第40話 勝手な願い

 ***


 昔の自分ならとっくに捨てていたはずのレッシは、今、自分の荷物の中で爽やかな香りを放っていた。持ち帰ってどうするつもりなのかはわからない。けれど、今ここで捨てたら自分の奥にいるほんとうのエイラに、嫌われてしまう気がしたのだ。


 そんなことを思いながら、馬を進める。蹄が刻む単調なリズムが、エイラの心臓の鼓動と交わり、離れる。灰色の空の下、静かに思考を編んだ。


 アスタルは聖戦に口出しをしないと言った。つまり、ロタが聖戦で命を落とす確率は、今までと変わらないか、もっと悪い。兵士として駆り出される下級騎士の数はどんどん減っているのだ。彼女がどれだけ生き残ろうと、聖戦をやめない限りロタは一歩一歩、死へと確かに進んでいるのだ。そして、ロタは聖戦へ行き続けるだろう。彼女がいとおしげに語る「神様」というものは、エイラにはわからない。ロタが救われたなら、それはロタの力だ。神様なんかの力を借りたわけではなく、一人で立ち上がった。誇るべきことだ。けれど、ロタはそれをみんな神様のおかげだと思ってしまう。


 そして、神様のため、命すら投げ出すのだ。


 手綱を握る手に、力がこもる。


 ロタは、放っておけば必ず死ぬ。


   



紙の上の数をかぞえる。その数字が何を指すかは、考えない。前回の聖戦で大幅に減った下級騎士の補充は、以前ほど簡単ではなかったのだろう。表に細かく書き込まれた数字は、大国と争うにはあまりにも貧相だった。じきに農民や商人から兵がかき集められることになるはずだ。そして、この国は終わる。


 アスタルはその時を待っているのだ。国民の恐れと怒りが、割れた薄氷の下からあふれだす瞬間が、彼の勝機だ。数字が消費されることで、彼は前に進める。その意味を思うと、やけに冷めた思考が頭のなかを駆け巡った。


 やはり、動かねばならない。このままこの国にいれば、ロタは必ず死ぬ。アスタルの計画全てを知るすべのない自分には、それが、彼の目論見に巻き込まれてなのか、それとも聖戦に赴いてなのかはわからない。いずれにせよ、今のロタはただの数字に過ぎない。


 だが、この国を出れば。どこか、別の場所に行ければ、生きる道があるかも知れない。もちろん、自分が隣にいられるなどとは思っていない。その資格は自分にはないし、アスタルについていくと決めてしまった。エイラは紙に落としていた視線を、主人へと向けた。


「アスタル様」


 呼びかけると、彼は緩慢に顔を上げた。そこに浮かんでいた笑みに心を乱されぬよう気をつけながら、きちんと畳んだ紙を返す。


「ありがとうございました」


 細く笑んだ目が、一瞬、刃物のようにちらついた。


「君はどう読んだかい?」


 アスタルの問いは、ただ静かだった。小さく息を吸って、彼の目をまっすぐに見つめる。


「行われるにしろ、そうでないにしろ、次の聖戦がおそらく最後になるでしょうね」


それとなく探りを入れる。アスタルは、次の聖戦の前に行動を起こすつもりなのだろうか。


「ああ」


 満足気な笑みを浮かべ、アスタルは頷いた。心の内で息をつく。この男がそう簡単に情報をこぼすわけがなかった。かるい失望を隠し、アスタルの風雅な唇が次の問いを発するのを待つ。


「……そうだ、あれからレンダー家はどうだい?」


 どきりとした。レンダー家の名は、レッシの酸っぱい香りを鼻腔に呼び覚まし、かすかな痛みが心を刺す。感情を殺し、弱い考えを打ち消す。巻き込んだからといって、彼らに損はないのだ。これは、彼らの意志だ。自分はそれを後押ししたに過ぎない。それに、今更、自分に何ができる。


 表情を変えずに口を開く。


「書簡の返事は好感触です。あと数度会えばほぼ確実にこちらにつくかと」


 アスタルはすうっと口角を上げ、こちらを見て目を細めた。曇り空の白い光が、窓に嵌めこまれたガラスを透かして彼の黒髪をけぶらせる。


「なによりだよ。あの堅物のヴィゴが落ちるなんて、僕の前ではこんなに無愛想なのに、他の紳士の前では笑顔を振りまいているんだね、エイラは」


くつくつと笑うアスタルを無視して、書類の整理に戻る。


 アスタルの遊戯に、ついていくと決めた。国と、数えきれぬほどの命を賭けた遊戯に。レンダー家だけではない、これまでに巻き込んできた全ての人々を裏切ってまで、密かな願いを叶えようとは思っていなかった。生かされようが、殺されようが、アスタルの駒として動くだけだ。上を目指す意味を忘れた今、自分にできるのは罪を認め責を果たすことくらいなのだから。


 けれど。エイラは自分に告げた。たった一人を救うことだけは許してほしい。たとえそれが救うなどという高尚な行いとは遠くかけ離れた、ひたすらに勝手な願いだとしても、失いたくないのだ。どこかで生きていてほしい。


 最後の書類をまとめ終え、席を立つ。主人の顔を伺うと、そこにはいつもと変わらぬ、視線を絡めとるような微笑みが浮かんでいた。いつものように、背筋がぞくりとする。この笑みに慣れることはない。何もかもを見透かされているような恐怖が腹の奥からこみ上げる。


 けれど、これだけは悟られるわけにはいかない。恐怖にすくむ心を固く閉ざし、蓋をする。ロタを、ただの数字として消費させたりなどしない。


 ヘディン家から届いた外交に関する大量の書類を整えながら、そこから一枚、抜き取った。

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