第2章 『聖戦』

第10話 それは空虚で凶暴で

 認めてしまえば、これほど楽なことはなかった。結局、どうやったって自分の過去や出自が消せるわけでもない。なら、受け入れてしまえばいいのだ。アスタルのカップに新しい紅茶を注ぎながら、エイラは主人の持つ書類に目を引かれた。


「アスタル様、それは」


「ああ……言っていなかったか。今、ヘディン家とはよくやりとりをしているんだ」


 今や自分の名前にもなっている見慣れた綴りに、目を瞬かせる。


「……外交で、何かあるのですか」


 エイラを拾ったヘディン家の者は、昔から外交に関する職務を担うことが多い。アスタルが水面下で行っている計画に関連があるのだろう。しかし、アスタルは意味深げに眉を上げ、切れ長の瞳でエイラを射た。


「もちろんそれもだけど、彼らは君のこともよく尋ねてくるよ」


「そうですか」


「君の家族だろう、つれないな」


 揶揄する響きに口を結ぶ。ヘディン家の人々には感謝している。寒村の孤児に過ぎなかった自分がここまでのし上がれたのも、ヘディンの家柄によるところがほとんどだ。しかし、エイラがどんなに貴族としての振る舞いを身につけても、彼らの視線の裏には侮蔑の色が消えなかった。だから、感謝はしても、家族と愛おしむ気持ちはどうしても持てない。それはアスタルもよくわかっていることだ。だからこそ、こうしてからかう。


 ――家族。孤児のエイラには、家族というものはどうしてもわからない。だが、愛おしみ大切に思える者を家族と呼ぶのであれば、ちらつく顔があった。そこまで考えて、頭を振る。馬鹿なことを考えてしまっていた。頭を切り替える。そもそも、ロタは母親を早くに亡くしていたが、父親がいたはずだ。ロタにとっては父親が家族だ。エイラなど他人にすぎない。翳った気持ちを振り切るため、アスタルに話しかける。


「外交を掴んで、どうなさるおつもりですか」


「いつも言っているだろう。この国はもうだめだって」


 思わず扉を見る。固く閉まっていた。誰も聞いてはいないだろう。再びアスタルの話に耳を傾ける。


「我らヴェトル帝国がシェズ正教の後継者として独立して数十年。西は異教徒国家ダナイに陣取られた。聖戦などと聞こえのいい言葉を使っているが、要はダナイに先に押さえられた平地を我が物にしたいだけだ。だが知っているだろう? ダナイはこの数十年で目をみはるほど強くなった。今や大国だ」


 アスタルはいつもよりやや芝居がかった口調で、歌うように語った。ペンを置いて肘をつき、組んだ手の上に顎を乗せる。獲物を狙うようなぎらつく目つきに、背筋がぞくりと波打つ。


「そして東のグリャナ。シェズ正教を認めぬ彼らが我らヴェトルの『聖戦』に力を貸すわけがない。おおかた、ダナイとの交易を始めるためにさっさとヴェトルが滅びればとでも思っているはずさ。つまり、ヴェトルは虫の息。一人で生きられるわけがないんだよ」


 低く、澄んだ声に吸い込まれそうになる。


「まさか、ヘディン家と懇意にしているのは、」


 アスタルの目を見る。外交を掌握し、思い通りの使節を送る。


「エイラ、君は頭がいい。それでこそ僕が特別に引き抜いたかいがあるというものだ」


「アスタル様は、もしや」


 なおも問おうとするエイラの言葉を遮るように、アスタルは微笑んだ。胸の奥がざわつく笑みだ。


「僕はこの国が大好きだ。この国の民も。むやみに死んでほしくない。……わかるね」


呆然とするエイラから視線を外し、アスタルは再びペンを握った。美しい跡が紙に描かれていく。


 もしアスタルの言葉がエイラの考えている通りならば、そして、アスタルの思惑がもしうまくいくならば、聖戦は真に無意味だ。


 ――聖戦で殉ずれば救いがあるって、


 そう言って微笑んだ友の顔がちらついた。心に、細く鋭い針を刺されている気分だった。破れた小さな穴から、どろりとした思いが黒い筋を描き垂れていく。救いとは、一体何だ。何の救いがあるというのだ。その問に、答えは見つけられなかった。

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