第5章 裏切り

第38話 目覚め

 粘り気のある泥の中に、身体をとられてしまったような気分だった。ぼんやりとした覚醒がじわじわと頭のなかに染み渡っていったが、目は開けなかった。肌に感じるのは、柔らかな布の手触りと、温かさ。ふわりと、爽やかなハーブの香りもした。けれど、目蓋の裏によみがえるのは、濡れた石畳と、木々の葉から滴る雫、そして、少し汚れた包帯ばかりだ。頭が冴えていくにつれ、記憶が形を取り戻すにつれ、混乱は深まっていく。どうして自分はここにいるのか。不安になって、重い目蓋をこじ開けた。膜のかかった視界には、馴染みのある色が映る。黒い梁が、塗り込められた漆喰の白の中を縦横に走っているのだ。


「おお、目覚められましたかな」


 老いを滲ませた声がすぐ側でして、エイラはそちらへ目を向けた。視線の先でほっとしたように笑っていたのは、何度か世話になったことのある医師だった。用心深いアスタルが信を置く数少ない者の一人である。


「……私は?」


 彼は目尻にしわをつくって柔和に微笑んだ。この笑みだけを見れば、彼が善良な人であることを疑うのは難しい。しかし、エイラは今までに何人かの官僚が「運悪く」病に冒されて来たのを知っている。しかも、絶妙の塩梅でアスタルに都合よく癒えるのだ。敵にはしたくない相手ではある。


「今、アスタル様をお呼びいたしましょう。少々お待ちください」


 小さく頷き、部屋を出て行く彼の背を見送る。そして、記憶を手繰り寄せていきながら、これから会うアスタルへの言葉を練り上げる。嘘を言うつもりはなかったし、嘘が通じる相手でないことはわかっていた。ただ、ロタが責められるような事にだけは、耐えられそうにないのだ。


 ドアが軋み、石の床をこつりと靴底が叩く音がした。深呼吸をして、腹を決める。


「おはよう、エイラ。ああ、起き上がらなくていい。ずいぶん悪かったみたいだから」


「……お側を離れることになり、申し訳ありません」


 医者が用意した椅子に深く掛け、アスタルは底のしれぬ笑みを浮かべた。


「いや、差し当たって危険はないだろうから君ほどの腕がなくても護衛なら任せられる。回復するまで代わりのものをつけておくから安心しなさい。けれど、紅茶だけは君が淹れたのでないと飲む気がしない……早く回復してくれよ」


 当り障りのない話題に、嬲られるような不快感を覚える。あえて言わずに、エイラを弄んでいるのだ。


「アスタル様、」


 つややかによく響く声が、エイラを遮る。


「最近、少し仕事を任せすぎていたかな。君がこんなになるまで気づかないなんて、僕もまだまだだ。けれど、僕には父上や兄上方とは違って、かわいい部下をこき使う趣味はない。体調が悪いなら言ってくれれば休む時間も取らせる。これからは気にせず言いなさい」


 切れ長の瞳をすうっと細めてアスタルは笑った。


「アスタル様。……私はなぜここに」


 たどった記憶の中で、エイラは雨に濡れていた。少なくとも、部屋で倒れて寝かされたわけではないことは、自分でもよくわかっていた。温かい腕が、自分を抱いていたのも覚えている。雨音に紛れた記憶は曖昧だったが、そうしてくれる人を、自分は一人しか知らない。


「……ロタ・ゼネル」


 アスタルの形の良い唇から恐れていたその名を聞いた瞬間、全てを諦めた。息を止め、ふっと吐き出す。


「……いつから、ご存知だったのです」


「冬の聖戦の頃、君は様子がおかしかった。大事な部下が心配でね、少し調べさせてもらった」


 重い体を何とか起こし、アスタルを睨む。


「彼女に手を出さないでください」


 エイラの目を見返し、アスタルはおかしそうにくつくつと笑った。


「何を考えてるのか知らないが、彼女をどうこうするつもりはないよ。下級騎士ひとり。何の利用価値がある?」


 嘘を付いているような瞳ではなかった。それに、エイラにとってロタがどれほど大きくても、彼女がただの下級騎士の一人であることも確かだ。何も言えずにいるエイラに、アスタルはさらに笑いかけた。


「懐かしい友人に会うのは、悪いことではない。どう塗り隠しても、君が貧しく汚い村の出身で、父も母も分からない孤児だった事実は変わらないのだから」


 アスタルの細い指がエイラの顎を掴み、黒い瞳が顔を覗きこむ。人を見る目ではない。物を、品定めするような遠慮ない視線が、エイラの肌をなぞる。視線がエイラの瞳とかちりと合った時、アスタルは満足気に目を細めた。


「そう、その目だ。君なら、何であっても踏みつけられるはずだよ。汚い欲望にまみれて、幾人も蹴落としてきたのだから」


「私は、」


 艶やかな声が首を締め上げていく。


「戻れるなんて思っているのか? 確かに君はまだ若い。そこらの貴族の娘たちと同じ生活をしようとすればできるだろう。君が、自分の犯してきた罪を、すべて忘れられるならの話だけれど」


 裏切り蹴落としてきた者達を、忘れたことはない。アスタルの敵であったり、時にはエイラ自身を疎み貶めた者を、自分はどうしてきたか。宮殿での立場を失わせ、後ろ盾を断ち、戦の中へと追いやったことすらある。


「ずる賢い、汚いエイラ。友の死に怯えるようなつまらないボロ布にならないでおくれ」


 自分は弱く、薄汚れている。爪のうちに捕らえられて暴れることしかできないネズミのように。だがそれでも、爪のうちから抜けだしてその額を踏みつけてやる。そう願い、身を傷つけてでも暴れるのだ。


 エイラは頬の内側のやわらかな肉を噛み、にじみ出る血を飲み込んだ。偽るのではない。そう自らに言い聞かせ、口を開く。


「……今後、彼女のことは忘れます」


 声は震えていた。それで構わない。アスタルはその震えを信じるだろう。


「できるとは思えないけどね、でも、その気持ちは認めよう。……君は明日からも僕の部下だ」


 冷たい汗が、どっと噴き出す。やはり、試されていたのだ。そして、きっと試され続ける。これからもずっと。


 指を離し、アスタルは口の端をつうっと吊り上げた。


「僕たちは、今後聖戦に口を出さない。聖戦がいかに愚かか、皆気付き始めてきた頃だ。父上や兄上達は気づいていないようだが、それでいい。現体制への不満を高めるだけ高めればいい。少しずつではあるが、軍の中にも僕たちに心を寄せる者が現れ始めた」


 いつもの口調に戻ったアスタルは、エイラの頬をするりと撫でて、語り始めた。アスタルの頭のなかに広がる計画は、日を追うごとに生々しさを増していく。エイラは、この船に乗るのだ。それしかない。けれど、そのためだけに生きようとは、もう思わない。


「北のレンダー家は皇都騎士団に多くの騎士を出しています。この度の聖戦でその半数近くが傷つくか失われたのに補償が不十分にしかされていないことに不満を持っているとか。その他にも、働きにかかわらず北の僻地から動かされないことにも気づいていないわけがないでしょう。……レンダー家を味方にできればその時には必ず大きな力になると思います。新政府の……そうですね、軍管轄の重職を約束すれば現皇帝に背くことにも抵抗は少ないかと」


 動き始めた頭のなかで、必死に抜け道を探る。アスタルから逃げることはできないし、逃げるつもりもない。ならば、自分にできることは一つだ。下級騎士ひとり。彼はそう言った。なら、彼女はヴェトルに必ず要る人ではないのだ。


「ではレンダー家への対応は君に任せよう……だが、それも君が元気になったらだよ。また身体を壊されては困る。ここからが、僕たちには大切な時なんだから」


「……はい」


 エイラは頷いた。アスタルは国を変えていくだろう。それに手を貸せることを、新しい国の中枢に行くことを、ずっと望んでいた。だが、今ならわかる。


 力など、国など、もうどうでもいいのだと。

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