第4話 脱走者たち

「なんかこの紙、文字が書いてあるみたいだけど……」ヒカリが首を傾げた。


「ヒカリって、字が読めるの?」

「ううん、まさか。読めないよ」


 孤児院は常に人手不足なため、孤児の学習面までは見ていられない。そのため大抵の孤児院出身者は、文字の読み書きができなかった。


「イヌは? 読める?」

「わたしも無理。まあ、気にしなくていいでしょ。ただのゴミだよ。捨てちゃえ」

 イヌはそう言うと、二段ベッドの上段につま先立った。格子窓の傍まで手鏡を持っていき、その角度を調節する。


「何してるの?」イヌの行動を、ヒカリは不思議そうに見上げた。


「この鏡を使って、窓の外の様子を見られないかと思って。この窓はめ殺しだから、開けられないでしょ? 格子は邪魔だし」

「どうしたの今さら。明日には棟の外へ出られるのに」

「だって気になるじゃん。到着してすぐにここへ連れて来られて以来、ずっと外の景色を見てないでしょ? 気分転換だよ、気分転換」

「もう、そんなことするくらいなら、掃除を手伝ってくれたらいいのに」


 ヒカリは不満げに唇を尖らせた。イヌはそれを無視し、鏡の角度調節に集中する。

「あ、見えた……」


 鏡ごしに見る外の風景は、剥き出しの大地にまばらに生えた草、そして春らしい薄曇りの空。

 ふいに視界を、灰色の作業服姿の人影が横切った。その瞬間イヌは息を呑み、カッと目を見開いた。

 作業員たちは担架を運んでいる。次から次へと、その列は絶えない。担架に横たわっているのは、自分とそう歳の変わらない少年少女で、みんな体のどこかが欠損している。引きちぎられたように片腕がない者、膝下を失っている者、顔の半分が潰されている者――。


「ひぃっ……!」イヌは喉の奥を引きつらせた。

 腹部に大きく爪痕のような傷を負っている者が通過していくのを見て、確信する。

 担架で運ばれている者たちはみんな、狩りで龍にやられたのだ。


 初日に聞いた、丸山の言葉を思い出す。

「龍狩りは安全な仕事です」

 そんなの嘘じゃないか。体の一部を失うほどの重傷を負って、果たして安全な仕事なんて言えるのか。

 騙されている。

 自分たちは支部長たちに、この会社に、騙されていいように使われようとしているんだ。


 こんなところで人生を終わらせたくない。この健やかな手足を、瑞々しい肌を、失いたくはない。

 最初から怪しげな仕事だとは思っていた。

 気が付いてしまえば、すべてが異常に思えてくる。訓練と称してこの建物に幽閉されているような今の状況も、妙に高い位置にあるはめ殺しの窓も。

 きっと、訓練中の子どもにさっきのような光景を見せたくないから、訓練棟はこんな構造をしているのだろう。手鏡を持っていたからたまたま怪我人が運ばれる様子を見られたけれど、本来なら目にすることのなかった光景だ。


 逃げよう。

 イヌは即座に決断した。

 元々仕事には困っていなかった。ここから逃げても、前の生活に戻るだけだ。失うものなんてない。また男たちに愛想を振りまいて金を稼ごう。「誰にでも尻尾を振る。おまえは犬みたいな奴だな」などと馬鹿にされたって、ここで死ぬより遥かにマシだ。


 イヌはベッドを下り、たった今自分が見た光景をヒカリに話して聞かせた。この真面目でおとなしく、人の好い友人を見捨てて、ひとり逃げるわけにはいかないと思った。

「龍狩りなんてやっぱり危険な仕事なんだよ。このままここにいても、わたしたちは使い捨てにされるだけ。気が付いて良かったよ。今すぐ一緒に逃げよう」


 イヌはヒカリの腕を掴むと、強引に部屋から連れ出した。早足で通路を進む。


「ちょっと待ってイヌ、逃げるったって一体どうやって?」ヒカリが焦った様子で尋ねた。「出入り口には鍵がかかってるし、教官の目もあるから外へなんて出られっこないよ」


「厨房から逃げられないか、試してみる」

「厨房?」

「食材用の搬入口があったでしょ? あそこなら正面の出入り口程は頑丈に施錠されてないかもしれない。厨房は教官の休憩室から離れてるぶん、不審な動きをしても目立ちにくいし。それにもし見つかったとしても、食べ物を取りに来たんだって言えば誤魔化しがきく。男子なんかはよく厨房に侵入して、色々つまみ食いしてるって話だから、わたしたちも怪しまれはしないでしょ」


 しかし、そうやすやすと事は運ばなかった。搬入口となるシャッターには、簡単には壊せそうもない鍵がかけられていた。


「な、何か破壊力のあるものがないか探そう」

 二人は手分けして、鍵を壊すのに使えそうな道具がないか、厨房内を探した。


「駄目だ、何もない……」

「あ、そうだ。最後に自主練しておきたいからって言ってさ、訓練部屋から銃を借りてきてそれで」

「駄目。銃を持ったまま部屋を出ようとすれば、警報機が作動するって初日に教わったでしょ?」

「じゃあどうしたら……」


「ねえ、ヒカリたちも何か食べ物漁りに来たの?」


 突然、背後で声がして、ヒカリとイヌは同時に飛び上がった。

 二人が振り返ると、そこには食べかけのパンを手にしたクロが立っていた。「あ、ごめん。驚かせた?」


「クロ、いつからいたの?」

「少し前から」

「嘘、入って来たの全然わからなかった。ちゃんと足音させて歩いてよ。びっくりする」

「うん、ごめんね」


 クロはヒカリとイヌの表情を見て、悟る。「二人……今何かやろうとしてた?」


「じ、実は……」


 ヒカリは訓練棟から脱走しようとしていることを、クロに打ち明けた。


「本当に逃げるの? 逃げてもこの先どうなるかわからないんだよ。行く当てだってないんだろう? 大変な思いをする覚悟はあるの?」クロは冷静に尋ねてきた。


 ヒカリはイヌの顔色を窺い見た。イヌはこくこくと頷いて返した。


「逃げるよ、わたしたち」ヒカリはクロに告げた。


「……わかった」

「クロはわたしたちを止めないの?」

「止めないよ。ヒカリが決めたことなら、それでヒカリが幸せになれるのなら、僕は止めない」

「ねえ、クロも一緒に逃げようよ」


 だがクロはゆっくりと首を横に振った。「僕は残るよ。龍狩りが安全なわけない。そんなの初日から気付いていたさ」そして、シャッターにかけられた鍵を指差した。「これを開けられればいいんだね?」


「開けるっていうより、壊せないかどうか試していたところなの」イヌが答える。


「ちょっと待ってて」

 クロは握っていたパンを急いで口に詰め込むと、調理器具のおさめられた棚に近付き、引き出しを漁った。間もなく、ステンレス製の細長い串を手にして、シャッターの傍まで戻って来る。


 串の先端を鍵穴に差し込んでから数秒後、微かな開錠音が響いた。

「開いたよ」


「うっそ、ほんとに? すごい! どうやってやったの?」イヌが驚きの声を上げた。


「どうやったかは秘密だよ。僕、ここに来るまでは空き巣の真似事をして食いつないでいたから、簡単な鍵なら開けられるんだ」

「ねえ、今度鍵開けのコツを教えてよ」

「今度はないだろう。二人はここを出て行くんだから。僕とはもう会えない」


 クロの言葉に、ヒカリは寂しさを覚えた。「色々ありがとうね、クロ」


 クロが二人の通れるギリギリの幅までシャッターを持ち上げた。ヒカリとイヌは手を取り合い、そこから棟の外へと這い出た。

「バイバイ、ヒカリ。元気でね」

 クロの呟きが耳に届いたと同時に、シャッターは閉められた。中から、クロが元通り鍵をかけ直しているらしい音が聞こえてくる。


 これでもう、後戻りはできない。

 

 さて、どの方向へ行くべきか。二人は思案する。

 シャッターの前は、がらんとした空き地になっていた。食材を乗せたトラックの駐車スペースとして使っているらしく、タイヤの跡が伸びている。

 これを辿っていけば街へ行けるかもしれない。ヒカリの案を、イヌは即座に切り捨てた。


「普通に道へ出たんじゃ、すぐ人目についちゃうじゃん。見つかって、連れ戻されるよ」

「たった二人訓練棟から抜け出したところで、わざわざ連れ戻しに来たりするかな」

「脱走したら厳しい罰を受けることになるって、初日に遠藤教官が言ってたでしょ? それってつまり、脱走者は捕まるってことじゃん」

「追っ手が来るの?」

「たぶんね。だから人目につかないよう気を付けながら、まずは支部から遠く離れよう。距離をとった後で、改めてどの方向へ進むか決めればいい」


 どこから、誰がこちらを見ているかわからない。

 二人は身を低くして素早く斜面を下り、生垣まで辿り着いた。

 高さはないが、厚みのある生垣だ。

 密集した葉を掻き分け、生垣の向こうへまろび出る。すると今度は、有刺鉄線が二人の行く手を阻んだ。だが多少引っかき傷を負うことさえ厭わなければ、こんなもの簡単に越えられてしまう。

 最初にヒカリが、次にイヌが金網を乗り越えた。

 そして二人は、眼前に広がる森の中へと飛び込んでいった。

 

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