第6章 土の天秤

第41話 女の居場所は

 不安と、不満が、薄闇に包まれた訓練場に満ちていた。頭が痛むのは、きっと治りかけの傷のせいだけではない。風のせいだ。ヴェトルの冬は長く、重い。その冷たさの混じり始めた風に、聖戦への希望がさらわれていってしまったようだった。


 訓練で上がった息を整え、滲んだ汗を袖で拭う。日没と同時に本日の解散が告げられ、思い思いの場所へ散っていく騎士たちに混じり、宿舎へと向かう。肌寒い、というにはすでに寒すぎる屋外にこの汗でいつまでもいたら、すぐに風邪を引いてしまうだろう。


 ほんの数カ月前までなら、庶民出の騎士には光に満ちていた皇都騎士団の称号は、今、この場に彼らを繋ぎ止める綱になってしまっていた。浮かない顔をした周りの下級騎士達を見ると、恐れがぬるい泥のように腹の奥に溜まっていく。最後の聖戦の後、聖戦を進める皇帝への反感を隠さない噂が、あちこちで広まっていた。


 あの男、皇帝庶子アスタルが言った一言一言が、脳内に蘇る。


――度重なる聖戦の失敗で、この国は不満と、怒りでいっぱいだ。前線にいる君たち騎士もそろそろ気付き始めたころだろう、この戦が無意味だと。いままで、神の加護などあったかい? 


 ここにいる騎士のほぼ全てが、仲間の死を目の当たりにしている。ロタも、気付いていた。異教徒の矢に貫かれ、くぐもった声を漏らして死んだ仲間の姿は、どうしたって、罪を雪がれて救われる人の姿には見えなかった。


 七日ほど前、イグの親友が死んだ。怪我から出た熱がとうとう下がらず、苦しそうに逝ったと聞いた。彼はずっと、間違っている、と言いながら泣いていた。かける言葉が見つからなかったのは、心の何処かでは自分も同じように思っていたからなのだろう。


 ――少しだけ、手伝って欲しいんだ。簡単な事だよ。その怒りを、ほんの少し、煽って欲しい。きっと、現れてくれるはずさ、この国を良くしたい、そう考える正しい心の持ち主が。


 だから、アスタルの紡ぐ話に、胸が熱くならなかったかと言えば嘘になる。エイラの身体を雨に晒してさえいなければ、聴き入ってしまったかもしれない。そういう力強さが、彼にはあった。確かに、この国は少し変だ。異教徒から土地を、人を守るための戦のはずなのに、人が死にすぎている。それが全て今の体制のせいなのだと言われたとき、救われる心地がした。やはり、自分の信じる神が間違っていたのではなかった、神が「これ」を強いていたのではなかった、人の子の犯した間違いだったのだと。


 だから、言われたとおりにして国が正しい方へと変わるなら喜ぶべきことなのだ。エイラを救える、恐ろしい戦を止められる。それなのになにか罪深さのようなものを感じてしまうのは、どうしてなのだろう。


「どうした、そんな顔をして。まだ傷が痛むか」


 背後から声をかけられ、びくりとして振り向く。その人の顔をみて、ほっと息をついた。


「なんだ、イグか。……傷はもう大丈夫、ありがとう」彼はロタに並んで歩きながら、肩をすくめてみせた。


「騎士が少なくなったぶん、訓練は熱が入っている気がする。無理はするな」


 友を失った悲しみを乗り越える強さと、戦場で助けてもらったときから変わらぬ優しさに、温かな気持ちが湧き上がる。しかし、その瞬間イグの腕に巻いてある新しい包帯に気がつく。


「イグこそ、たまには自分のこともちゃんと心配してよね。怪我したの?」


「ああ、別に大したことはない」


「無茶してるんじゃないだろうね」


 いつも、解散後も訓練に明け暮れるイグを思い出して眉を寄せる。すると、イグは人の良さそうな顔をくしゃりと崩して笑った。


「無茶? 無茶といえば、この戦時に女の身で皇都騎士団にいるお前には負けるよ」


 何気ない冗談だとはわかっている。けれど、聞いた瞬間、心がすうっと冷えた。こわばった顔を隠したくて、そっと俯ける。


「……女の騎士、他にもたくさんいるじゃないか」


「こんなに最前線なのはお前くらいだよ。貴族あがりの上級騎士ならともかく。確かにお前は強いけど、普通の子みたいに生きても、」


「イグ」


 思わず足が止まった。


「ん、なんだ?」


「女がここにいちゃだめかな」


 微かに、声が震える。風が、汗を冷やしていく。


「どうしたんだ」


 さっきまでとは違う恐怖が、喉の奥にせり上げた。普通に生きるのは、怖い。普通の女としての自分にどの程度の価値しかないのかは、もういやというほど知っている。


 薄青い闇が立ち込めた道に、小さく言葉を吐き出す。


「戦えば、騎士でいられるんじゃないのか」


「ロタ?」


 優しい彼が、自分を否定するのが怖かった。今まで当たり前に立っていた足元が急にぐらつく。顔を上げ、彼の黒い目を見つめた。突然、ばかなことを言い出したと思われるかもしれない。けれど、言葉を繋ぐのをやめられなかった。


「私にはここしかないんだ。今更ただの女になんか、なれない」


 消え入りそうな声で告げると、イグははっとしたように眉を動かし、表情を緩めた。


「……ごめん。お前の気持ち、考えてやれてなかった」


 そう言って一歩大きく歩み寄り、子どもにするように彼はロタの頭を撫でた。女にしては大柄な自分より、更に少しだけ高い視線が、かすかな後悔と温かさを浮かべてロタに向けられていた。


「お前は立派な騎士だよ。間違いない。いていいに決まってるだろ」


「……ほんとに、そう思う?」


 思ったより冷めた声が、自分の口からは漏れていた。だがイグはその色味に気付くことなく、薄闇の中でもはっきりと分かるほど、にこりと大きく笑った。


「ああ、もちろんさ。……そういえば俺たち、最近よく話す割にお互いのことを知らなかったな。いつか聞かせてくれ」


 気を悪くしなかっただろうか。この気持ちに折り合いを付けられない自分に、呆れてはいないだろうか。ぐるぐると止まぬ思考の中、ロタはちいさく微笑んでみせた。


「……うん、イグもね」


 どちらからともなく再び歩み始める。ちらほらと灯りが点いた宿舎は、もうすぐそこだった。

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