第50話 断罪

 ***


「今日だよ」


書き物をしていた主は、ふと顔を上げると唐突にそう言った。その言葉が何を意味するのかは、わかっている。


「知ってたかい?」


「ええ」


 祈りの時間を告げる鐘が鳴る。鳴り続ける鐘の音。音の隙間に、目が合った。


「来る」


 アスタルの薄い唇が動いたその瞬間だった。城門の方角から微かに人の声が聞こえた。十や二十ではない。怒号、といったほうが正しいような声が、風に乗って聞こえる。胸がざわめく。大丈夫、もう昼だ。ロタはとっくに皇都を出て、ラジャクへ向かっているだろう。


「君は、僕とともに」


 そう言って彼は席を立った。先に立って扉を開く。この人の進む道を、邪魔してはならない。彼が外に出た瞬間、扉を閉じて一歩後ろにつき、歩み始めた。石の廊下を歩く内、何を思ったか、主は渡り廊下へと向かった。壁のないそこに出ると、空気は一変した。雲の出始めた薄灰色の空の下、吠えるような騎士たちの声が城の外から響き、冷たい空気を震わせる。城の警備をする兵が、城門のすぐ内側、表広場を縦横に行き交い、城壁の上ではつい昨日までは飾りのようだった大砲が、外へと向けられていた。


 次の瞬間、腹の底に響く爆発音がして、大砲が火を吹いた。叫びが、怒りが渦巻いている。火薬の匂いが、微かに漂う。まるで、いや、間違いようのない、戦がそこにあった。


「……ここでは、御身が危険では」


 目と鼻の先で、激しい戦いが繰り広げられているのに、主の顔は奇妙なほどに静かだった。


「大丈夫。すぐに安全な場所へ行くよ」


 言う間に、視界の端で城壁の上の兵士が崩れ落ちた。下からの矢が、微かに見える。


 再び耳を震わす爆発音がした。思わず身を縮めると、主はくすくすと笑った。


「おかしいだろう?  外はこんな事態になっているのに、私には連絡の一つも寄越されない。私の手の内の者は来ないように言ってあったからだけれど、父上や兄上だって私のことを思い出してくれてもいいだろうに。それか、ようやく私が裏で動いていたことに気付いて怒り狂っているか……いずれにせよ、侮られていた。好都合だったけれどね」


 言葉が終わる前に、彼はエイラの先を一歩踏み出していた。


「行こう。こっちだ」


 アスタルは、兵が着々と集まる表広場に背を向け、奥にそびえる礼拝堂を目指しているようだった。


「……礼拝堂?」


「ああ、あそこで反乱軍の首謀者、もしくは彼が死んだ場合、代わりの者と会うことになっている。神の前で、これ以上神の名のもとに行われる偽りの聖戦で無駄な死を遂げるものがないように、神の声を伝えるもの――皇族に名を連ねる私に誓うのだ。どうだ、なかなかの筋書きだろう」


 それに、と彼は続けた。


「あそこには儀式用の露台があるが、見晴らしが良かった。彼らが無事城の内側に入ってこられるか、見ていようじゃないか」


 あくまで冷静な彼の声が背筋を冷やす。今この瞬間も血を流している兵たちは、彼にとってはどうあってもただの駒なのだ。時という大きくうねる波を構成する、小さな雫に過ぎない。雫は、波の中では形を失い、数えることなどできない。


 城の内にあるぶん、その礼拝堂は皇都中央にある教会とは比べ物にならないほど小ぶりのものだったが、シェズ属国時代のもっとも繊細な様式で建てられた美しいものだった。扉を開けて、主を中へ通す。扉を閉じると、外の喧騒が嘘のように静かだった。奥のガラスから差し込む淡い光が、しんとした空間に筋を描く。神の宿るという三叉剣のモチーフが、柔らかな光りに包まれて神々しく祭壇に浮かび上がっていた。


 しかし、それにいくばくの敬意を払うこともなく、彼は露台への階段を登り始めた。


「エイラ、君はよく僕に仕えてくれたね」


 歩きながら主が言った言葉は、不自然なほど優しさにあふれていた。


 階段を登り終え、重い扉を押し開けると、冷たい風と男たちの吠えるような声がぶわりと吹き込んだ。アスタルの、恐ろしく整った顔を、雲の隙間から差した白い午後の光が照らし、風が黒髪を揺らす。ゆったりと進み出た彼について露台の端へと向かう。


 見下ろすと、そこに広がっていたのは戦場だった。


 破られた城門の側に、赤い汚れが散っている。何十年にも渡り城外の者を拒み続けてきたはずの石畳は、今やなだれ込んだ騎士たちに蹂躙され、泥と血にまみれていた。


「彼らは、じきに中央部に辿り着くだろう。父上がどのような顔をなさるか少し見てみたかった気もするが、僕にはここでしなくてはならないことがあるからね」


 風が吹く城門の見張り台に上がった火が、煽られて燃え盛る。いつの間にか、火矢が射掛けられていたらしい。焦げ臭さが、風に混じって髪をもてあそぶ。


「君の汚い野心が好きだった」


 主の声を聞き、ようやく眼下の醜い戦場から目を離す。


「そう……あわよくば、僕すら利用してのし上がってやろうという、そのきれいな顔に似合わない薄汚さがね」


 先ほどまでと変わらないようでいて、かすかに、しかし確かに鋭利になった声音が、エイラの喉に突きつけられる。主の目を見、ようやく気付いた。彼が自分だけを伴ってここに来たのは、自分を断罪するためなのだと。


「エイラ・ヘディン」


「……はい」


「ここのところ、グリャナからの物資の運搬経路については君に任せていたね」


「はい」


 わかっていたはずだ。いつか露見し、消される運命であると。それなのに、喉はからからに乾いて、冷たい汗がつうと背を伝う。


「僕がダナイに降ろうと考えていたのは、きっと君も気付いていたはずだ。頭の良い君には、そのためにグリャナとの関係を匂わせてはいけないことも、わかっていたはずだよ」


「……ええ」


 ロタをグリャナに送り届けるため、グリャナへの物資運搬船を徹底的に調べた。たった一人を無事に到着させるため、着いた先での手配もした。そのためには、情報が必要だった。情報を得るために、こちらの情報を売った。


立派な内通者だ。


 一度目を閉じ、息を吸う。吐き出したときには、覚悟を決めていた。主を見つめる。


「まさか、こんなに近くに内通者がいるとは思っていなかった。上手くやっていたよ。けれど、それが亡命の手引だというのは愚かにも程がある。こんなくだらないことで君を失うのはつらい……だが、ここで止めなければならない。わかるね。……安心しておくれ、下層民が一人や二人出るくらいなら構わない。今後、グリャナへの関係を気取られる前に、君を消しておきたいだけなんだ」


 何も言い返すことができなかった。彼の話は、全てが事実なのだ。今更言うことは何もない。けれど、生きたいと、体中が叫んでいた。このままでは、泥の中から這い上がり、ひたすらに上り詰めてきたこの生が、終わってしまう。


 遠い喧騒と薄い煙の中、静かに口を開いた。


「……否定はいたしません」


 体の内側で泣き叫ぶ自分の首を締めあげる。諦めろ。これで終わりなのだ。


 死んでくれないか。そう彼は言った。けれど、それに頷くわけにはいかないのだ。この一つの生に、どれほどの重みがあるか、どれほどの血が流れているか、彼は知らないのだ。だからエイラは、この国を率いていくであろう主に、知ってもらわねばならない。


 アスタルの、切れ長の瞳を見据える。逸らさぬまま、口を開いた。


「けれど、自害もいたしません。アスタル様、あなたが、ご自分の手を汚して、殺してください」


 声は、震えていなかっただろうか。


 答える間に彼は剣を抜いた。優美で華奢な、飾りのような剣だったが、突き立てれば肉を容易に貫くだろう。


「……そうだね。そろそろ、僕も自分の手を汚してもいい頃だ」


 どこか淋しげに微笑むアスタルの肩越しに、灰色の空を見る。きっと、ラジャクから船が出るころだ。


 ロタは生きられる、それが異国の地でも。

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