第34話 帰ろう
***
巻かれた包帯が、片目を覆う。先ほどまで血が入って開くこともままならなかったその目を隠してしまうと、もう二度とそちらの目ではものを見られない気がして少し怖かった。吐き気は止まなかったが、歩くのには支障ない。全体に帰還命令が出るまで、どこかで休もうと天幕を抜け出す。途端、異国の乾いた風が、かすかな埃の匂いをさせて吹き抜けていった。
喉の奥からこみ上げる不快さを、必死で飲み込む。打ちどころが悪かったのかもしれない。昔、頭を打って怪我をした仲間がいた。大した傷ではなかったのに、彼は吐き気を訴え数日後に突然倒れ、死んだ。自分もそうなるのではないか。嫌な想像ばかりがちらつく。
波のように襲う気分の悪さに耐え切れず、近くの木に身体をもたせかける。そのまま座り込んでしまいたかったが、もう少し見通しのいいところでないと不安だ。息を整え、一度閉じた目蓋を持ち上げる。
「おい、手当は済んだんだな」
快活な声がして、ロタはそちらにぼんやりと視線を写した。
「イグ……さん」
「イグでいい。どうせ階級も同じだろう」
「……あ、あの、さっきはありがとう。一人だったらここまで来るの、きつかった」
親しげに見えるように、少し笑ってみせる。すると、イグは人懐こそうな黒い瞳を細め、にっと笑った。
「ここまで来たんだ。お互い様さ。……ところで、顔色が悪いぞ。どこかで休んだほうがいいんじゃないか」
イグはそう言いながら自然に肩を差し出す。
「……うん、ありがとう」
その肩につかまって、ロタはゆっくりと歩き始めた。見晴らしのいい、日差しの暖かな木立の隙間に出る。イグの肩を離れ、倒れるように背中を木の幹に預けると、少し気分がましになった。
吐き気をどうにかしたくて、目を閉じて深く息を吸う。隣に気配を感じてうっすらと目を開けると、イグがすぐ側に座っていた。
「頭打ったんなら、安静が一番だぞ」
「イグは、怪我しなかったの?」
「擦りむいたくらいだ。あまり戦闘の激しいところにはいなかったし」
「そっか。……ねえ、フレックって知らない?」
怪我をしてから、いや、もっと前――前線を逃げ出そうとし始めてから、見ていない。命の危険がなくなった今になって、ぞわりと不安がこみ上げるのだ。
「フレック? それって、あの、女絡みで問題の多い……」
イグの真剣な顔に耐え切れず、くすりと笑みが漏れる。
「うん。そいつで間違いない」
「そいつがどうしたんだ。さっき見かけたぞ」
安堵が身体を駆け巡る。じわりと目が熱くなった。
「……生きてたんだ」
イグは黒い瞳を数度瞬き、小さく肩をすくめて呟いた。
「よかったな」
「イグは? 友達、見つかった?」
恐る恐る問いかけると、彼は痛みをこらえるような顔をして、ゆるゆると首を振った。
「まだだ。逃げ足の早い奴だったから、死んではいないと思うけど」
膝を抱え込み、頷く。
「……そっか」
イグはしばらく黙っていたが、突然何かを宣言するような口調で言った。
「ロタ。人の心配もいいけどな、まずは自分だぞ。見たところ、あのフレックよりはお前のほうが重傷だ」
自由な片目で彼を見れば、イグは優しく笑った。
「戦いには負けたけど、俺達は生き残った。ちゃんと帰ろう」
一瞬、ぼうっとする。そうだ。帰れるのだ。怪我をした時に思い出した泣き顔が、また脳裏によみがえる。けれど、その顔はもうロタを苦しめることはなかった。エイラが泣いたらその涙を拭いてやればいい。自分は、ちゃんと生き残ったのだから。
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