第37話 取引


 走っていると、自分の息と、雨音だけが聞こえる。時折水たまりを踏み、泥が跳ねる。ひたすらに足を動かし、林を抜け、ようやく城の端にたどり着く。長く戦時を忘れた跳ね橋は、下がったままだった。誰もいない橋を渡って、門扉を殴るように叩く。


「下級騎士が何の用だ」


 見張り台の上の番兵から、声が掛かる。彼を見上げて、必死で請う。


「開けてください。上級騎士が病気なんです。医者に診てもらわなくては」


「その騎士の名は?」


「エイラ。エイラ・ヘディンです!」


 言いながら、かぶせたフードを外し、血の気のない彼女の顔を見せた。それをみた番兵は、ついと眉を寄せ、門扉を開けるように命じた。


 門が開ききるのを待つこともできずに走りこむ。すると、目の前で長槍がさっと交わり、行く手を阻んだ。


「確認が取れるまでここで待て」


「でも、早く暖かい場所へ連れて行かないと、」


 焦るままにそう言うロタを見て、兵の顔が険しくなった。その視線を無視して辺りを見回す。城壁に囲まれた敷地には、幾つもの建物が石畳の庭を中心にぐるりと並び立っていた。それぞれを繊細な彫刻の施された渡り廊下が繋いでいる。その向こうには、ひときわ大きな建物がそびえ立っていた。思った以上に広い城内に、どこへ行けばいいのか皆目見当がつかない。


「場をわきまえろ。最上級騎士の身のために入れたが、ここは宮殿の内側だぞ。そもそもなぜお前のような下級騎士が、ヘディン家の最上級騎士と、」


「何をしている?」


 低く、艶やかな声が兵の言葉を遮った。兵たちは、はっと振り向くと目を丸くする。


「ア、アスタル様!」


 言葉より先に跪き、彼らは長槍を下ろした。声の主を見やると、一番近い渡り廊下に、豪奢な上着を纏い、長い黒髪を束ねた男が立っていた。整った顔に面白がるような冷たい笑みを浮かべている。


「エイラが見当たらないので探しに出てみたら、まさにその名が聞こえるじゃないか。驚いたよ」


 彼のいうことが本当ならば、彼はエイラが仕える主人、皇帝庶子アスタルだ。血の気が引き、さっと跪く。


「そこの。それは、エイラなのかね?」


 思わず顔を上げる。


「そう。君だ。君が、エイラを連れてきたのか」


「……はい」


「こちらへおいで。少し話がある。番兵は役目に戻りなさい」


 アスタルの言葉に促されるまま、エイラを抱えて駆け寄る。あと少しというところで、アスタルは口を開いた。


「そこで止まりなさい。地面にエイラを置いて、こちらへ」


 ロタは足下を見た。濡れた石畳が、雨の雫に打たれている。


「ですが、」


「これは命令だ。聞いてくれないと、君と、エイラの身に困ったことが起こる」


 ぞくりとした。言うことを聞かねば、本当に悪いことが起こる気がした。


「何をしているんだね、早くおいで」


 何度もためらい、腹が握りつぶされるような悔しさを感じながら、ロタはエイラの身体を地面に横たえた。なるべく雨が当たらないよう。うまくマントを重ねる。相変わらず真っ白な顔で眠るエイラの顔にも、フードをきちんとかぶせ直した。けれど、強さを増した雨は、とうに湿りきったマントに強く打ち付ける。


「いい子だ。さあ、こちらへ」


 重い足を、一歩ずつ彼へと向けた。渡り廊下の屋根の下へと導かれて跪いたロタに、アスタルは口を開いた。


「名前は」


「ロタ・ゼネル、です」


「ロタ、君は、エイラと何度会った?」


「それは」


 濡れたシャツのせいだけではない、凍るような寒気が背中を這い登る。アスタルは軽く笑い、続ける。


「責めようと言うんじゃない。それに、僕はエイラの出自もよく知っている。君がもし僕の考えている通り、エイラの幼少の頃の友だというなら、会いたくなる気持もよく分かるよ」


 アスタルに、会話を掴まれていることはわかっていた。けれど、逆らえない。逆らいようがないのだ。


「数えられません。何度も、会いました」


「そうか。ならきっと、君のせいだな。……エイラはつまらない子になってしまった。身体に似合わない醜い野心を、忘れてしまったかのように。このままでは、僕にはあの子は要らなくなる」


 心臓が暴れるように打っていた。エイラは、アスタルのそばにいるからこそ、最上級騎士であるのだ。彼女が必死でつかみとったその地位は、ロタのせいで揺らいでいる。どうしようもない罪悪感が、喉の奥を掴んだ。今の自分のほうが好きだ、そう言って笑ったエイラを思い出す。


「ところでロタ、僕と取引をしないか」


 声音を変えて、アスタルは明るく言った。


「……何でしょう」


「きちんと聞いてくれたら、これからもエイラは私の大切な部下であり続けるし、すぐにエイラの治療に入ろう」


 思わず、顔を上げる。見上げたその顔は、無礼を責めることもなく優しく微笑んだ。


「少しだけ、手伝って欲しいんだ」


 雨音が、柔らかな雑音となってロタを包む。選択肢は、無かった。

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