永遠の午に咲いた薔薇

阿部登龍

前編

 時計が止まるとき、時間は生き返る。  ウィリアム・フォークナー



 ――あなたのあいした花の名は。


 街道をゆく一台の幌馬車。この先の村で売りさばく品なのだろう。荷台には酒樽をはじめとして、干し肉や野菜、小麦などの食料品、加えて毛皮や織物など、間近に迫る冬に備えた雑多な品々が積まれていた。それらが放つとりどりの香りが陽射しに温もる幌の中で溶け合っている。

 荷台に置かれた酒樽のひとつにもたれかかっているのは少女だった。短く切った黒髪とまっすぐな眼差しが印象深く、分厚い革ブーツと吊りズボン、麻のシャツに粗作りな汚れた職人着、大きな荷物など、一見するとまるで青年だ。少女らしさを伝えるのは、華奢な首や、わずかにふくらんだ胸元くらいであろう。

「しっかし、わざわざこんな辺鄙なとこまでやって来るとは、嬢ちゃんも物好きだなあ」

 ふと、馭者台で馬を操っていた四十がらみの男が振り返った。

「俺が知るかぎり、ここらにゃあんたが見て面白いもんなぞありゃせんと思うんだが」

「まあ……そうかもしれませんね」

 強い訛りの入った男の口調は打ち解けていたが、対する少女の反応は煮えきらず淡白であった。北の町で道行きを共にすることになって数日、こうして旅を続けてきても、彼女の頑なな態度は変わることがなかった。少女ゆえの警戒というのであれば、当初男が勘違いしていたものをわざわざ訂正することもなかっただろう。

「うーん、嫌われちまったか」行商人の男は前に向き直ると、いたって快活に笑った。

「……そういうわけではないです」

 向き合っているわけではないのに、少女はいたたまれなくなったように、視線を逸らした。生真面目な顔がかすかに曇る。

「ははは、すまんな。冗談さ。だがあんたも、そんなに肩肘張ってたら疲れちまうんじゃねえか?」小声であったからか、あえて聞かないふりをしたか、男は前を向いたままで言う。「そうだ。いい葡萄酒があるんだが、飲むかい?」

 後ろ手に革袋を差し出され、少女は驚いた顔で男を振り返る。

 結局は遠慮して断ったが、

「あの――」

「どうかしたか」

 目線を落とし、わずかに逡巡してから、少女は結局首を振るにとどめた。

「いや、なんでもありません。ごめんなさい」

「そうか。ま、気にするこたあないさ。あんたにも色々事情があるんだろう。こっちこそ、つまらんことを言っちまってすまねえな」

「いえ、私の方こそ、本当に……」

 それきり父娘のような歳の二人の会話は尻切れに途切れ、二三の事務的な言葉以外に長く交わされることはなかった。

 馬車は夕刻過ぎに目的の村へと到着した。荷台を降りたときに男がかけた「達者でな」という言葉に、少女がふたたび俯いて謝り、二人は別れた。


 その古城が築かれたのがいつの時代のことか、はっきりした答えはない。城はクナルフの南西、ある岬の突端に、三方を切り立った崖に囲まれて立っている。それゆえ城へ至る唯一の道は、両側から森に食いつくされながらかろうじて名残を留める、申し訳程度の獣道だけであった。固く閉ざされたくろがねの門扉、砂色に褪せた郭、〈鐘の城シャトー・クロシュ〉の呼び名の由来である高く聳えた鐘楼――特徴的な建築様式の荘厳な佇まいは、革命の以前、遥かな昔を思わせるのに十分だった。

 はたしていったい誰が、いつ、なにゆえこのような僻地に城を築いたのか。いまやそれを知るのは岩礁に砕け散る波と海鳥ばかり。鐘の音の絶えて久しい〈鐘の城〉は、あとはこのまま何事もなく、ゆるやかな時の流れの内に風化してゆくものと思われていた。

 つい一年前までは。

 少女の父、ドニス・オッフェンバックの工房にその懐中時計が届いたのは一年前のことであった。エナメルの文字盤、細身の数字、ア・ポム針。飾り立てないシンプルな文字盤に比して、美しい彫金の施された金のケースには惜しげなく宝石が用いられており、目敏い誰かの手に奪われずここまで届いたことが、奇跡と思われる逸品だった。しかし、オッフェンバック工房の親方時計師メートル・オルロージェドニスの、時計師としての目にだけは、その時計の真価が別にあることがわかっていた。きらびやかな装飾と裏蓋の奥に秘された、精緻で、巧妙で、ユーモアに満ちた内部機構。時計製作の技術においては大国シルグニアと並ぶクナルフの、当代最高の時計師と名高いドニスですら、兜に指をかけるほど、それはある種この世ならぬ作品であったのだ。

 壊れている、という一点を除けば。

 整然と協同する歯車、脱進機エシャップマン、テンプ、加えていくつもの驚くべき複雑機構コンプリケーション。そこに現れた極々微細な歪みを、ドニスはほとんど霊感というべきものによって見いだしたのだった。

 壊れた時計とともに届けられたのは、これまた華美な、貴石と細工、技巧を凝らした――ただし前者のものと比べれば見劣りがし、また、壊れてはいない――美しい懐中時計で、同封された手紙にはそれを一つ目の時計の修理代に充てるようにと書かれていた。手紙には加えて、時計の不具合についての見解が丁寧な筆跡で綴られており、送り主もまたかなりの目利きであろうことが窺えた。

 ドニスはほとんど二つ返事で依頼を受けた。もちろん金銭のことでいえば、王も認める彼の工房には既にかなりの修理と新作の注文とが溜まっており、実際には新たな仕事を受注する余裕も理由もなかった。工房の経営役などは、余計な仕事を背負い込んで他の依頼に支障が出ては困ると、露骨に眉をしかめたものである。しかしそれでも、尽きることのない仕事の合間を縫い、寝食を削ってまで彼を修理作業に没頭させたのは、その一流の時計師としての誇りと探求心であったのだろう。

 そうして一年。ドニスは工房を抜け出せない自分に代わって、将来を嘱望される時計師である自らの娘ガブリエルを、依頼主の下へ送り出したのだった。

 行き先は〈鐘の城〉。とうの昔に打ち捨てられたはずの古城へ向かう彼女の手には、何者とも知れぬ差出人による依頼書とともに、ふたたび正しい時を取り戻したあの懐中時計があった。

 日の出前に村を発ち、東からじりじりと高度を上げる太陽を横目に見つつ数時間。とうとう森を抜けたガブリエルの前に現れたのは、この頃では稀に見る偉容の古城。砂色の郭も、それを越えて頭を覗かせた鐘楼も、赤錆びたくろがねの門扉も、どれも噂に聞いていた通りの姿だった。異なるのは唯一、門が開かれていることだけか。彼女は背中の荷物を背負い直し、潮風になびく髪を押さえつつ、馬一頭分ほど開いた門扉へ歩き出した。


 郭の中では、かつての栄華の名残たる、涸れた噴水や朽ちた石像、萎れた花々、生け垣などが、流れる時に取り残されたようなうらびれた風情で佇んでいた。いまは荒れているとはいえ、往時は砦のような厳めしい外観にそぐわぬ、絢爛な庭園であったのだろう。郭の内に城を築いたというより、城の周囲に郭をめぐらしたといった趣。敵の襲来よりも、城の内部のものが失われてしまうことを恐れたかのような、何かを隠そうとでもしているかのような印象を受ける。彫像たちの合間に伸びる道には玉砂利が敷き詰められており、足を踏み出すたびにざりざりと、空々しい音を郭に反響させた。

 庭の向こうの石造りの居館は鐘楼と一体になっていた。見れば見るほどに威風堂々たる姿である。ここからだと、鐘楼の鐘はめまいのするほど頭上にあり、長い間潮風に耐えてきた石壁は、ずっしりとこちらにのしかかってくるようだった。小さな領主の城などとはまるきり違う、途方もない年月を越えてきた石組みの風格は、ちっぽけなガブリエルひとりを圧倒して余りあった。

「なあに、子どもじゃない」

 唐突にかけられた鈴のような声。ガブリエルは驚いて声の主を顧みた。彼女のすぐ後ろ、玉砂利の道に沿うようにして並んだ彫像のひとつ、楽器を携えた乙女像の台座に、美しい少女が腰かけていた。

 白い。白かった。身にまとう絹地に銀糸のドレス。風にはためく袖と裾から伸びるすらりとした手足、開いた襟から覗く胸元、華奢な首、小作りな面。肩を流れる長く細い髪――どれもが見事なまでの白であった。光を透かす氷細工のようなその姿の中で、淡く色づいた唇と空を映したように青い目だけがさやかに、さしずめ象嵌された宝石のごとく際立っていた。

 二人の少女は互いに見つめあった。白い髪の一方は興味深げに、黒い髪の他方は、降り注ぐ陽光のまぶしさにひととき言語を失したかのように。そうしてしばし沈黙のままに時が流れた。

 先に目を逸らしたのはガブリエルだった。なぜだか急に、自分の服のみすぼらしさが気になり始めたからだ。

 喉が乾いていた。んん、とひとつ咳き込んでから尋ねる。

「……あなたは?」

「わたしは〈白薔薇〉。貴女は、わたしの城になんの用かしら?」

「あなたの、城?」

 戸惑うガブリエルに、〈白薔薇〉と名乗った少女はこくりと頷いて微笑した。

「そうよ。わたしがこの城のあるじ。この庭も、この像も、あすこの噴水も、鐘楼も、愛らしい時計たちも、やわらかい寝台も、壁のタピスリーもわたしだけのもの。そうそう、タピスリーといえば、それはあの女将軍が騎士たちを率いて、東方の蛮族を打ち破ったときの姿を描いたものでね。とっても綺麗だから、貴女もきっと見てゆくといいわ。ああでもやっぱり、いっとう素晴らしいのは時計たちね。ああ、ほんとうに。わたしの可愛いオルロージュ――」

 夢見るように滔々と語り続けていた少女がはたと言葉を止めた。ガブリエルを見つめ、細い眉をきゅうっとつづめる。むっとした表情のまま、彼女は心なしか顎を反らす。

「……なあに。なにか、おかしくて?」

「おかしくはないけど、でも、お父様やお母様は? この辺りに住んでいるんだとしたって、勝手にこんなところまで出かけたら心配するだろうし、それに、城の人にだって怒られるでしょう?」

 ガブリエルの口調がまるで幼い妹に向けるそれとなったのも無理はない。少女の見た目はどう見てもせいぜい彼女より四つ、あるいはもっと下であったから。〈白薔薇ローズ・ブランシュ〉なんて名前を自分につけて、古城のあるじを名乗るだなんて――きっと姫君にでもなったつもりでいるのだろう――いかにも童話や空想めいた、子供らしい遊びではないか。

 しかし少女には、彼女のその態度がいたく気に障ったらしい。眉間の皺はますます深くなり、頬はほのかに紅潮し、花弁のような唇は強く引き結ばれた。それでも反論する口調は高ぶることがなく、年不相応な自制心の見えるものだった。

「この城は間違いなくわたしのものよ。わたし以外のものであるはずがない。それに、父も母もわたしにははじめからいないわ。だってそうでしょう? 薔薇そうびに母や父がいて? それとも、貴女は、わたしが嘘をついているとでも?」

 ガブリエルは目の前の少女に、わずかならず気圧されていた。なんの根拠を示すでもない。だが、少女は断固とした確信をもって自らの正当を主張する。細い体と青い目にみなぎるのは傷つけられた誇りに対する静かな怒り。それはまるで高貴な育ちの猫のよう――そう、あるいは、かような城に住まう、まことの姫のよう。

 若い時計師の見守る先で、先ほどからぶらぶらと揺れていた少女の両脚がぴたりと止まり、そしてまた弛緩した。はあ、と彼女はため息をついて、石の乙女に寄りかかった。

「ごめんなさい、あなたに怒っても仕方ないのよね。貴女が信じられないなら、わたしがなにを言ったって無駄なんだもの。でもね、言い訳させて。今日は、クナルフ最高の時計師様が訪われる予定なの。だからわたし、我慢しきれなくって、朝からずうっとここで待っていたのだけど、午を過ぎてもなかなか来られないものだから、すこし、いらいらしてしまっていたのよ。ごめんなさい」

 少女の言葉にガブリエルは面食らった。あっさりと彼女に頭を下げる態度は、いとけない外見に反して奇妙に大人びて、いっそ不気味ですらあった。

 ガブリエルは自分でもいぶかしんでいたものの、尋ねずにはいられなかった。

「……じゃあ、まさか本当に、あなたがうちの工房に、あのトゥールビヨンを送ったっていうの?」

 効果はてきめんだった。「あら」少女は兎のように背筋を伸ばし、目を丸く瞠った。輝いた青い瞳には、今まで彼女がガブリエルに見せてきたものとはまったく違う、はっきりとした喜びと驚きの感情があり、それが彼女を皮肉にも、初めて外見相応の少女らしく見せていた。

「貴女、じゃあ、もしかして、貴女が? ああ、ごめんなさい。失礼してしまったわ。こんな場所からなんて」

 少女は台座から慌てて飛び下り、身だしなみを確認すると、たじろぐガブリエルにも構わずすたすたと歩み寄ってきた。靴は履いていなかった。

「ああ、でも、オッフェンバック様は男の方だと聞いているわ。貴女……? でもその髪は……じゃあ」

「待って。ちょっと、落ち着いてよ」

 ガブリエルは馬をなだめるように、両手を少女に向ける。

「私はガブリエル。ドニス・オッフェンバックは、私の父よ。父は忙しいから、私が代わりに届けにきたの」

「じゃあ!」ガブリエルが終わりまで言う前に、少女は小さく叫んだ。はっと口を手で塞ぎ不躾を恥じらう。かすかに震える手を胸にあて、ひとつ息を整えると、少女は期待と不安をない交ぜにした目でガブリエルを見つめた。「じゃあ……オッフェンバック様は、あの子を直してくれたのね?」

 いつの間にかすぐそばにあった少女の顔を、ガブリエルはどうにもまともに見ることができなかった。あまりにもまぶしい。「そう。直ったよ」彼女は少女から目を逸らしたまま頷き、「ちょっと待ってて」と背中の荷物を下ろした。

 ああよかった。傍らで息をつく少女にちらりと視線をやってから、ガブリエルは背負い袋の上にかがみ込み、奥から粗末な木箱を取り出した。蓋を開けば、やわらかいボロ布と油紙とを九重に重ねた、小さな包みが現れる。耐衝撃装置パルシュットが組み込まれているとはいえ、やはり時計にとって衝撃と水分は天敵であり、また、一目で値打ちものとわかる時計を人目に晒すわけにもいかなかった。そのせいであの気のいい商人には――しかし何よりガブリエルは彼に気のいい商人のままでいてほしかったのだ。いつだって金の輝きは人を狂わせるものだから――ずいぶんと非礼な態度をとってしまったのだが。

 少女もそれらのことは承知済みなのか、特に戸惑った様子もなかった。

「では、それが」

「そうよ」ガブリエルは頷く。

 丁寧に組紐を外し、包みをほどいてゆく。やがて幾重にも重ねられた布と油紙の中から、黄金と貴石のまばゆい輝きがこぼれ出した。少女がああ、と息を飲んだ。ガブリエルもその美しさに改めて目を奪われた――けれどその目は本当のところ、流麗な数字の並ぶ文字盤を透かし、その奥で噛み合う複雑で精緻な機構のほうにこそ向けられていた。天才時計師ドニス・オッフェンバックが細やかな修正と調整を重ねた、幾多の金属パーツは、いまはむろん動きを止めてはいるものの、まるで力を溜めるしなやかな獣のように調和し緊張しつつそこにある。ひとたびゼンマイを巻き上げてやれば、彼らは針先ほどの狂いもなく協調し、この世に二つとない尊く貴重な時間を紡ぎ出し始めるだろう。

 真に優れた音楽は、真に優れた奏者によって奏でられてこそ、そのまことの魅力を引き出される。時計も同じだ。悔しいけれど、とガブリエルは思う。私では決して、この小さく神秘的な精密機械の、内に秘めたる本当の輝きを引き出すことはできなかっただろう。ドニスはガブリエルにとって師であり父である以上に、優れた、そして越えられぬ才能を持った同業者だ。その彼の手によって調律された時計はこうして、飾られたうわべだけではなく、内側からも燦然と光を放つ。悔しいけれど、時計師としてのガブリエルの目から見ても、これは至高の品なのだった。

「ガブリエル」

 少女の声でガブリエルは物思いから覚めた。彼女は束の間とはいえ時を忘れていた自分に驚き、そしてすぐに気恥ずかしさに襲われる。

「ごめんなさい。つい」

 物思いの内容もあって余計に頬が熱くなる。弁解がましく言って立ち上がったガブリエルに、少女は微笑でもって応じた。

「いいの。貴女もその子の美しさがわかるのね。そう……私だってそうよ。幾度見たって、見蕩れてしまう」

「ん……うん。そう、そうね」

 本当は、そんな純粋な感情などではない。目の前の時計を通り越してガブリエルが見つめていたのは、実の父に対する、その天才に対する愛情と誇らしさ。そして水に垂らされたインクのようにたなびき渦巻く、醜くて卑小な、嫉妬と憎悪。そんなふうに色々なものが彼女の中ではない混ぜになっていて、だから、「やっぱり」と目を細めた無垢に、ガブリエルは息が止まる思いをした。胸が痛いほどに打ち、体が火照る。頬が熱を帯びる。見蕩れるというのなら、美しいというのならば、あなたこそがそうではないか。〈白薔薇〉。しろばら。古城の姫君。その穢れを知らぬ白さは、まっすぐに見つめるにはやはりまぶしすぎて。

 これ。栓無き思考を振り払うように、ガブリエルは少々ぶっきらぼうに懐中時計を突き出した。〈白薔薇〉はちょっと驚いたような顔をしたが、すぐに自然な微笑みを取り戻した。オイルと金属、削り盤を始めとする金属加工器とに荒れたガブリエルの手に、雪のような手のひらが重なる。滑らかで、潤い、ことのほか体温の高い手だった。触れられた場所から未知の感覚が肌を伝って広がった。

「ありがとう」

〈白薔薇〉はそう言って時計を受け取ると、ぎゅっとかき抱いた。ああ、と、唇からため息が漏れた。少女は目を瞑り、時計を握りしめ、安堵に身を震わせる。それはまるでひもじさをこらえるように切なげで、いたわしげで。ガブリエルには、彼女がこの時計へ注いでいた並々ならぬ愛情が見てとれた。ああ、よかった。ほんとうに。よかった。また幾度かそっとつぶやくと、ふるふると小さな頭を振って――それに合わせて、白い髪が光の中できらめいた――少女は花が咲きこぼれるような笑顔でガブリエルを見上げた。

「ありがとう、ガブリエル」

〈白薔薇〉がそう言った次のときには、彼女の体はガブリエルの視界からは消えていた。代わりに熱くやわらかなものが胸の中にあった。華奢で、壊れやすく、繊細なもの。背に回された腕は細く、重みは限りなく無いに近い。花のにおい。ありがとう。よかった。ほんとうに。〈白薔薇〉は小さな頭をガブリエルの胸に寄せ、そうして、彼女のシャツをほんのすこし濡らした。しろばら。どうしてそんなに。あなたはどうしてないているの。この時計はあなたにとってなんだというの。あなたはいったい、だれだというの――。胸の中の少女へのいとおしさと同時に、数多の疑問がガブリエルの心に去来した。しろばら。ガブリエルが言葉にならぬ言葉の代わりにためらいがちに手を伸ばし、白い髪を指で梳いてやると、〈白薔薇〉はむずかるように体を揺らした。ごめんなさい、と言った。ごめんなさいガブリエル。わたし、こんなつもりじゃなかったのだけど。

 だけど。おねがい。もうすこし、こうさせていて。

 いいよ、しろばら。わたしでいいなら。ガブリエルは壊れそうな少女の背に腕を回し、ぎこちなく抱き寄せた。白い髪に頬を寄せると、甘く、そしてすこしだけ胸が詰まるような、太陽と砂糖菓子と、シナモンの匂いがした。薔薇の香り、なのかもしれなかった。


 石の一角獣リコルヌの足元に揃って座る。押し寄せる時の力は強靭で執念深く、天を突くその高潔な獣の角すらも、ついには半ばからへし折ってしまった。前脚を掲げて嘶く彼の目は、南から急速に膨らんできた黒雲を威嚇するように見据えていた。ガブリエルの隣に座る〈白薔薇〉は、一角獣の後脚に背を、ガブリエルの肩に頭とをもたせかけ、時計に通した金の鎖をしゃらしゃらともてあそんでいた。ガブリエルの方は彼女がすんすん鼻を鳴らすたび、白い髪をなだめるように撫でてやっていた。

 あれから、ごめんなさい、と繰り返しながら、〈白薔薇〉はガブリエルの腕の中で泣きじゃくった。彼女が謝るたびに何度でも、ガブリエルはいいよ、と返した。ないていいよ、しろばら。涙はもう止まったものの、陶磁のような頬と眦にはまだほのかに朱が残って見えた。ガブリエルは彼女を気遣いながら、きいていい? と尋ねた。間があってから、こくり、と少女は頷く。

「どうして、泣いたの?」

 手の中の時計を見つめる横顔がぴくりと硬直するのがわかり、彼女は率直に訊き過ぎたかと後悔した。

 ガブリエルがもう一度口を開きかけようとしたときだ。

「この時計は」

〈白薔薇〉は視線を落としたまま言った。声はか細く震えていて頼りなく、初めのときのあの鈴の音、そして饒舌で自信に満ちた話し振りとはずいぶん違っていたが、その芯にある強さはまだ失われてはいないようだった。

「ううん。ちがう」

〈白薔薇〉は首を振った。ちがうの。そうじゃないの。少女はもどかしそうに唇を噛む。苦しげに眉を寄せた表情は、またふたたび泣き出してしまいそうに見えた。ガブリエルはいたたまれなくなり、彼女の細い肩に手を置いた。

「話したくないなら、いいよ。無理をしなくて」

「ちがうの。ちがう。無理をしているわけじゃないの。だけど。ただ、うまく、どう言ったら……どう言えば、わかってもらえるのか……どうしたら、ガブリエル、わたしを、」

 見上げる潤んだ目には、不安と、いまにも溢れだしそうな強い感情が混じっていて。ガブリエルはいとおしさに駆られるまま、少女の眦に溢れる涙へと手を伸ばした。両手で頬を挟んで、親指でわざと乱暴に拭ってやる。「言って、〈白薔薇〉。あなたを?」努めて穏やかに、ガブリエルは微笑いかける。

「……こわいのよ」

「なにがこわいの?」

〈白薔薇〉の言葉は要領を得なかったが、ガブリエルは気にすることなく尋ねた。なにがこわいの。少女はガブリエルの手のひらの中で何度か唇を開きかけたが、けれどまたそのたびに、歯噛みするように目を伏せた。こくりと細い喉が鳴った。くすんと鼻が鳴った。

「〈白薔薇〉」

 ガブリエルはそう言って、少女の小さな体を抱き寄せた。やわらかい薔薇の姫。こんなにも温かくて甘い花の香りのする、しろばら。赤子をあやすようにガブリエルは少女の名を繰り返した。しろばら。だいじょうぶ。しろばら。あなたをくるしめるものをおしえて。しろばら。

「……貴女に嫌われたくないのよ。ガブリエル。嫌われてしまうのが、とても、こわいの」

 彼女はかろうじてそう答える。

「どうしてわたしがあなたを嫌いになるの。そんなわけがない」

 けれど〈白薔薇〉はガブリエルの胸を頼りない力で押して、腕の中から抜け出した。思ってもみない拒絶に驚いたガブリエルは、かぶりを振る少女をじっと見つめた。ちがう。ちがうの、ガブリエル。貴女は何も知らない。貴女は、まだ何もわかっていないのよ。

「ガブリエル。わたしは、」

 わたしは、にんげんではないのよ。

 棄てられた教会や寂れた墓地、廃屋、路地裏、埃臭い地下や物陰。光を恐れ、闇の内にわだかまり、影から影へとさ迷い歩くものがいる。否、いた、というべきか。

 革命以後、彼らの多くは闇の内から引きずり出され、白日の下に暴かれて、とるに足らぬ迷信と妄想の産物となり果てた。人々はさながら扼殺のごとくじわじわと、けれど確実に彼らを包囲し滅ぼしていったのである。

 それというのも、すべて人々が新たな信仰を手にしたゆえだ。十字架や讃美歌や聖典、祈りすらもいらぬ彼らの新しき神を人は理性と呼んだ。その光は闇を底までくまなく照らし出し、蒙きから啓かれた人々の目に、暗がりにうごめくものどもの正体を焼きつける。恐怖は無知から出づる。そしてその恐怖というヴェールを剥がされたあとに残るのは、朽ちた木の枝、野犬の眼、葉ずれや風鳴りにすぎないのだ。

〈白薔薇〉もまた、そうした彼ら闇のものたちの眷属であるのだという。

 かつてこの世に機械時計がなかった頃、人々の多くが時間という概念を持たずに日々を生きていたように、結局のところ誰からも存在を信じられないものは、もはや存在することができないのだと。少女は自らの一族が滅びた理由をそう締めくくった。

「生き残ったのはわたしだけ。可笑しいわよね。死ぬことも、生きることもできないくせに、生き残る、なんて」

 おそろしいわよね。

〈白薔薇〉の唇に、自嘲めいた笑みが浮かんだ。

 ざあ、と雨が降り出した。

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