。すべては〈白薔薇〉のためだ。しろばら。少女はこの三日でまたさらに、ガブリエルにとってかけがえのない存在になっていた。

 なんにせよ、今日こそは問わねばなるまい。ガブリエルは決意をする。それは曇天のような重い気分を彼女にもたらしたが、しかしいくら先伸ばしにしたとしても、限界は必ず、そして遠からず訪れるのだ。何よりガブリエルには、〈白薔薇〉自身がそれを望んでいるような気がしてならなかった。

 三度目となる冷たい調理場の空気に身を震わせ、ガブリエルは腕をまくった。城にある服でガブリエルに合うのは男物ばかりだったため、彼女の姿はますます青年めいて見えた。

「もう。食事はいらないと何度も言っているでしょう」

 ガラス窓から射し込む朝の陽射しを背にして、ネグリジェを着た少女が口を尖らせた。曰く人ではないのだからわざわざ食事を摂る必要はないのだという〈白薔薇〉である。

「まあいいじゃない。それに、どうせたいしたものでもないし」

 これまで何度もくり返された問答だった。皿を並べ終わったガブリエルは肩をすくめて食卓につく。広間の卓は十数人で会食できるような大きなものだったが、使っているのは端の部分だけだ。並べられたまばゆい銀食器――城にはどうもこうした大仰な食器しか置いていないらしい――に載せられているのも、食卓や食器と比べればずいぶんと貧相な料理である。というのも、〈白薔薇〉の言うような理由で城にはまともな食料庫がなく、あっても何種類かの塩漬けがあるくらい、材料の大半はガブリエルがあの行商人から買った干し肉や堅パン、チーズなどに頼る他なかったからである。

「そういう癖に、調理場はしっかりしてるし、食卓はこんなに大きいし」

 それにこっちのほうはずいぶんと溜め込んでるみたいだけど? 葡萄酒がなみなみと注がれた杯を示して、ガブリエルはおどけた調子で言ったが、〈白薔薇〉は相変わらずの仏頂面である。

「どうしたの。座らないの?」

「だって、なくなってしまう」

 ここにいたって〈白薔薇〉の表情はほとんど怒っているように見えた。

「食べる物がなくなってしまえば、貴女は、ここを出ていかねばならないでしょう。そんなのわたし、いやよ」

 ガブリエルにとってそれは、思いがけない台詞ではなかった。毎回の食事のたびに次からはいらないと断る少女と、次第に減ってゆく食料を見ていればおのずと察せることである。ふう、と息を吐いて、彼女は改めてまっすぐに〈白薔薇〉を見つめた。

「ねえ〈白薔薇〉。これを食べたら、連れて行ってくれないかな。鐘楼に」

 ちらりとだけ驚いたような顔をしたものの、少女はすぐにすべてを理解したようで、その表情は自嘲混じりの寂しげな微笑みへととって代わられた。そうよね。小さくかぶりを振る。

「気づいてしまう……、わよね」

 ガブリエルは無言のままで、テーブルに載せられた皿に目を落とした。普段はうとましい大袈裟な食器たちの、浮き世めいた輝きが、いまばかりはなんとなくありがたかった。

 気づきたくなどなかった。わかりたくはなかった。けれどこのまま嘘を突き通すには、ガブリエルの中の少女は大きくなりすぎていたのだ。夢の中ではなく、美しく作られた虚構の中などではなく、醜くて苦しい現実の中でもあなたと会いたい。しろばら。そのくせこうやって目を合わせることができないのは、まさしく自分のちっぽけさを表しているようであったけれど。

 ふいに、かちゃんと音がしてガブリエルは顔を上げた。おいしい。席に座り、スプーンを口に運んだ〈白薔薇〉が泣き笑いの顔をしていた。いままででいちばんね、と。


 北向きのためか廊下はまだ肌寒い。この三日ですっかり覚えてしまった城の構造を思い浮かべながら、ガブリエルは〈白薔薇〉とともに鐘楼へ向かう廊下を歩いていた。

「最初におかしいと思ったのはいつだったの? ここに入ったとき?」 

〈白薔薇〉の言葉に、ガブリエルが黙って首を振ると、じゃあ、と少女は考え込む。

「そうすると……花、かしら?」

 ガブリエルはふたたび首を振った。たしかにあの枯れた花や生け垣にも違和感を覚えたけれど、一番最初となれば、そうではない。

「門よ」

「門」

「うん。これだけの年月海からの風を浴びていて、とっくに錆びて、腐ってしまっておかしくないのに――現に外側は朽ちかけていたし――でも、あの門はそうじゃなかった。内側には錆ひとつなかった。だから、おかしいと思ったの」

 水をやる者がいなくなってから長い月日が経っているはずなのに、土に還ることのない枯れた花。生け垣。錆びない門。埃ひとつ積もっていない調度たち。燃え続ける蝋燭。腐らない塩漬け。たとえ〈白薔薇〉がどんなに努力しようと、一人の少女の世話や手入れが、それらすべてまで行き届くとは考えられない。そこに加えて、毎日きっかり同じ時刻に降り出す雨と、夜ごと鳴り響く、どうやら郭の中にしか聞こえないらしき鐘の音。さらに〈白薔薇〉がどんな存在であるのかまで考慮に入れたなら、答えはおのずと明らかだろう。

 はあ。「じゃあ、本当に、最初からってことなのね」〈白薔薇〉は大きくため息をついた。顔には笑いとも呆れともつかない苦々しい表情が浮かんでいて、ガブリエルの笑みを誘う。「ごめんなさい」

「貴女、それが反省した顔だと思っているなら一度鏡を見てみることをお勧めするわ」

〈白薔薇〉は今度ははっきりと呆れ顔になって言い、ゆるゆるとかぶりを振って、「まったく」と唇を尖らせた。

「それは、すぐに気づかれるだろうってことはわかっていたわよ。だけど、それにしたって、気づいているならいるで早く言ってくれれば、こんなに気を揉むこともなかったのに……」

 ガブリエルは自分の口元がほころんでいるのを意識しながらごめんなさいとくり返した。〈白薔薇〉は誠意がないと鼻を鳴らしたが、言葉とは裏腹にその口元にもまた、微笑が浮かんでいた。日が高くなってきたせいか、廊下は先ほどより温かくなってきていた。

 やがて現れた両開きの扉を通って、二人は鐘楼の中へと足を踏み入れた。

 まずガブリエルの目を引いたのは、床一面に描かれた精緻なモザイク画だった。それはあちこちに宝石をちりばめた優美で芸術的な天球図で、その周囲や内部、加えて壁には、一角獣や人魚シレーヌドラコンといった幾種類もの架空の生物のモザイク画が踊っていた。それらは頭上から何本となく射し込む日の光と相まって、その場に独特の厳粛さを醸し出していた。まるで聖堂だ。いや、〈白薔薇〉の一族にとってはたしかにそうであったのかもしれない。螺旋を描いて続く石の階段を昇りながら、ガブリエルはそんなことを思った。

「皆は最後に、城とわたしに魔法をかけたの。それがあの鐘よ。あの鐘の音が毎夜鳴り続ける限り、そしてわたしがここを離れない限り、郭の中は永遠に同じ一日を巡り続ける。わたしと、そしてこの子を除いて」

〈白薔薇〉は懐中時計を取り出してそう言った。永遠にくり返す同じ一日と、決して尽きることなき命。世界がまだ時を刻み続けているということを、時がまだ流れ続けているということを、少女が知る手だては唯一その時計のみであったのだ。

「時計はどうやって送ったの?」

 城の外に出ることができないはずの少女が、どうやってドニスの工房に時計を送ることができたのだろうか。尋ねたかった質問をガブリエルがすると、そうね、と傍らの〈白薔薇〉は微笑んだ。

「私にだってまだ少しは、友人が残っていた。ということかもしれないわね」

 階段を昇りながら〈白薔薇〉は壁のモザイク画に目をやった。青い背景に描かれた、金の髪の乙女。

「まさか」

「ふふん。さあ、どうかしらね」

 含み笑いをして走り出す〈白薔薇〉。一瞬遅れて階段を駆け上がった先で、ガブリエルは思わず立ち止まり、感嘆のため息をついた。

「着いたわよ、ガブリエル」

 鐘楼の最上階。三面に開いたその空間を微風が吹き抜ける。ガブリエルは返事すらままならずに、部屋の中心に鎮座する巨大な物体を見つめた。それはこの城の名の由来であり、一人の少女を永劫の一日へと縛りつける枷――途方もなく大きな真鍮の鐘であった。

 輪郭は一般的な鐘のそれと変わりない。だが、これほど巨大な金属塊を継ぎ目ひとつなく鋳る技術も、ましてその表面にこれほど細密で複雑な幾何学模様を施す技術も、この地上には存在しない。あるいはこれは一切の始まりから、すなわち創世のときからこの形のままここにあって、悠久の永きに渡り地上の営みを見下ろし続けてきたものなのではないか。見た者にそんな妄想めいた思いを抱かせるほど、それは人智を越えた物体、この世ならぬものであった。

「魔法というには、ずいぶんと螺子が多いでしょう?」

「……オルフィレウスの、歯車」

 ガブリエルの目を奪ったのは鐘そのものだけではなかった。正面の壁一面と、鐘を吊り下げた天井とを埋め尽くすのは、本体と同じく真鍮製の、大小幾万と知れぬ歯車の群。余韻を引いて振れる巨大な振り子を調速機とするその時計には、動力源がまるで見当たらず、すなわちそれは、この歯車たちが一切の外力無しに稼働し続けているということを示唆していた。回り続ける硬貨、流れ続ける水、無限の機関。ありとあらゆる理屈を越えて燃え続ける、螺子と歯車、金属とオイルとで作られた永遠の炎。それが〈白薔薇〉の一族が彼女に遺した魔法――祝福であり呪いの正体であるのだった。

「駄目よ、ガブリエル」

「……なにが?」

「共にゆくことはできないわ」

 貴女の考えていることなんて、とうにお見通しなんだから。固く握り締められたガブリエルの拳に片手で触れて、〈白薔薇〉が言った。

「どうして?」

 互いに視線を鐘へと向けたまま、二人は言葉を交わす。

「これが止まれば、あなたは自由なんだよ。ここから出ることができる」

 だから。一緒に行こう、しろばら。

「駄目。行けないわ」けれど、少女は首を振るだけだった。その声には決然とした響きがあって、ガブリエルをたじろがせた。「わたしはここで生きる。そう、決めたのよ」

「でも!」

 ガブリエルは堪えきれず〈白薔薇〉を振り向いた。

 息が、止まった。

 重々しく風を切る振り子の音と、はるか遠く、岸壁に砕け散る波の音。吹き抜けてゆく潮風のささやき。ちょうど昇りかけの太陽があまねく地上を翳らせて、世界はひととき、ガラス細工に閉じ込められた。

 しろばら。

 一輪の花。

 凍りついた世界の真中で、少女は笑っていた。白い、薔薇のような笑顔だった。

「聞いて、ガブリエル。わたしはここで生きる。そうするほかにないのよ。言ったでしょう? わたしにはね、もうここでしか生きることができないの。わたしたちは、影ではなくなってしまったから。わたしたちのような、まやかしや、幻や夢の中の、闇夜の生き物たちは、これからはもうおとぎ話の中でだけ、語り継がれてゆくべきなのよ」

 けれど。〈白薔薇〉はそこで言葉を切った。一歩近づき、両手でガブリエルの手をとる。

 ガブリエルの見つめる先で、〈白薔薇〉のか細い指が、固く握りしめられた彼女の拳をほどいてゆく。人差し指から順にひとつひとつ、丹念に、絡まった糸をときほぐすようにして。やがて開かれた手を、〈白薔薇〉が自らの胸へそっと押し当てたとき、ガブリエルはいつの間にか自分が、彼女の前にひざまずいていることに気づいた。手のひらを伝って、とくり、とくりと、心臓の鼓動が伝わってきた。

 聞こえるでしょう。〈白薔薇〉は笑う。忘れたかしら。教えてくれたのは貴女なのに。ねえ、ガブリエル。

「貴女に出会えたから、わたしは生きられる。これから、ずっと。生きることができる。たとえ終わりがなくても、始まりがなくても、この鐘が、永遠にわたしをこの一日の中に閉じ込め続けるのだとしても、わたしの時計は変わらずに針を進める。この心臓は動き続ける。だから、ガブリエル。貴女はとこしえに、わたしの、たったひとりの、」

 ――いとしいオルロージェ。

 あれはいつのことだっただろうね、しろばら。いまではもう、ずいぶん昔の、はるかに遠い昔のことのような気がするけれど。私はあなたをこの腕に抱いて、そしてあなたは私の胸で泣いた。声を立てずに、たった一人取り残されるその孤独を恐れ、あなたは泣いたね。しろばら。けれどお願い。今度だけは、私があなたにそうすることを許して。あなたの小さな体を抱きしめて、私とあなたのために泣いてしまう、私を許して。しろばら。

 あなたは孤城の一輪花。

 あやすように抱いたガブリエルの頬を、髪を、少女はたおやかな指で、くり返しなぞった。いつくしむように、いとおしむように。そのすべての輪郭を、髪の感触を、体温を、においを、記憶の中に留めようとでもするように。

 長い時が流れた。幸福なひとときだった。高い高い石の塔の上で、二人の少女はそのひととき、この地上の誰よりも幸福だった。

「ガブリエル」

 どれくらいそうしていたのだろう。ふいにふわりと、花の香りが鼻先をかすめて、ガブリエルは目を上げた。しろばら。青い瞳がいとおしかった。風にさざめく白い髪が、その微笑が、触れる体温が、ささやく唇が、少女を作る何もかもが、少女の生きるこの世界の何もかもがいとおしかった。ガブリエルはまぶしそうに目を細めた。

 南の空を漆黒の雲が覆うのが見えた。

 そう、たとえどれほど幸福なひとときでも、いずれ終わりは訪れる。

 けれど。それが生きるということなのだから。あなたの望んだことなのだから。そう思えば、それでさえも、私の幸福のひとかけら。

「なあに、しろばら」

 ガブリエルは涙を拭い、笑いかけた。

「あいしているわ」

 その唇に薔薇の花びらがひとひら、触れた。

 そのとき南の空に浮かんだ黒雲を、一条の光芒が貫いたと思ったのは、ああ果たして、現のことであったのか。


 人と時計の歴史は長い。しかしその長い歴史のどこを紐解いたとしても、かつてクナルフの地に生きて、そして死んだ、一人の時計師の名を知ることはできないだろう。

 けれどもし、あなたが本当にそれを知りたいと望むのならば。地の涯て、潮風の吹く岬に立つ、ある城を訪れるといい。

 そこには数えきれないほどの時計たちに囲まれて、一人の少女が生きている。

 高い鐘楼の上で、あなたがもしもこう尋ねたならば、彼女はきっとその名を教えてくれるだろう。


 ――あなたのあいした人の名は。

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