第35話 雨の中の帰還

 ***


 革のブーツが、湿気を含んでじっとりと重い。騎士団を迎え入れた皇都の街並みは、降りしきる雨に濡れそぼっていた。遠くから時々聞こえる低い雷鳴が、腹の底に響く。


 傷は当然まだ痛んだが、吐き気は消えた。この命が続くことを、神に感謝する。道中で怪我から死んだものも多かった。けれど自分は、彼女を悲しませずに済むのだ。いつ会えるかはわからなかったが、その日が楽しみで仕方がなかった。


 蹄が石畳を蹴る音と水が跳ねる音が交じり合い、自分の息の音を消す。すると、自分がここにいるのかどうかわからない、不思議な感覚が身体を包む。村で、雨の日の水車にいる時も、こんな気分だった。


 目を閉じる。目蓋の裏側に、戸口の形に切り取られた枯草と灰色の空が浮かぶ。尖った枯草の穂先に、水滴が溜まり、揺れ、落ちていく。時折風とともに吹き込む雨粒が、ロタの頬にぶつかるのだ。幼い自分が流した涙と雨粒は交じり合い、ただの雫になって頬を伝った。


 父親がたくさん酒を飲むと、ロタは家にいられなかった。父が立てなくなるほどに酔うまでは、ひどく殴られるかもしれない。だからロタはしばらく隠れていなければならなかった。それなのに、エイラをかばって盗みの嘘をついてからパン屋にはもう隠れられなくなってしまった。けれど、水車小屋の入り口のすぐ内側に、子ども一人がうずくまれるだけの小さな隙間があった。その場所を見つけたとき、どれだけほっとしたことか。雨が止むまで、そこにいればいい。さあさあと降り続く雨の音と、水車が川面を掻く音に身を任せて、ただ膝を抱いていればいいのだ。自分の身を、自分で守れた。父を、怖い人にしなくてすんだ。エイラに助けてもらうばかりではないのだ。幼いロタは、そう、誇らしく思いながら、ゆっくりと目を閉じた。水音を聞いているうちに、夢とうつつが定かでなくなるのだ。


「……タ。おい、ロタ!」


 はっとして声のかかった方を見る。幼い時と同じに、少し現実がどこかに行ってしまっていたようだ。目を何度か瞬いていると、イグが訝しげな色を浮かべてこちらを見ていた。


「大丈夫か、顔色が悪い。まだ吐き気がするのか? 傷は?」


 並走する馬を寄せ、イグは矢継ぎ早に問いかける。確かに、少しめまいがしたが、気にするほどではないだろう。


「平気だよ。少し寒いだけだ。ありがとう」


 暖かなダナイと違い、皇都は灰色で、雨は冷たい。雨よけに着ているマントに、フードから水が滴る。ロタは、その水滴越しに前を見た。


「帰ってきたね」


 小さく呟く。言いながら、そのことばの重さに驚く。戦いは一瞬だった。それなのに、どれほど多くの仲間を失ったか。前の聖戦で参加していた隊が壊滅したために新たに配属されたロタの隊でも、片手では足りぬほどの騎士が死んだ。


「そうだな」


 こたえるイグの声は、いつもより硬い気がした。そういえば、ようやく見つかった彼の親友は、重傷者の乗る馬車の中、いまだ生死の境を彷徨っていると聞いた。じくりと痛む胸を無視して、灰青色にぬれる石畳に視線を落とす。


「いつ宿舎に戻れるかな。すこし眠りたい」


 特に怪我人の多かった今回の聖戦では、ロタのように歩ける者は傷病者棟には入れないだろうし、そもそもロタはそこが嫌いだった。暗い部屋には濃厚な死の匂いが充満していて、下手をすれば自分も飲み込まれてしまいそうになるのだ。


「下級騎士はすぐ解散だろ、こういう時は身分が低くてよかったと思うよ」


 イグは長旅にくたびれた背をぐうっと伸ばした。彼の言った通り、ロタたち下級騎士は練兵場に集められたかと思ったらすぐに解散させられた。健康な者は重傷者の運搬に駆り出されたが、イグが気を利かせて周りに話してくれたから、ロタはそのまま宿舎へと戻れた。数週間空けていた宿舎の部屋は、雨の降る屋外とは全く違う、乾いた埃のにおいがした。後ろ手でドアを閉めると、明かり取りの窓も開けない部屋はとても暗かった。だが、何よりも先に濡れたマントとブーツを脱ぐ。どこかに洗った綿の布があったはずだ。冷たく濡れた身体を拭きたかった。暗い部屋をよろよろと進み、小さな棚の中から布を取り出した。


 顔と、肩と、湿った髪も拭い、ロタはベッドへと倒れこんだ。生きているとか、いないとかはどうでも良くなって、ただ目を閉じた。そして、泥の中に足を取られるように、眠りに沈んだ。

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