第9話 パンと少女

 ***


 その十日間は、永遠のように長かった気もするし、瞬く間のように短かった気もする。その日の任を解かれたエイラは、部屋に戻るなり黒の外套を着こみ、日没直前の外へと飛び出した。雲が散った空は濃い朱に染められ、みるみる暗くなっていく。あれから、数えきれないほど考えた。自分はどうすべきなのか。どう生きるべきか。答えはまだわからない。けれど、今自分はこうしてロタに会いに行くのだ。陽が落ちる。約束の時間を超えてしまった。先日の明るさとは打って変わって迷いそうな薄闇の中、エイラは道を急いだ。だが、森に足を踏み入れたはいいものの、木々の隙間を駆け抜けるたびに、二度と帰れないような恐怖が背につきまとう。


 この恐ろしさを、長い間忘れていた。暗闇の中、一人で逃げる。乾いたパンを一つだけ掴み、襤褸を着て、凍るような寒さの中を裸足で走る。見つかってはいけない。


 食べるために、走って、走って、


「エイラさん!」


 びくりとして足を止める。おかしいほどに息が上がっていた。走り続けて熱いはずの身体は、がたがたと震えている。木々が避けたような目の前の空間には、ロタが一人で立っていた。大きく息を吸い込み、そろそろと吐き出す。胸に手を当て、鼓動を押さえつける。


「どうかしましたか?」


 薄闇の中でもわかる暖かな瞳の色に、泣きたくなるほど安堵した。ロタは早足でエイラの側に歩み寄って体を屈めると、顔を覗きこんで心配そうに瞬いた。


 その表情で、足の力が抜ける。ふらふらと倒木に近寄って座り込み、両手で顔を覆った。指の隙間から息を吸い込み、呟く。


「あのときも、こうでしたね」


「……あのときって?」


 気遣うように背に手をやりつつエイラの隣に掛けながら、ロタは不思議そうに聞き返す。


「私が、何も恵んでもらえず、働くこともできず、パンを盗んで逃げたとき。森の中であなたに会ったでしょう」


「……ああ、」


「あのときも、あなたは何よりも先に、私を心配してくれましたね。あとでばれたときにも、身代わりになってくれた。私が盗んだと知れたら、これから誰も働かせてくれないよって」


 記憶が口から溢れる。止められない。


「ああ、あのときは、それが一番いい考えだって思ったんですよ」


ロタはさらりと言う。その声音に、エイラの記憶を覆っていた硬い殻が、ぱらぱらと剥がれ落ちていく。


「あのときほど、自分が嫌いだったことはないわ。私の代わりに殴られるあなたを、ただ見ているだけの、卑怯な私」


「でも、エイラさんはいつも私を守ってくれたじゃないですか。強くて、かっこよくて……私の憧れです。そういえば、ロタは泣き虫だって、いつも怒られてましたっけ」


のんびりとした口調に、何故か涙がこみ上げる。守られていたのはどっちだっただろうか。ひとりきりのあの世界で、エイラにとって、ロタだけが生きてそこにいた。


 顔から手をゆっくりと離し、ロタを見る。


「ロタ」


 もう、戻れるわけがないのだ。ロタと自分は、再び出会ってしまったのだから。


「いつのまにか、こんなに背が伸びて、男の騎士を何人も倒すほど強くなってしまったけど、あなたは全然変わらないんですね」


 泣きたいような気持ちで言葉を紡ぐ。近くを見るのもやっとな薄闇に、ロタの笑顔が浮かび上がった。


「あなたもです。エイラさん」


 何度も何度も考えて、気付いてしまった通りだった。自分は記憶を捨てて生きることなどできない。ロタを忘れては、生きられない。


 認めてしまった安心感と、底なしの絶望が同時にエイラを包み込んだ。くらくらする頭を支え、口を開く。


「傷はどうですか」


「もう動けます。切り口が綺麗だったみたいで、もうほとんどふさがりました」


暗い思いに蓋をするように、温かな気持ちがこみ上げる。


「よかった……。ああ、村は今、どんな様子かしら」


 エイラが尋ねると、明るかったロタの表情が微かに翳った。


「実は、私ももう何年も帰っていないんです」


 風が吹く。とうに冷えきった頬が、ちりちりと痛んだ。


「エイラさんが村を出て行ったあと、急に身長が伸びたんです。村の男衆に混じって力仕事とかしてたんですよ。びっくりでしょう」


 ロタはふふ、と微かに笑った。その笑みを崩さぬまま、前を見る。


「でも、いろいろあって。もう村に帰れなくなりました。それで、護衛とか傭兵とかやってたんです。だから、私が覚えてるのは、もう何年も前の村だけ。相変わらず、小さくて、貧しい村ですよ」


 淡々と語るロタの横顔が淋しげに見えて、苦しくなる。何があったかを聞くのは、酷な気がした。


「だから、剣闘大会の噂を聞いて、これだ、って思いました。都なら、エイラさんがいるかもしれないって」


「えっ」


 思わず声を上げる。


「私のために、剣闘大会に?」


「はい。こんなにすぐ会えるなんて思ってませんでしたけど」


 辺りが暗くて助かった。照れくさくて熱くなった頬を、隠してくれる。


「なあんだ」


 エイラは、へその辺りからくつくつとこみ上げる笑いに身を委ねた。


「私たち、もとからまた会うことになってたんですね」


ロタがきょとんとしてこちらを眺めている。何もかもが偶然なのだと思っていた。けれど、違った。自分たちはいつかは会う運命だったのだ。ならば、仕方がない。


「さあ、今日はもう暗いですから、また十日後……いえ、五日後、ここで会いましょう」


「そうですね」


 少し軽くなった気持ちで、立ち上がる。さっき感じた恐怖は、どこかに行ってしまった。辺りはもう真っ暗だった。空に残る幽かな灯りだけが、帰り道を示している。


 立ち上がったロタにそっと手を振り、エイラは帰路へと踏み出した。

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