第31話 短い夏、少女の恋

 ***


 柔らかだった葉の色は日に日に色みを増し、濃い命の香りが漂う。滲んだ汗を透明な風が乾かし、陽は高く高く空へ上り大地を照らした。夏だ。短く鮮やかなヴェトルの夏がやって来た。


 爽やかな風が鼻先を撫で、通り過ぎて行く。久しぶりに剣を振りかいた汗を、その風は心地よく冷やしていった。聖戦を間近に控え、訓練にも熱が入っている気がする。今日などは、怪我が完治したばかりのロタも、他の騎士と同じように剣を振った。どこから集めてきたのか、下級騎士の数はいつの間にかロタが入団した時と同じほどまでに回復していた。けれど、不安は強まるばかりだ。


 ロタは空を見上げ、目を細めた。空は青く、日差しは強い。一年の半分近くを雪に覆われているヴェトルの戦士たちは、夏の戦いを知らない。ここよりずっと温かいダナイで暮らしてきた兵は、暑さには強いはずだ。気付くと、胸に下げた三叉剣のチャームを握りしめていた。神の求むることだ。間違いは、きっとない。


 そういえば、給金が少し余っている。まだしばらく明るい。店も開いているはずだ。ロタは軽く頭を振って暗い考えを追い払い、城下へ続く道に足を向けた。


 大通りを歩いていると、つい数週前にあった花祭のことを思い出す。この辺りで花を買って、あの広場で踊って。あの時のわくわくとした気持ちがよみがえる。最近、エイラとは会っていなかった。花祭の後、一度だけロタの部屋を訪れたが、黙って手を握るばかりで、何も語ってはくれなかった。目元に浮かぶ疲れが、ただ心配だった。ため息をつく。こちらから訪ねられればいいのに。エイラがしてくれたように、菓子を持って、一緒に食べようと言いたかった。俯いたままぼうっと歩いていると、明るい声が聞こえた。同時に、背中に何かがぶつかってくる。


「ロタ!」


 背中に抱きついた少女を見下ろすと、その顔はにっこりと笑っていた。


「城下で見かけるなんて思わなかったわ。嬉しい!」


 軽やかに一歩進み出て、首を傾けながら笑うハイケは女の目から見ても愛らしい。


 ふんわりと温かな気持ちになり、こちらからも声をかけてみる。


「私も嬉しい。今日はほんと、偶然来たから。ハイケはよく来るの?」


「そんなにたくさんは来ないわ。あなたよりは多いと思うけど」


「確かに。花祭の後来たのは初めてだ……今日は、どこに行くの」


「決めてない。あなたこそ」


 言われてみれば、自分も特に決めてはいなかった。肩から下げた小さな鞄に入っている額を思い出す。大した額ではない。行けるとしたら、


「菓子屋かなあ」


「もしかして、花屋の向かいの?」


 あの日エイラと一緒にたどった道を思い出し、頷く。


「そうそう。花びらの砂糖漬けはもう終わっちゃったと思うけど。ねえ、花祭、フレックと回ったんだって?」


 何気なく話を振ると、驚いたことにハイケはぱっと頬を染めた。


「……それ、フレックから聞いたの?」


「え、うん」


 さっきまであれほど元気だったハイケは、突然黙りこんでしまった。


 困った。こんな時に限って、女をひっかけてばかりいる彼の行動ばかり思い出して、ロタはひとり眉をしかめる。親しげで甘い彼の顔立ちは、確かに多くの女たちにとって魅力的だろう。けれど、ハイケがまさかその中に入るとは思っていなかった。


「ハイケ……あの、フレックはね、」


「知ってるわ。いっつも女の人と遊んでるんでしょ」


 両手の指を絡ませたり、解いたりしながら、ハイケは言う。


「ああいう軽い男が、一番嫌いだわ。……きっと、誰にでも優しいのよ。私のことなんか、子どもとしか思ってない」


 会った瞬間にエイラに声をかけるようなところは、今だに受け入れがたい。けれど、ロタが怪我をした時も、落ち込んでいる時も、フレックはいつもちゃんと考えて、そして声をかけてくれる。


「たしかに、あいつは優しい」


 どうするべきか、腕を組んで考えこむ。すると、ハイケは慌てたようにこちらを見上げた。


「ロタは、全然気にしなくていいのよ、私も、早くこんな気持ち忘れるように、」


「忘れなくていいと思う」


 あまり考えずに言ってから、自分で納得する。


「フレックは、そろそろいい加減な生活を止めるべきだと思うし」


「でも」


「好きなんでしょ?」


 にやっと笑ってみせるとハイケは真っ赤になってこちらを睨んだ。


「ひ、他人事だと思って!」


 怒るハイケが可愛らしくて、くすくすと笑みが漏れる。


「ごめんごめん。でも、私、ほんとにフレックが心配なんだ。ハイケなら安心な気がする」


「そう、かなあ」


「……もうすぐ、聖戦でしょう」


 雲が日差しを遮る。ひんやりと冷たい影が、ついさっきまで陽光に暖められていた頬を冷やす。


「いつ死んでもいいなんて、きっとフレックは思ってない。でも、何かのためって思うと、帰ってこれる気がして、」


 ハイケが足を止めた。振り返って顔を見ると、不安と恐怖の入り混じった色を浮かべて、少女がこちらを見ていた。そして、みるみるうちに目を潤ませる。ぎょっとして駆け寄る。


「うわ、あの、ごめん。変なこと言った」


 胸の前で握りしめた小さな手が、震えていた。


「行っちゃうのよね、ロタも」


 ハイケは宮殿に仕える身だ。聖戦がどれだけ危険なのか、知っている。だからこそ、言ってやらねばならない気がした。そして、自分に確かめるためにも。小柄なハイケの目線に合わせてかがみ、小さな手を握り込んで微笑む。


「大丈夫、絶対帰ってくる。フレックも。帰ってきたら、今度は皆で会おう」


「エイラ様も一緒に?」


「そうだね、きっと来てくれる」


 口を閉じたときには、ハイケは目をごしごしとこすって笑みを返していた。


「約束よ!絶対だからね」


「うん。約束」


 頷いた途端、ハイケはスカートをふわりとさせてロタの前に出た。


「そしたら、もうこの話はおしまい!早くお菓子屋さんに行きましょう」


 言いながらハイケは宮殿付きの侍女にあるまじき速度で駆け出す。ロタは、慌ててハイケの後を追う。


 日差しは、いつの間にか戻ってきていた。

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